238 銀行――あの時の面子――
普段より洋一が僅かに上機嫌だ。
学校からの帰り道。魔導書であるムゲンはその小さな変化を感じ取った。
原因ならば見当はついている。
いつもならしつこく付きまとってくる恵がいないから? それは違う、二年以上も共にいれば違うことに気付く。確かに原因は恵で間違いないのだが、いないからといって上機嫌などにはならない。
洋一はむしろ、一人でいるのを嫌っている節がある。付きまとわれすぎているのもあまりいい顔をしているわけではないが、心から嫌ってどこかへ行ってほしいなどと思ったことはない。パートナーであるムゲンはそれを一番分かっている。
洋一の機嫌が僅かに良いのはきっと――
「あの娘に弁当を作ってもらえるからかの?」
――そういうことなのだ。
「え、なんの話だい?」
「自覚がないのか? 洋一、お主はいま普段より機嫌がいいのじゃ」
「そ、そうなの? そう、かな?」
無自覚なのが面倒くさいところだ。
女性から手作り弁当を貰えるというのは男性からすれば嬉しく思う者が多いだろう。
恋人や夫婦、そうでない関係でも仲がよければ手作り弁当を貰うことはありえない話ではない。
「余が作った物よりもあの娘の方がよかったかの?」
「いやそんなことないよ、ムゲンには感謝してもしきれないさ。僕の代わりに毎朝お弁当を作ってくれてるんだから」
白部家では家事を分担している。
洗濯を畳むことや、大まかな掃除などの座りながら出来るものは洋一が行い、それ以外はムゲンが行っている。
弁当作りもその一つであり、夢を現実にすることで擬人化して幼女の姿だというのに料理を手際よくこなす。
「しかしお主はあの娘の方を選んだ。あの娘が自分のために弁当を作ってくれることが嬉しいのじゃ。お主の精神状態はパートナーである余が一番把握しておる。前から聞きたかったんじゃが、あの娘のことをどう思っておるんじゃ」
「あの娘って恵のことだよね。どう思ってるかって……大切な友達だよ」
「告白までされたというのにか?」
「好意を持たれていたのは前から分かっていたよ。いつか……されるんじゃないかなと思ってた」
どこかぎこちなかった。上機嫌だったいうのにどこかが普段と違う。
ムゲンは洋一が混乱しているのではと思い一度問いかけを止める。
洋一の表情はいつの間にか暗くなっていた。
「ねえムゲン……僕はさ、自分のことが分からないんだ」
「分からない、というのは?」
「恵のことをどう想っているのかが、分からない。嫌いじゃないってことだけは分かるんだ、でも好きかどうか答えろと言われたら分からない。出会ってから今まで恵はたぶん僕のことが好きだった、そこまで想ってくれる相手のことをどう想っているのか分からないなんて、最低だ。きっとあの海のように大きな好意に浸っていると気分がよかったから、利用していたのかも、そう思ったら、もう恵と顔を合わせられない気がした」
仕方がない、とは口に出せるはずもない。
ムゲンからすれば洋一を唯一無二のパートナーだ。そんな相手がこんなにも悩んでいるというのに、仕方がないという答えはあまりにも無責任なのではと思った。
「余に分かることなら一つだけある。それはお主があの娘のことを利用していたという事実などないということじゃ。それにお主には心残りがある、それをどうにかしない限りはきっとその答えは早計じゃよ」
「心残り?」
「決まっておるじゃろう? 夢となって消えてしまった仲間達のことじゃよ」
「そう言われても……いったい、どうすればいいんだろう……」
長い沈黙がおりた。
車椅子を自分で進めているので歩行者よりも進みは遅い。
帰り道はまだ長い距離があって、十分ほどの沈黙が終わる。終わらせたのは洋一だ。
「あ、今日は生活費を下ろさないと……」
「そうじゃったな、まあ銀行なら通り道じゃし思い出せてよかったの」
洋一は一人暮らしであるが、両親は生きている。
生きているが別居中なために、与えられるものは生活費だけだった。
全ては固有魔法である〈解析〉を制御できなかったから起きたことだ。
両親の隠していることなどを、制御できないゆえに思考を解析してしまった結果理解してしまう。
洋一の父と母、両方が浮気をしていたのだ。幼い洋一にはそれが悪いことだと分からずに、一切の悪気なく二人の前で、二人の秘密を暴露してしまった。
そのことがきっかけで、悪いのは明らかに浮気をした両親だというのに、どちらからも責任を押しつけられた。
夫婦仲は最悪な状態になり、離婚することなど当然のような流れだった。
ただ子供に対して今後何もしないというのは法律的に認められない。そこで母親が引き取ったのだが、洋一に今まで住んでいた家と家具を与えて、自分は新しい男の家に逃げていったのだ。
