240 合縁奇縁――心残り――
頷いて返事を返す暇などなく、洋一ができるだけ小声で話していることが監視役にバレてしまった。
誰も動かず、誰も喋っていない空間では小さな音もよく耳に伝わるものだ。遮断するような他者の声も何かが動く音もないのだから強盗達の耳には小声でも僅かに聞こえてしまった。
「トイレ? 見たところ中学生か高校生か。確かにその年でお漏らしとか精神的にキツイよなあ。でもよお、トイレに向かって実は逃げましたとかじゃ笑えないんだよなあ」
「でも車椅子だぜ? 移動には時間かかるし平気だろ。それに問題は車椅子なことだろ、どうするんだ? これ介護的なアレが必要なのか?」
苦しまぎれの言い訳は思いの外通用していた。
車椅子を使用している人間がトイレに行くのは別にいい。ただ、どうやってさせるのかが分からなかった。もしも手などを使わせてしまえば抵抗として何かされる恐れがあるので、必然的に誰かが付き添わなければならない。
「わ、私が付き添う!」
そう声を上げたのは強盗の誰かではなく――笑里だった。
「いやなんでだよ! 人質が二人でいなくなっちゃうだけじゃん! それにお前女じゃねえか、なんで男のトイレに付き合おうとしてんの!?」
「お前らカップルか……いやカップルでもそんなことしねえよ!」
こればかりは強盗達が正論なので誰かが言い返すことはない。
それに洋一は両脚義足なので実はただの障害者とは違って、誰かが手伝う必要など皆無である。しかしそんなことは外から分かるはずもなく、強盗達は誰かが手伝わなければならないと思っている。
「しょうがねえな。俺さ、介護士の資格持ってるから俺がついてくよ。お前ら二人で監視よろしくな」
「マジかよ、なんで強盗なんかやってんだお前。その道で食っていけるだろ……てっきり仲間は俺みたいに働けなさすぎてクビになった人間だと思ってたのに」
「そうだぜ……俺なんて宝くじで夢みすぎて破産したってのに。闇金にまで手を出したのに大金なんか当たらなくて、借金だらけで家すらねえのに」
「お前ら予想以上に酷い人生だな!? まあいいや……おい、ついてこい。はぁ、これが女だったらよかったのによ」
「あ、ありがとうございます……」
トイレに行きたいというのは言い訳だったのだが、意外にも監視の目を減らす役割を持った。
洋一は介護の刺客を持つという男についていき、多目的トイレに入っていく。道中の会話などなく、先ほどまでふざけていた会話をしていても、強盗としての仕事は行うという意思を感じ取っていた。
多目的トイレとは車椅子に乗っている者や、赤ん坊、その他の通常のトイレでは用を足すことが難しい者達が利用する場所だ。多機能なので利用者が多く中に入れないこともある。
強盗である男は洋一が障害者だと思って甘く見ていたし油断もしていた。何かができるわけもないし抵抗もしないだろうとそう思っていた。動けないから大丈夫。そう思っていたのが最大のミスである。
洋一は突然立ち上がり、それと同時に車椅子に置かれている本が勝手に開かれる。
「ムゲン……夢への誘い」
自力で立てることに動揺した男に、洋一はトンッと軽く指を額に当てた。
抵抗するなら銃で撃とうと考えて銃口を向けようとするもすでに手遅れだ。男の意識は現実から夢へと強制的に移動してしまったのだから。すぐに銃を握っている手の力も、立っていた足の力も夢を見ているせいで抜けていき倒れてしまう。
「ふぅ、一人くらいならと思っていたけど、案外緊張するなあ……」
「だが見事な手際だったと余は思うぞ。効果がある者ならば一撃で終わる魔法を選択するのはいい判断じゃ、物理攻撃だと力加減が難しいからの」
「あはは、君のおかげで使える魔法なんて大抵がそんなものじゃないか」
