180 深淵――蘇らせるため――
2024/03/29 文章一部修正
大気どころか地球全体が揺れる。そんな超現象を起こしている怪物が神奈達の前に立っている。艶のある黒髪だけでなく身に着けているものにも魔力が流れており、時折紫色に輝いていた。
その怪物、マージ・クロウリーは長い顎鬚を魔力の刃で短く切り揃える。
「サンドバッグだと? 悪いけどな学院長、簡単にそうなるつもりはないぞ……!」
「そういうことだね。今の私が倒せるとは思えないけど、サンドバッグにはなりたくないからね」
サンドバッグになれと言われた二人は圧倒的に不利だと分かりつつも強気に出る。
「そうかそうか……では、せいぜい足掻いてくれ」
そう言うとマージは両手の中指だけを折り曲げ、神奈達の額に瞬時に近付ける。
デコピンするつもりの手が真正面にいきなり現れたことで、神奈達は驚愕して何も動けずに喰らうしか出来なかった。
気が付けば喰らっていて壁にめり込んでいた。それほどの速度と威力だが今の攻撃はマージの全力ではない。小手調べ程度の力だったが、それでも二人は攻撃を避けられなかったのだ。
神奈達は壁から抜け出る。額からは血が一筋流れていた。
「今の、見えたか?」
「見えたけど、速すぎて反応が追い付かなかったってところだよ」
「マジか、私ほんの少ししか見えなかったぞ」
動体視力に魔力は関係ないので、神奈と神音の二人ならば神音の方が上だ。今の状態なら魔力が上なのは神奈なので、魔力を目に回せば神音の動体視力には勝てるだろう。
話しつつも神奈達は警戒を緩めず、高速で腕を連続して突き出し魔力弾を撃つ。
マージはそれらを気にせずにゆっくりと歩き始める。
神奈達の魔力弾など無意味なように、当たってもマージの歩みが止まることはない。少ししてからマージがトンッと軽く地を蹴ると、瞬きよりも早く神音の正面に移動して頭を鷲掴みにする。
「神音! うっぐあっ!?」
ほんの一瞬、神奈が神音の方向を向いたその時、既に敵は神音ごとその姿を消していた。そして背後から何かをぶつけられてまたもや壁に激突する。
「いったあ……! くそっ、何が……! あ……?」
ぶつけられた何かに目を向けると、それは頭からの出血を増やしてぐったりと力なく倒れる神音だった。
「神音!? おい、なんで!」
呼びかけている最中、神奈は壁を見ておかしなことに気が付く。
観客席真下の壁、試合場所をぐるっと囲っている壁に、何かをむりやり突っ込ませて強引に引きずったような跡があった。それを見て神奈はあの一瞬で何が起きたのか理解する。
神音の頭を掴んだマージはその頭を壁にめり込ませ、そのまま強引に壁を破壊しながら引きずって試合場所を一周してから神奈に投げつけたのだ。ほんの一瞬で行われるにはありえないことだが、それが出来るほどの化け物だと神奈は納得せざるを得ない。
「一人、リタイアかね?」
「学院長、アンタなんでこんなことを……」
「何でだと? く、くく、くくくははははは! そうだ、そうだった……儂はこんなところで道草を食っている場合ではなかった! マルーナ……今迎えに行くぞ!」
「マルーナ……? 確か、日記の」
メイジ学院内にあった地下施設。そこで見つけた日記に書いてあった名前だと神奈は思い出す。
「おい……いいか、よく聞けよ。世界の仕組みってやつはな、死んだら別の命に生まれ変わるんだよ。だからマルーナってやつはもういないんだよ!」
そう叫ぶ神奈に、マージの目がギョロッと向いて睨む。
その眼球には漆黒の空間と星々が現れていたが、マージからは普通に見えるようだ。
「マルーナがいない? いいや魔導の深淵に至った今! 確実にマルーナを蘇らせてみせる! そのために儂は全てを捨ててきたのだ!」
「だから蘇らせるとかじゃなくて、もう魂が別の生命に移ってるんだって! それは神様が定めたルールなんだから覆せないんだよ!」
「黙れえええい!」
声にすら溢れるような魔力が込められて、そのあまりのエネルギーで周囲の空間に亀裂が走る。
マージはマルーナを生き返らせるために全てをかけていた。それを否定するように聞こえて怒りのままに神奈を殴りつける。
迫る拳を神奈が左腕で防御しようとて――拳の力により容易くひしゃげた。
防御しようとしても今の神奈の実力で出来るものではない。これまでに出会った敵の中でも間違いなくトップクラスに強いのだ。ここまで力で圧倒された経験はほぼない。
あまりに唐突に、予想外に襲いかかってきた強烈な痛みで神奈は涙目になる。
(強すぎっ……! 最初から全力の全力でいくしかないっ!)