それでも生活費だけは口座に毎月入っている以上、どちらも申し訳ないと思う気持ちはあるのだろう。
二人の気持ちを確かめる方法は〈解析〉しかない。だがそれを行うことは今後一切ないと洋一は確信している。
「あの夢現世界は僕に夢を見せてくれたんだ。欲しかった仲間と、人の温もり。どちらも現実では僕が怖がって手に入れることなんてできなかったものだった」
「じゃが今は夢ではないぞ。あの娘達、七不思議を解決した仲間がおる。温もりもあの娘がくれている、自惚れていないのならば余も与えられていると思っておる。お主はもう幼かった過去とは違う。心残りがあるのは夢の中じゃしな」
「そう、皮肉なものだよ。欲しかったものが手に入ったあの世界を、僕は単純な思い出というわけではなく、未練のように引き摺っているんだ」
洋一は銀行に辿り着き、自動ドアが開くのを待って中に入る。
今の時代には現金自動預け払い機が置いてあるコンビニエンスストアも多いが、銀行に来る人間がいなくなるわけではない。銀行内には五十人以上の人間が訪れていた。
「だから僕は、その想いを断ち切ろうと……して、いたのに……」
洋一の声はだんだんと空気が抜けるように小さくなっていく。
目は限界まで開かれて、驚愕を表していた。
自分が金銭を下ろせるまで待とうとして、とある場所から目が離せなくなった。
「なのに……いまさら……」
座ろうとした椅子には先客がいた。
目つきが鋭く、紺色のエプロンを着用している青髪の少年。
座っているだけで気品が伝わる、ふわったした黄色髪の少女。
その少女と話している笑顔が似合っているオレンジ髪の活発そうな少女。
「こんなの、おかしいよ……」
見覚えがあった。見覚えがないはずがなかった。
夢として消えた世界で一緒に死闘を潜り抜けた仲間達なのだから、覚えていないはずもない。
「席、他にもあるじゃないか……」
なぜか他の空いている場所に行かずに、洋一は気がつけば隣で車椅子を止めていた。
「どうして、なんだろう……」
断ち切ろうとした未練なのに、まだ求め続けている自分が洋一は嫌になった。
彼ら彼女らの運命は――交わるべくして再び交わろうとしていた。
「それにしても、今日はありがとうね笑里さん。私の会社のことなのにお手伝いしてもらって」
「全然いいんだよ、むしろどんどん頼ってね才華ちゃん! 私なら億だろうが兆だろうが運べるから」
「ちょっ、あまり銀行でそんな桁を口に出さないで……! どこに耳があるか分からないのよ……!」
笑顔が似合う少女――秋野笑里は純粋な笑みを浮かべている。
そんな笑里の発言にあたふたとしている少女――才華の隣で、エプロン着用という異色な少年が目を見開いた。
「お、億? ちょ、兆? バカな……否定しないということはまさか持って、いやありえん……! 僕でさえ給料を貯金してまだ千万もいってないのに……!」
そのエプロン姿の少年――グラヴィーは息を呑んで才華のことを凝視していた。
見られていることに気付いた才華は少し怖かったが、恐怖を前面に押し出すのは二流という謎の教育により平然そうに振る舞う。
「あの、エプロンしてる人。今の話はこの子の冗談ですよ」
「じょ、冗談? 本当なのか? この人を散々騙してきた僕が一般人の嘘を見破れなかったなんて……」
「えっ騙すって、詐欺師さん? 大変だ、警察に連れていかないと!」
「詐欺師じゃない! 僕は喫茶店の店員だ!」
自分の発言が悪いのは分かっているが、詐欺師呼ばわりされ警察に連行されそうになるのはマズイので怒声をあげる。
しかしすでに頭の中でグラヴィーを詐欺師と思ってしまった笑里は引くことがない。
「嘘だ、詐欺師さんだから嘘ついてるんだ! 目も鋭いし怖いもんね!」
「すぐバレそうな嘘なんかつくわけないだろう……っておい!?」
笑里が立ち上がって拳を振りかぶったのを見てグラヴィーが跳びはねた。
攻撃がされる瞬間に後ろに跳んだので、笑里の拳はギリギリ届かなかったのが幸いだ。
もしも当たっていれば「いたっ」というレベルではなく、意味が分からない断末魔になってしまう。それを実際に振られた拳の圧力から理解したグラヴィーは顔を青ざめる。
(ぬおおおお危なっ! 当たったら即死だったぞ、本当に人間かこの女!? そういえば神谷神奈と一緒にいるところを見たような……ダメだ思い出せない。どうにかしようにも重力操作でどうにかなる相手じゃないぞ……)
(う、嘘でしょ!? 笑里さんが正義感に燃えて暴走した! 人がミンチになる瞬間を見なくて済んだのはよかったけど、はやくなんとかしないとこの人がミンチになる!)