使用された〈夢への誘い〉は洋一の力ではなく、ムゲンの……夢幻の魔導書の力だ。
対象の額に触れて発動する〈夢への誘い〉もそうだが、夢幻の魔導書には直接的な攻撃魔法は載っていない。記されている魔法は全てが精神的ダメージを与えたり、眠らせたりなどして行動不能にする類の魔法なのだ。
夢現世界も最後のページに作り方が書かれているが、もちろん洋一は再びあの世界を存在させようなどとは思っていない。
「これで一人減ったね。まだまだ残りは多いけど、笑里達がうまくやってくれる」
「信頼しているな」
「あの世界と現実で人間の本質は変わらない。みんなのことはよく知っているから大丈夫だって思うだけさ。とりあえず戻ってみよう、僕の力も役に立つかもしれない」
洋一が監視役の一人とトイレに向かってから、まだ状況は何も変わっていなかった。
動こうにも隙がないのだ。笑里達はじっくりとその隙ができるまで大人しくしている。
(ダメね。せっかく一人減ったけれど監視の目は二人だけでも十分だし、他の人達もまだふざけているように見えて警戒してる。彼の言う通り、少しでも隙ができたなら笑里さんと、一般人より遥かに強いだろう隣の青髪の彼で制圧できる可能性があるけれど……)
(あの車椅子の男の子、なんで私達の名前を知ってたんだろう……? 普段なら変態さんとかかなって思っちゃうけど不思議と名前を呼ばれるのが悪い気分じゃないんだよね。なんだかそう呼ばれて当然ってくらい違和感がなかったし)
(マズイ、早く戻らなければレイに怒られるのは目に見えている。訳を話せば納得してくれるだろうが、僕がいない間は僕抜きで働く二人に負担をかけてしまうだろう。ディストのように重力操作が全体に使えるようになれればいいんだが、生憎と僕では視界に映るものにしかかけられないしな。結局待つしかないか……)
三人が隙を伺っている時、強盗などしていれば必然的に来るだろう組織が向かってきていた。
遠くから徐々に近づいてくるのがけたましく鳴るサイレンの音が知らせてくれる。数台の白黒の車が赤いランプを光らせながら洋一達がいる銀行へと到着する。
「警察だ! 強盗犯につぐ! 今すぐ投降しなさい!」
やって来たのは権力や武力などを利用して社会の安全を守る義務を課されている集団であり、犯罪が起きれば飛んでくる国家の実力ある組織の警察機関だ。
魔力の存在は国もしっかりと把握しているが、元から世界に多くはいないために警察に所属している魔力持ちの人間は数が少ない。しかしなんの力も持たない人間相手ならば圧倒的な武力、拳銃という武器をもって制圧することができるので民衆には支持されている。
魔力を持っていない強盗達には当然恐れる事態であり、少なからず慌てることになった。
「チッ、警察のご登場か。これも金を詰めるのが遅いせい……まさか、おい銀行員! まさかお前らが警察に連絡しやがったのか!?」
ありえそうな可能性がボスの男の頭をよぎったので確認する為に銀行員の一人に銃を向ける。
「ま、まさかそんなわけがないじゃないですか! そんな賭けみたいなことしませんよ!」
「くそっ、じゃあいったいなんでだ!」
ボスの男の疑問の答えは簡単だ。警察が来たのは本当に銀行員が金を用意するフリをして連絡したからだった。
一度目の銀行強盗事件で気絶していた警察官が目覚めて本部に連絡したことで警察本部が動き出し、もたらされた情報で追跡を開始しようとしたところに新たな銀行員からの通報があった。完全犯罪などではない甘さが目立つ犯行だったので、警察が来るのは至極当然な流れだったのだ。
「なあ兄ちゃん、どうすればいい!? 俺達はここで終わりなのか!?」
(知らないよ、なんでこの男は俺を頼ってくるんだよ! ボスはアンタなんだからしっかりしてくれよ!)