今の神奈に出せる全力といえば〈超魔激烈拳〉ただ一つ。
一瞬、使用しても効かないのではと考えてしまうが、ネガティブになるのはよくないと思い全魔力を右拳へと集める。
「〈超魔激烈拳〉!」
紫光を放つ右拳にマージは口元を歪めた。
恐怖ではなく、嘲笑。
彼は拳を合わせずにこれから起きる攻防の結果を理解したのだ。
迫る〈超魔激烈拳〉にマージはなんの技でもないただの拳をぶつける。
多少は互いの力を比べ合えたものの、圧倒的な実力差によって神奈の右腕の血管は一部破裂した。筋肉は裂け、少量の赤い血が皮膚を突き破る。
「がああああっ!」
これまで多くの相手を倒してきた神奈の拳がマージには通用しない。
そして痛みに悲鳴を上げる神奈に再度拳が襲いかかってくる。
何度も、何度も、上下左右から殴りつけられた。
その威力は一撃ごとに凄まじく、臓器を守る役割を持つ骨も豆腐のように簡単に潰れていく。
神奈は今までで一番死を身近に感じていた。
エクエスと戦った時、復活した神音と戦った時、スピルドと戦った時、どんな強敵でも目前にいる男には敵わないだろうと攻撃を受け続けて思う。
普通ではありえない威力なために、体のあちこちが凹んで元に戻らなくなっていた。神奈は殴られる度にもうボロボロの体から血を溢れ出させる。
もはや自力で立つのも不可能であり、辛うじて呼吸している死にかけ状態。
腹には風穴が空き、眼球も鼻も潰れ、歯は全て砕け、体は血塗れだ。
殴られ続けている内に右腕が肩から千切れてどこかに飛んでいく。
「マルーナの魂!? 生まれ変わっている!? それでもマルーナはマルーナだ! もしも別の生命に入っていたとしても、儂がその中にいるマルーナの魂を取り出そう! いつまでも撫でて傍に置く、魂だろうと知ったことか!」
少し前に見つけたサンドバッグを殴りながら、マージは割れそうな程に痛む心の内を叫ぶ。悲痛な叫びはサンドバッグ状態の神奈には届かないが、彼は涙を流しながら殴り続けた。そしてふと何かを思いついてピタッと拳を止める。
神奈の体はすでに力がなかったため地面に倒れた。千切れて飛んでいった右腕や、潰れて肉塊となった太ももや腹から真っ赤な血が溢れ出す。
「そうじゃ……コレは確か神が定めたルールだと言っておったな。ならば神本人に聞けばよい。儂はすでに神すら超えている……誰であろうと逆らうことなど許されん! 待っていろマルーナああああ!」
実力があるから誰も逆らうことを許さない。
暴論を振りかざすマージは魔力を込めた拳を何もない上空に放つ。
なんの変哲もない空間だった場所には、人の目のような形の黒い穴が作り上げられた。それを生み出した拳の風圧で周囲五十キロメートルほどが更地になる。
試合会場であるドームは当然一部が崩壊し、死にかけの神奈や神音、他の生徒達も全て吹き飛ばす。
「ふはははは! もうすぐだぞマルーナああああ!」
空間に出来上がった直径一メートルほどの漆黒の穴にマージは飛び込む。
それから空間の歪みである漆黒の穴は急速に閉じていき、彼はこの世界から消失した。
広大な敷地が更地と化した戦場で、神音は体の痛みに耐えつつ魔法を唱える。
「……〈完全治癒〉」
神音は目覚めたとき目前にあった、辛うじて人の形を保っているモノに魔法をかけた。〈完全治癒〉が効果を発揮して、所々潰れた肉塊は時間が巻き戻されているかのように修復されてモノが者に戻る。
肉が、血が、骨が、全てが元通りになったモノは神谷神奈だった。
全身の痛みが綺麗さっぱり消えたのと、体が元に戻ったのは神音の力だと考えて、神奈は近くに立っていた神音に口を開く。
「神音……助けられた、ありがとうな」
「礼を言うのはいいんだけど、まだ早いかな」
「学院長は……どこに行ったんだ? 途中から眼球が潰れたのか目が見えなかったんだ」
さらっとグロテスクなことを言われた神音は眉を顰めながら答える。
「どこかは分からない異空間だね。まさか魔力を空間にぶつけて異界への道を開くなんて出鱈目だ」
「異空間ってことは……助かった、のか?」
世界からいなくなってくれたことで希望を持つ神奈だったが、その微かな希望はすぐに打ち砕かれる。
「まさか、もしも別世界に行ったとしてもすぐに戻って来られるよ。もし戻って来たら世界は終わりだね…助かったなんて口が裂けても言えないよ」
「でもあんな化け物、どうすればいいんだ……倒せるものなのか?」
「方法がないわけじゃないさ。あれには制限時間がある。強大すぎる魔力だから器の肉体が耐えきれない。どうやら自壊していく肉体を魔力で修復し続けて時間を稼いでいるみたいだけど、いつかは修復が追いつかなくなって自滅するだろう」