そしてどうにかしなければいけないと焦った二人は、呆然と見ていた部外者に声を掛けた。
「車椅子の人! お願いどうにかして!」
「車椅子のお前! 頼むどうにかしてくれ!」
「……ぼ、僕が!? いやどうやって!?」
声を掛けられた洋一はあまりの無茶ぶりに焦るしかない。
笑里はその間にもグラヴィーを気絶させるために拳を振りかぶっている。時間がないと悟った洋一は瞬間的に魔力器官の二パーセントの魔力を引き出して、拳を振り始めた笑里の背後に車椅子で回り込んで腕を掴むという力技に出た。
その動きは誰にも認識できず、グラヴィーは何度目か分からない驚きに襲われる。
(な、なんだコイツ……! ここは銀行だぞ、なのにどうして僕より強い人間がこんなにいるんだ!? ここは本当に銀行か? 実は戦闘民族のアジトだったりしないのか?)
腕を掴まれたと認識した笑里は振り向くとキョトンとした顔で問いかける。
「なあに? もしかして詐欺師さんの仲間なの?」
「違うさ、そもそも彼も詐欺師じゃないよ。言ってたじゃないか、彼は喫茶店の店員だって」
「むぅ、でもそれは嘘でしょ?」
「嘘じゃないと僕は思う。確かに目つきが鋭いから多少悪人のように見えるのかもしれない。でも見た目で判断することはやっちゃいけないことだと思うんだ」
笑里はジッとグラヴィーを観察する。
「うん、確かにそうだよね。見た目で判断しちゃダメだよね。それにエプロンしてるし喫茶店の店員っていうのは本当のことなのかも」
「なのかもじゃなくて本当なんだよ。しかも言ったそばから見た目で判断してるじゃないか、なんなんだコイツ」
信じられないような目を向けて、グラヴィーは知り合いだろう才華の方も同じ目を向ける。
何を思っているのかなんとなくではあるが分かった才華は死んだ目をしながら答えた。
「秋野笑里さん。それが全てよ、彼女に常識を当てはめてはいけないわ」
「ようするにただのバカなんだな? 知能指数一桁なんだな?」
「ごめんなさい、店員さん。早とちりしちゃった」
「早とちりで死ぬかもしれなかったんだが。もう二度と早とちりするなよ? 次からは相手が悪人だと周囲も認めてからやれ」
深いため息を吐いたグラヴィーは疲れた表情をしていた。
銀行で死にそうになるなど想像もしていなかったからだ。
「笑里さん、謝ったのは偉いからもう座りましょう? もう少しで私達の順番に――」
死にそうな体験をすることになるなどグラヴィーはもちろん誰も想像していない。
どこかの戦場に向かうならともかくこの場所は銀行で、金銭を預けたり引き出したりする場所なのだ。
しかしそんな場所だからこそ降りかかる危険というものがある。
「おらあ! 全員大人しくしろやあ!」
――鳴り響いた銃声とともに、銀行は戦場となった。