もはやどういう状況なのか統真は理解したくはなかった。なぜ自分は強盗のリーダー格であろう男からこんなにも頼られなければいけないのか。なぜ自分はいま警察に追い詰められようとしているのか、もう考えたくはなかった。
「……あぁ?」
そんな絶望的な状況で、一人の男が希望となって目を覚ます。
「どこだここは、つうか誰だテメエは……なに人のこと担いでんだオラアアアア!」
獅子神が目を覚ましたのだ。自分が置かれている状況を理解してから真っ先にしたことは、銃を向けられていることに恐怖することではなく叫んで暴れることだった。
「うわっ、素でびっくりした……ちょっと待ってくれ、いま下ろすから」
このまま人質にしている理由など統真にはない。強盗達に不利な展開になってしまうが、仲間意識など芽生えてないので問題はない。
床に雑に下ろされた獅子神は統真に殴りかかるが、そうくるだろうと行動を予測していたため躱すことができた。
「なっ、兄ちゃんどうして人質を下ろしちまうんだい!? そいつを人質にしとけば警察だって手出しはできなかったはずなのに!」
「生憎だけど俺は君達の仲間じゃないんでね……さあ獅子神! 戦いたいなら存分に戦え! この黒ずくめどもならいくら殴ったって構わない!」
「ははははっ! なるほどなあ、オラアアア!」
自由になった獅子神は勢いよく殴りかかり――統真に拳が直撃する。
派手に吹き飛ばされた統真は殴られた頬を押さえつつ、痛みを我慢してなんとかよろけながらも立ち上がる。
「いだああああああ! ……え? ど、どうして俺を殴った? 殴るべきは黒ずくめの……」
「ああ? テメエも黒ずくめじゃねえか! 殴っていいんだったな、さあ戦おうぜ!」
本人がすっかり忘れていたが、統真も黒ずくめのかっこうをしていたのだ。お世辞にも獅子神の頭はいいとはいえない。だから区別などつかなくて当然であるし、自分を解放してくれた相手でも殴っていいと言われたから戦おう程度の認識である。
「おい兄ちゃん裏切ったのかよ! 俺達は一蓮托生だろお!?」
「し、しまった……だったらこれでどうだ! これで俺はそいつらとは違う!」
「ああ!?」
「ええええええええ!?」
統真は目出し帽を取って自らの素顔を晒した。
くすんだ緑の髪、目元の隈には笑里も獅子神も正体が知り合いだったことに大声で叫んで驚愕する。才華も声には出さないが笑里達と同程度の驚きはある。
「か、影野君……」
「テメエがなんでそんなかっこうしてんだ? さっきまで違うかっこうだったよな……あれか、ファッションってやつか?」
「好きでこんなかっこうしてるんじゃない! とにかく強盗達を制圧するんだ!」
「お、おお? テメエは後回しに……できるわけねえだろおお! 戦いたいやつは俺が決める! お前が戦ええええええ!」
なぜか倒すべき敵を放置して超人二人の戦闘が繰り広げられる。
実力差があるために不意打ちでもない限り、統真は獅子神に重い一撃を喰らわせることができない。数時間前に気絶させられたことは運がよかったのだ。
戦闘は続いているが統真は防戦一方になっていた。
「今すぐ投降しろ! さもなければ三十秒以内に突入する!」
「ああくそっ警察め……裏切ったんならしょうがねえ! この俺が直接制裁してや――」
「「邪魔だ!」」
「ぐぶはっ!?」
並の力しか持たない男が二人に勝てるはずがない。ボスである男は二人に同時に殴られて統真以上に派手に吹き飛び、受付窓口のカウンターに激突して意識を失った。
状況が変わりすぎて把握しきれない強盗達だが、とにかく暴れている人間を大人しくさせようと銃を構える。
そして引き金を引こうとする前に――二つの影が動いた。
「決定的な隙ができた! 今のうちに倒しちゃうんだから!」
「数人は僕によこせ、何もしなかったと知られれば怖いやつがいるからな!」
