254 赤子――飛行石はない――
直径三百平方キロメートルもの大きな大地の塊が雲の上を飛んでいた。
地面からスプーンでくり抜かれて持ち上げられたかのように浮かんでいる大地には、鉱石で作られたいくつもの民家が存在している。そこに住んでいるのは白い羽が生えている――天使だ。
空に大岩のような大地が浮かんでいれば騒ぎになってもおかしくないが、どういうわけか地上の人間達には天界と呼ばれる大地を見ることはできない。それを目にできるのは天使か、その血が流れている生物のみなのだ。
「ふむ、今日も問題はないか……」
天界に存在する古い遺跡のような建築物に一人の天使である白髪の老人が入り、内部にある一つの石像を見て呟く。
遺跡にはその石像以外には何もない。傷一つないきれいな状態で保存されている石像に近付く度、老人は汗を流して年のせいではない足の震えが酷くなる。
――ピシッ!
間近で隅々まで穴が空くほど見ている老人は、嫌な音が聞こえてきたことで眉を顰める。大量の汗を額から流しながら、ついさっき見た場所も含めて細部まで見ていると……見つけてしまった。
「なんということだ……」
石像の首辺りに小さいが亀裂が走っていたのだ。それはあってはならないことだと老人はいやというほど知っている。
「伝承通りならばマズいことになる……この天界に厄災が降りかかるまで、時間がない」
天界に伝わる伝承。老人が少年の頃から聞かされ続けてきた厄災。
闇の存在である魔人が大昔に天界で大暴れし、暴虐の限りをつくしていた。それを止めるべく一人の若者が聖なる剣を作成し、作られた聖剣の意思と呼べる生命体が魔人と激闘を繰り広げ封印した。魔人は石像と化し、聖剣は地面に刺さったまま誰にも抜けず放置された。
深刻な顔をして遺跡から出ると自分の方に走ってくる少女を目にして、老人は無理に表情を柔らかくする。
「おじいちゃあん! 大変大変大変なの!」
駆けてきたのは老人の孫だ。元気に走るその姿を守りたいと思い、シワが目立つがにこやかな笑顔を浮かべる。
「どうしたミーファ。何が大変なんだ?」
「大変なんだよっ、あのねあのねっ、落ちちゃったの!」
「落ちた? 何が……? ミーファ、落ち着いて話してくれ」
このままでは話の全容が分からない。宥めるように頭を撫でられた少女は落ち着くことなく身振り手振りで伝えようとする。
「だからあ、落ちちゃったの! 中央広場に刺さってるきれいな剣が落ちちゃったの!」
一瞬、考えることを放棄したくなるほど老人は動揺した。少女の言っている落ちた剣というのは間違いなく伝承に伝わる物だと理解してしまったのだ。
「ひ、広場……早く広場に……!」
「あっ、待ってよおじいちゃん!」
背から生えている白い翼を広げて老人は飛び立ち、少女もそれを追いかけるように飛ぶ。
焦燥に駆られて中央広場に降り立つ老人は真っ先に剣が刺さっていたはずの広場の中心に目を向ける。
驚愕で目が見開かれた。老人が目にした場所には剣など刺さっておらず、その部分だけ崩壊して穴が空いてしまっている光景だった。
「あ、ああ……!」
それがどれだけ絶望的なことなのか。もし広場に他の天使がいれば老人の気持ちを察することもできるだろう。追いついた少女には剣の重要性など分かっていないのできょとんとしている。
「お、終わった……! 天界は、滅びる……地上も、魔界も、全て滅びる……!」
両膝と両手を地面につけて四つん這いになった老人は崩壊している場所から真下を見て、無力さゆえに落ち込んでしまう。
穴から見えるのは真っ白な雲だけで、その下がどこなのかは老人にも分からない。状況が分からない少女は相変わらず首を傾げているだけだった。
「魔人に、滅ぼされる……!」
――世界の新たな脅威が目覚めるときは近い。
* * * * * * * * * *
少し癖毛である黒髪が首元まで伸びている少女が、人通りの少ない朝の道路を落ち込んだ様子で歩いている。その少女が右腕につけている白黒の腕輪から声が発された。
「神奈さん……やっぱり嫌だったんですね」
「そりゃそうだよ……何が悲しくて隼と結婚しなくちゃいけないんだよ。拷問とかより酷いよこんなの。ああ、どうして承諾しちゃったんだ私は……。過去に戻って自分の頬をぶん殴りたい……」