自滅すると聞いてまたも希望を持つが、神奈は期待しすぎないようにする。
「いつかっていつだ?」
「そうだね……私の見立てだと一週間くらいかな」
「一週間? それならいいんじゃないか?」
「その一週間の間にこの世界は確実に滅びると思うけどね。マルーナとやらにご執心のアレは、肝心の探し物が見つからないならまたこの世界にやって来るだろう。そしてこの世界になければ丸ごと破壊するのは確実。アレはそれくらい平気でやってのけるよ」
神音が出した結論に、神奈はサアッと血の気が引いていく。
何か方法がないのかと神奈は縋るように神音を見つめる。
「アレを倒すには二つの方法がある。一つ目はアレより強い人間に頼むこと、でもそれは現実的じゃない。せめて私の魔力が万全で、究極の魔導書三冊を持っていれば勝てない相手じゃないんだけどね。……二つ目はさっき言った通り、自滅するのを待つこと」
「でも自滅を待つ場合は一週間だろ? その間にこの星どころか、この世界が破壊される可能性は高いんだよな。これ、詰んでないか?」
「そうでもない、危険だけど自滅を早める賭けがあるんだ。アレは魔力で肉体が崩れていくと同時に修復している、つまり魔力が戦闘で減少すれば自滅の時間を早めることが出来る。ただしこの方法は命の保障が出来ない。……当然だよね、あんな化け物と戦うんだから」
つい先程一方的にやられたこともあり、戦いの選択肢を聞いてから神奈の全身は震えていた。神音がいたからなんとか生き残れたが、本格的に戦うとなればいつ死んでもおかしくない。
「……やろう」
それでも、たとえ心に恐怖が刻まれても、死ぬ可能性が高くても方法はそれしかない。世界にマージ・クロウリーと戦える人間が何人いるだろうか。少なくとも神奈が今まで出会ってきた者達では無理だ。
もしかすれば対等に渡り合える者がいるのかもしれない。しかし誰かに伝えようにも、星どころか広大な宇宙を含めた世界が消滅する危機などと言ったところで、頭がおかしいと思われるのがオチである。
それならば自分でやるしかない、そう思った神奈は震える唇を動かす。
恐怖でどうにかなりそうでも、全身が震えていても、それを無理に押し殺してちっぽけな勇気で上書きする。
「正気かい……?」
やるとは思っていなかった神音は驚愕する。
誰だって自分を確実に殺せる生物と戦うのは怖いだろう。一般人が熊に徒手空拳で挑むようなものである。やりたくないと逃げても誰も責めない。
「私がやるってもう決めた。……正気かだって? 正気じゃねえよ……あんな化け物に挑もうなんてやつが正気であってたまるかよ。それでもやらなきゃいけないんだ、今どうにか出来る可能性があるのは、事情知ってる私達だけだからな……!」
ちっぽけな勇気で上書きしたことで、神奈の震えは止まっている。しかし表面上は止まっていても心の震えまでは止まらない。自分の言葉通り正気ではなく、神奈はすぐにでも精神がおかしくなりそうだった。
「君の蛮勇が、無謀でないことを祈っているよ……私はそんな決意をした君を尊敬する。初めてだ、私は今までの人生で初めて尊敬できるような人間に会えた。私の考え方が少し変わっていくようだ。あの隼速人も君に似て確かな勇気を持つ者だったのか……正論を言いすぎたことを後で一応謝っておこう」
神音は無駄な努力が、無謀な行為が嫌いだと強く想っていた。しかし目前の神奈から小さな希望のような光を感じ取り、考えを少し思い直さなければと思う。
「無事戻ってきたら何か、食べ放題の店にでも行って奢ってあげようじゃないか」
「お前は私を何だと思ってるんだよ……まあいい、約束だぞ? あそこな、寿司とかしゃぶしゃぶとかあるとこ……まあそれは後で予定立てるとして、どうやって追いかければいい? 私は異世界に自力じゃいけないぞ」
お互いに穏やかな笑みを浮かべた後、現状をどうにかするための話に戻ると笑みがふっと消える。
「それなら心配ないさ。禁断の魔導書に記されている魔法の一つ、〈理想郷への扉〉……!」
神音が魔法を唱えると、神奈の正面に小さな純白の丸い穴が出現して徐々に広がっていく。
「これで追いかけられるのか?」
「そうだよ。この魔法は目的のものを強くイメージすれば、それが存在する世界に行けるというものだからね。残念ながら私はこの魔法維持の為にこの世界に残らなければならない。……もしもこれが消えたら、君が帰って来られる方法を私は知らない」
「分かった……私一人で、行ってくる……!」
道も作られたことで、神奈はいっそう強くマージ・クロウリーを倒すと決意して〈理想郷への扉〉に飛び込んだ。
繋がる先はどこなのか、勝てるのか。そんな不安は全て心から追い出して神奈は純白の通路を通り抜けていく。