笑里とグラヴィーがそれぞれ散らばっている強盗達を制圧するために動き出したのだ。
戦闘力がほぼない才華は飛び出すわけにもいかずに、二人を心の中で応援することしかできない。
人質の監視をしていた二人の男がまずやられた。なにをされたのか理解できずに床に倒れ伏した。
「なっ……! くそっ!」
人質からも抵抗されると思っていなかった強盗達は慌てだし、銃弾を発射させる。それが向かう先は獅子神、統真、笑里、グラヴィーの四人だが、当たり前のように全員が最小限の動きで躱してみせる。
「重力操作」
「ぐあっ……! お、おもっ!?」
一人の男が銃を床に落としてしまう。なぜか突然、銃の重さが増加して持てるような重さではなくなったからだ。もしも無理に持とうとしていれば手首が折れて結局床に落とすことになっていた。
武器を失ってからすぐ、グラヴィーの打撃が腹部にめり込んで気絶した。
「やああああ!」
他の強盗達には空手を利用した笑里の攻撃が吸い込まれるように入り、加減しているつもりでも重大な被害が出てしまっていた。内臓が損傷した者もいれば、骨が折れてしまった者もいる。どういった者であれ笑里に殴られた強盗達は激痛に苦しむことになっている。
そして残った強盗達は全員が統真と獅子神の喧嘩の余波で吹き飛んで気を失っていた。
二人はそんなことなど知らずに戦い続ける。本気で戦わなければ大人しくさせることなどできないと、統真は魔力加速を使用する。
「はっはっは! 見えてるぜ!」
あっさりと加速した拳は受けとめられて、殴り返される。
「さ、さっきは通じたっていうのに……! 無駄な成長をしてくれたな!」
「おいおいそんなもんか!? もっと俺を楽しませろおおお!」
「戦闘狂が! 付き合ってられないよ!」
獅子神と打ち合うには、魔力加速することが統真の攻撃の最低条件になっていた。そうでもしなければ自力の戦闘力が違いすぎるのだ。
膝蹴り、肘打ち、ローキック、掌打、それに加えて単純な殴り合いも数秒。一般人には二人の姿すら目に映っていないが、笑里とグラヴィーには激戦という感想を抱かせていた。
「なんて戦いだ……僕の目ではほとんど捉えられない。ブレるのが当たり前だし、ときどき追いきれなくなって視界から消える」
「わぁ、すごいなぁ。私もあんなふうに友情を深めたいなあ」
「……あれが友情を深めているように見えるのか?」
決着はあっさりとしたものだった。
獅子神の猛攻を捌ききれずに、統真は顎に直撃を受けてしまったことで殴り飛ばされて倒れ、立ち上がる気配がもうしなくなった。
戦闘は獅子神がほとんどダメージをくらうことない完封だ。
「はっはっは! 楽しかったぜ、だが今ので闘争本能に火がついちまった。もっと強いやつと戦いてえと思っちまったじゃねえかあああああ!」
恐竜が咆哮を轟かせたかのような大声を出して、獅子神は全速力で銀行から走り去ってしまった。その姿は外にいた警察官からは見えるはずもない。
いきなり風が吹いたと感じた警察官達が全て終わったのを知らずに、犯人が出てこないのでそれぞれが拳銃を持って突入しようとする。
「突入! そこまでだ! この卑劣な強盗……ど……も?」
勇気を持って銀行内に突入したときには全てが遅かった。
強盗だと思われる男達は全員が床に倒れ伏しており、人質だった者達は全員が解放されている。なかにはもう仕事に戻っている銀行員すらいた。
「どうなって、いるんだ?」
「警察のみなさん、お仕事ご苦労様です」
捕らえようとしていた犯人達がもう無力化されていて困惑していた警察官達に、才華が穏やかな表情で歩み寄っていく。
「ま、まさか……ふ、藤原家の……」
才華を目にした警察官のなかには目を見開いて驚く者は少なくない。