先日の一件。裏社会にのさばる殺し屋達、その業界でエリートとされる三つの家……血みどろ三羽。そのうち鷲本家と隼家の婚約騒動を神奈は知り、本当の想いを押し殺してしまっている友人を助けるために婚約会場に乱入した。
友人である白部洋一と乗り込んだ会場の場所を知るために、神奈は隼家当主代理である隼冬美とある約束をした。それが冬美の息子であり、神奈の自称ライバルでもある隼速人との結婚だ。
結婚といっても、できる年になるまではできない。それは法律として定められているので、神奈と速人は婚約という形になる。しかし神奈と速人の仲は良好とはいえない。出会った当初と比べればマシになっているものの、二人の仲はいまだに友人まで発展していない。二人のお互いに対する認識は「腐れ縁のようなライバル」が一番近いだろう。
「そんなに嫌だったならどうして……いえ、それは野暮でしたね」
「あの時はあれしかなかった、だから……だから……だ、から……でも納得できないいい! どうして私と隼が結婚しなくちゃいけないんだよ! これからあいつと一緒に生活するとか嫌だあああ!」
「正確にはあと二年後くらいからですけどね」
「それでも嫌だあああ!」
「しかも結婚する目的は子供でしょう? つまり神奈さんは隼さんとセック――」
「うああああああああ!」
神奈は近くの電柱に頭を何度も打ちつけながら叫ぶ。
「す、すいません……さすがに意地悪でした。想像しただけで私も吐きそうです。神奈さんが喘ぎながら隼さんの名前を――」
「気持ち悪い想像をするなあ! ……ああ、もういいや落ち着いた。私は全てを諦めた……これから私は無になって生きるんだ」
電柱に頭を打ちつけるのをやめ、また歩き出した神奈の表情は死んでいた。視界に何も映らない、耳に何も聞こえないような完全な無であった。それほどまでに神奈は結婚することに対して嫌悪感を抱いているのだ。
「か、神奈さん。元気出してくださいよ。ほら、新しい魔法を教えますよ! エコーンという素晴らしい魔法で、今までにトウモロコシの粒を食べた数だけ、言葉がこだまになって響くんです!」
「安定のろくでもない魔法だな」
「反応がいつもに増して薄いですね……」
とぼとぼと道路を歩く神奈の向かう先は隼家だ。結婚についての詳しい話をするために、冬美が神奈を呼び出していた。そのために向かうのだから気分が上がらないのも当然だった。
「うん? 神奈さん、上を見てください。何か落ちてきますよ。なんでしょうあれは、ずいぶんとゆっくり落ちてきていますよ」
全てがどうでもいいとさえ思っていた神奈だが、とりあえず言われるがままに上を見てみる。そしてその目に映ったのは多くの雲と、腕輪にはまだよく見えていないが確かに――赤子であった。
「は? え、どういうことだ? ど、どうして赤ん坊が……」
「赤ん坊? 神奈さん、あれが赤ん坊だというんですか? しかし落ちてくる速度が明らかにおかしいですよ。あれが本当に赤ん坊だとするなら、今の五倍以上の速度で落ちてくるはずなんです」
雲が多く青い空から、ゆっくりと、ゆっくりと小さな赤子が落ちてくる。常識的にありえないほど遅く落ちてくる赤子を目にして、神奈と腕輪は困惑することしかできない。
約六分、神奈はずっと眺め続けていた。やがて赤子が手の届く範囲にまで下りてくると、神奈は腕を広げてから赤子を抱いて受け止める。その赤子の体重は人間とは思えないほど軽く、赤子とはこれほど軽いのかと神奈は驚く。
「落ちてきた……」
「ほ、本当に赤ん坊ですね。しかしどうして空から、それもゆっくりと……」
「バカ、あれだろ。あれだよ、飛行石だよ。どこかに飛行石があるんだ」
「どう見ても何も身につけていないんですが」
赤子は雪のように白い肌を大胆に晒し、衣服と呼べるものは何一つ身につけていなかった。
神奈は抱きかかえた赤子を隅々まで観察すると上を向き、死んだ魚のような瞳をしながら呟く。
「この子……隼との子供にすることできないかなあ」
それは一種の希望。好きでもない相手と子作りをすることなく、平穏な日々を送れるのではという希望的観測。しかしそんなことが叶うはずもない。神奈は変わらず死んだ瞳で空を眺め続けて歩き出す。
「無理だな」
腕輪「さあさあ、お久しぶりですね読者様。ようやくストーリーが再開すると聞き……え、週一? なんてことでしょう。この作者、楽したいがために期間を空けたに違いありません!」
神奈「いや偏見がすぎる!」




