18 珈琲――賭けをしないか?――
2章突入 迫りくる新キャラの波……!
章が進むごとに新キャラの波…………!
純喫茶『マインドピース』という喫茶店。
来てくれた人の心が安らいでほしいという想いでつけられた名前らしい。
その店の一つの席に座っているのは癖毛の黒髪が特徴的で、顔立ちが整っている少女――神谷神奈。右腕には上半分が黒、下半分が白という簡素なデザインの腕輪をつけている。
この喫茶店に来ると、神奈も本当に安心するような気がして、ついつい来てしまうお気に入りの店である。
落ち着いた雰囲気の店にいる客達は静か。というか人があまりいない。
珈琲は良い。あの苦みはなんともいえないが、味に深みを出している。中でもマインドピースのマスターが淹れるオリジナルブレンド珈琲は、イライラしていても一口飲めば解消され、飲み切れば数週間は心が穏やかでいられるというほどの評判である。
珈琲について神奈が考えていると、店員が頼んだものを運んできた。
「こちらオレンジジュースです」
店員はテーブルに飲み物を置くと、一礼して静かに戻っていく。
そこで神奈の腕に着けている腕輪から突然声が発される。
「……珈琲じゃないんですね」
「当たり前だろ、子供の舌に珈琲は合わない。苦さで頭おかしくなる」
「さっきまでの珈琲語りはなんだったんですか?」
「あんなもん気分だよ、飲んだら帰るか」
ただ神奈は大人っぽく背伸びしていただけだ。珈琲に対する愛など微塵もない。どうせ飲むのなら珈琲牛乳の方が美味しいとすら考えている。
運ばれてきたオレンジジュースのグラスを手に取り、口に運ぶ。一口で爽やかな蜜柑の味と香りが口内と鼻腔を支配していく。果汁百パーセントのオレンジジュースが美味しくないわけがない。
「相変わらず面白いな君は。いや、君達と言った方がいいかな」
こう話しかけてきたのは前に座っている神奈と同年代の少年。
赤紫の前髪は下ろされ、それ以外の部分が逆立っている変則的な髪型。優しそうな顔をしている男――光ヶ丘玲司。
自分のことはレイと呼んでほしいと言った彼とは、最近この喫茶店で偶々相席になったことがきっかけで知り合い、今は神奈といい飲み友達だ――ジュースのだが。
「どこが面白いんだ? 普通の会話じゃん」
「あれが普通の会話かは分からないけど。君たちは意気がピッタリ合っていてね、見ていて面白いんだ。あーほら、まるでコントみたいだと思ってさ」
腕輪のことはレイも初めては驚いていたが、今ではすっかり慣れている。
レイは優しく穏やかだ。そんな彼と一緒にいると神奈もどこか心地良い。
「まあこの腕輪はボケボケだからな」
「ちょっと、神奈さんもたまにボケるじゃないですか」
「いやあ、君達は本当に面白いなあ。それに羨ましいよ」
にこやかな笑みを浮かべたままレイは口を開く。
「お前が面白いと思う場所どこだよ……羨ましい?」
「そうだね、僕はいつも一人だから。二人でいられる君達が羨ましいのさ。傍から見ても仲が良さそうだし」
両親はどうしたのだろうか。友達はいないのか。
仲が良好とはいえ、付き合いの浅い相手にそんなことを聞いていいのか神奈は悩む。
「ご両親やお友達はいらっしゃらないんですか?」
悩んでいたときに腕輪が問いかけてしまった。
デリカシーも何もない奴だと神奈は「おい」と注意しておく。
「……いないよ。僕はいつも一人だ」
寂しそうな表情に変化するレイの顔を、神奈はあまり見ていたいと思わなかった。
「一人じゃないだろ」
「……え? でも僕には友達も家族も」
「私がいる。友達なら、私がいる。だからレイは一人じゃないよ」
「ヒューヒュー! かっこいい、神奈さんヒュー!」
茶化してくる腕輪に神奈は口早に、低めの声で短く「黙れ」とだけ告げる。
まるで漫画のような台詞も、時と場合によっては現実で響く。使い方さえ間違わなければ薄ら寒くなどなりはしない。『一人じゃない』はレイの心に深く刺さる言葉であった。
掛けられた言葉が嬉しくて、レイは僅かに頬を赤く染めて綻ばせる。
「ありがとう、嬉しいよ。まだお互い知らないことが多いのに、友達だなんて言ってくれて。できればこれからもいい友達関係でいたいな」
「そうだな。ところで私は帰るんだけど、その前に一つ賭けをしないか?」
一気にオレンジジュースを飲み干して神奈は口を開く。
「……賭け? いいけど何を賭けるというんだい?」
いきなりの賭け事。あまり褒められたことではないが、子供同士の遊びの範疇である。
大人のように賭けに負けたら会社を辞職するなど決してない。そこまで大きなことではない。しかし神奈の瞳はいつになく真剣なものだ。
「この店での代金だよ、賭けの内容はそうだな。……次にこの店に入る客が男か女かを賭けよう」