藤原家には付き合いが長い神奈や笑里すら知らない謎が多く、その謎の一つが警察との繋がりだ。
警察署長と藤原家の主は友人らしく、警察署にもたまに顔を出すことがあるし、絶対に何かあったら守るように警察官全員に伝えられている。以前、藤原家の人間を誤認逮捕しそうになった警察官一人が一生公園勤務になったことすらある。それだけ藤原家は顔が利く。
「も、申し訳ありません。巻き込まれているとは知らず……お、お怪我はありませんか!?」
「くそっ! 分かっていればもっと早く突入したのに!」
「やばいぞ……給料減らされるかも」
様々な心配をしている警察官達に才華は宥めるように告げる。
「安心してください、みなさんよりも早く解決してしまったのはこちらですし、みなさんの落ち度にはなりません。それよりも、気絶している犯人達を連行していってくれませんか? 倒れているとはいえ怖い思いをした人質だった人達は安心できていないでしょうから」
「りょ、了解しました。おいお前達! 早く強盗達を車に乗せるぞ!」
それから次々と強盗である男達を運んでいく警察官達だが、強盗犯と同じ服装をしている統真も運ぼうとしていた時に才華が声を掛ける。
「あ、彼は大丈夫です。彼は私の知り合いで、実は強盗の仲間に潜入して調査していたようなので運ばないであげてください」
「了解です」
「はい。ああ、それと私が巻き込まれたなんて言わず、犯人を無力化したのもみなさんの手柄としてください」
「どうやら全員運び終わったようなので、これにて我々は本部に戻ります。最後にお礼を申し上げます、この度はまことにご協力ありがとうございました」
警察官達は気を失っている強盗達を車に詰め込んで、サイレンを鳴らしながら道路を走っていく。
これにて銀行強盗事件は幕を閉じ、洋一達も五体満足で銀行を出ることができた。
全てが終わったことでため息を吐いて胸をなでおろす洋一に、笑里が笑顔で近づいていく。
「ねえ! あなたのお陰で犯人捕まえられたよ、ありがとう!」
「いや、僕は何もしてないと思うけど。実際に無力化したのは君達だろう?」
「そんなことないよ! 事前に動くって決めてなかったら私は動けてなかったかもしれないもん」
「そうね、最初に作戦を決めたのはあなただもの。それに一人は無力化したんでしょう?」
会話に才華も加わって、洋一は照れたように頬を指でかく。
「ねえ、あなたの名前はなんていうの?」
「……白部、洋一」
「へえ、洋一君っていうんだ! 私は笑里っていうの! これから仲良く――」
「笑里さん、何が言いたいのかは分かったからその振りかぶってる拳を下ろしてね」
拳を振りかぶっていた笑里は才華に言われたことで、不満そうに拳を下げる。
仲良くなりたい相手には殴りかかるという悪癖を阻止するために、才華はいつも一緒にいる時は気を張っているのだ。
「仲良く……? 僕と、友達になってくれるの?」
「え? 当たり前だよ。もう私達友達でしょ?」
キョトンとした顔をしながら笑里は問いかける。
そこに銀行から金銭を下ろしたので封筒を持っているグラヴィーが呆れたように口を挿んできた。
「銀行強盗を一緒に撃退すると友達になるのか、知らなかったな」
「喫茶店の店員さんの名前は?」
「グラヴィーだ、二度と殴りかかろうとしてくるんじゃないぞ」
「名前を知って、殴り合えばもう友達なんだよ?」
「この星に住んでからそんなこと一回も聞いたことないんだが……」
会話を繰り広げている笑里達を見て、洋一は懐かしく、嬉しいような気持ちになっていた。そんな気持ちを察したムゲンが洋一の心に直接語りかける。
『心残りは……もう消えたのではないか? 夢幻は夢現となりて、失くしたものがいま現実で見つかったのじゃから』
あの夢現世界崩壊の日。現実に戻っても友達のまま、忘れるわけがないと言っていた笑里が、一度忘れてしまったとはいえ目の前で自分に笑いかけてくれている。それが何よりも待ち望んでいたもので、失くしてしまったと落ちこんだもので、尊いものであったのは洋一が誰よりも分かっている。
人の縁とは不思議なもので、一度途切れようとも、それが運命だというのならいずれまた巡りあうことになる。
「あれ!? ど、どうしたの洋一君!」
「……え?」
自分でも気づかないうちに、洋一の目からは涙が零れ落ちていた。
泣いていることに気がついた洋一は零れる涙を手で拭うが、その涙は止まることはなく溢れ出すだけだ。
「どうしてかな……ほんと、どうしてだろうね……あの日から、友達と笑顔で話していた君を見たときからずっと諦める気持ちでいたのに、それでいいと思っていたのに……。どうして僕は、こんなにも嬉しく思ってしまうんだろうね……。僕が君達と一緒にいて、ほんとうにいいのかなあ?」
俯きながら発されたその言葉の意味は洋一以外には分かるはずもない。しかし分からずとも、理解しようという気持ちなら笑里達にはある。
「一緒にいていいんだよ。だって誰かと話をして、笑いあって、友達になることに必要なものなんて何もいらないんだもん。一緒にいたいと思ったら、いつの間にか一緒にいるのが当たり前になっていくの」
「それでもなんだか怖いんだ……完成された輪に入るのが、そこを壊してしまいそうで……!」
夢はどう足掻いても夢のままだ。現実とは違う。あの世界で友達でも現実では友達でいられなかった。
自分など、忘れられた異物などいない方が少女の幸せに繋がるとずっと信じて関わりを持とうとしなかった。そこに自分が入っていくと、現実での幸せな空間が歪んでしまうのではないかと洋一は思ってしまっている。
全ては少女の仲間という存在を守るため。忘れられてしまった者の居場所などないのだから、ただ少女の居場所を荒らさないことしかできない。それなのに……少女はたった一度、それも一時間にも満たない短い時間しか関わっていないにもかかわらず、友達という場所に連れ戻そうとしてくれている。
涙を流し続ける洋一を見ていられなかったので、才華も口を挿むことにする。
「壊れてしまったのなら、所詮その程度だったということよ。本物の絆は誰かが加わったくらいで断ち切られるものじゃない、もし壊れてしまったとしても修復できると私は思うわ。私はあなたの過去を知らない、どうしてそこまで怖がっているのか分からない。それでも今こうして手を取り合うことはできるわ」
車椅子の肘掛けに置かれている震えている腕に才華は触れて、そっと手前に撫で、辿り着いた拳を両手で包む。
「はぁ、何がなんだか分からん。まあ、僕から一つ言わせてもらうなら……この星の人間はたまに大馬鹿者がいるということだ。たとえ害を加えようとした者にでも親しく接せる大馬鹿者がな。だから、お前がどう思っていようと、受け入れる人間はいるということだ」
涙はまだ止まらないが、心なしかその勢いはなくなっていくように思えた。
洋一はゆっくりと、顔を上げて笑里に視線をとどめる。
「……笑里、君と会えたことは本当に嬉しい……またこっちでも……仲良くして……くれるかな?」
「当たり前だよ! 私達はもう友達で仲間なんだから!」
いつの間にか涙は止まっていた。泣いたことで少し赤く腫れたまぶたは気にせずに、洋一は穏やかな笑みを浮かべる。
心にあったしこりのようなものが溶けて消えていくのを感じていた。
「これから……よろしくね。笑里」
少年少女の運命は再び交わった。それはこれから離れることなどなく、永遠に交わったままだろう。
しかし運命は優しいものではない。何かを手に入れる、取り戻す度に、試練のようなものが襲うのだ。
遠くで何かが落ちる音がした。そのことに誰かが気付くことなど、ありはしない。