「へえ、面白いね。受けて立つよ。代金といっても二人で千円もかかってないしね。どうしようか、確率的には半分。……でもここは純喫茶だから女性の客の方が多いのか? いやだが男性客が少ないというわけでは……」
神奈は頭を悩ませるレイを眺めて、笑みを浮かべてしょうがなかった。
この勝負、全て予定通りに進めば神奈の勝ちは決定している。うんうんと唸っているレイの負けは確定しているのだ。
「それじゃあ私は女に賭ける」
「え、僕に選択肢はないのかい? 必然的に男になってしまうんだけど」
二択なのだからそうなるのは当然。早い者勝ちであると神奈はほくそ笑む。
しかし次の客が来店するのはいつ頃か分からない。朝食を食べるような時間やお昼時、小腹が空く三時近くにはそれなりに客の出入りがある。だが今は午前九時と中途半端な時間だ。客の流れも悪くなり、場合によっては数十分も来ないことだって珍しくない。
――客の来店を知らせるベルが鳴る。
静かな店内には非常によく響く心地良い音。
早くも決戦かとレイが入口に目を向けると、オレンジ色の髪をした元気そうな少女が入ってくる。
「神奈ちゃん、お待たせ!」
笑顔を浮かべながらその少女――秋野笑里は、神奈を見つけると嬉しそうに駆け出す。
走って来た笑里に神奈は手を挙げて「よ、笑里」と挨拶する。
あらかじめこの店に笑里を呼び出していて、神奈は来ることを分かっていた。
元々、今日は笑里と才華の三人で遊ぶ予定だったのだ。指定した時間通りに迎えに来てくれれば、神奈の勝ちは揺るがない。
「えっと、神奈の友達かい? 僕は光ヶ丘玲司、レイって呼んでくれ」
「あ、初めまして。私は秋野笑里です! よろしくね!」
初対面であることから自己紹介するレイと笑里。
「うん、こちらこそよろし――」
元気そうな笑みを浮かべる笑里の第一印象は良いと誰もに思わせる。
だが忘れてはならないのは彼女の癖。仲良くなりたい相手には拳を振るうという、まるで少年漫画の喧嘩大好きな主人公かのような行動。彼女の場合、悪意なく、笑顔で拳が振るわれるのだから相手も油断してしまう。そもそも普通はそんなことをされると思わない。
友好的に笑みを浮かべて応えようとしたレイ。その目前に迫る拳。
「うわっ、危ないな。いきなり何をするんだい?」
――力強く接近する拳をレイはを片手で受け止めた。
こんな状況にもかかわらず、怒っていても表情に出さないのを見て神奈は素直に尊敬した。初対面でいきなり殴られれば神奈でもキレる自信がある。自分のときは唐突すぎて受けとめることすらできず、友達であるからこそ怒りよりも困惑の方が大きかったのだ。
「笑里の挨拶をよく受け止めたな。今のまともに当たったら骨の十本くらい折れてたかもしれないぞ」
「そんな挨拶は早く矯正した方がいいと思うけど……」
矯正しようと神奈も思わなかったわけではない。しようとしても直らなかったというのが正しい。
人を殴るのはダメと教えても、笑里は「ならなんでゴリキュアは人を殴ってるの? 正義の味方だよね?」と返す。漫画やアニメは現実と違うと教えても、笑里は「ゴリキュアが言ってたよ。アニメの力は素晴らしい、そしてこの腕力も素晴らしいって。だから挨拶として使うんだって」と返してくる。無論神奈とてその台詞は覚えているが、少なくとも現実で悪くもない人間を殴るのはよくないと分かっている。
拳を引いた笑里は満足そうにしながら、さらなるおかしな発言を続ける。
「さあ、次はレイ君の番だよ! 私を殴って!」
本当に現実なのかすら怪しく思うほどレイは「……え?」と困惑の声を漏らす。
常識的に考えて、初対面で殴りかかり、その次に殴れと強要してくるなど異常すぎる。右頬を差し出す笑里に恐ろしい生物でも見るかのような目を向ける。
「ご、ごめん、意味もなく人を殴れないよ。君の可愛い顔に傷が残るかもしれない」
「思いっきり殴り合わないと友情は始まりもしないよ?」
「さっきの神奈との友情が否定された……」
残念ながら神奈とレイは殴り合っていない。笑里の言葉通りなら友達ではないことになってしまう。
一歩も引かない笑里相手に、レイはどうしたものかと困り果てて神奈の方を見る。
助けを求める視線に神奈は深いため息を吐き、ゆっくりと席を立ちあがる。
「それじゃあ私は行くよ、レイは支払いよろしく。ほら笑里行くぞー」
「あ、うん。ごめんねレイ君、殴り合いは出来なかったけど私達はもう友達だからね!」
「えぇ? どっちなのさ……」
殴り合いをして友達になるのか、しなくてもなれるのか。もはやどちらか分からない。
それはともかく、勝負に勝った神奈は笑里を連れて歩き始め――負けたはずのレイが引きとめる。
「ちょっと待ってよ。まだ勝負は終わっていない」
何を言われたのか分からずに神奈は立ち止まる。
「神奈、君は勝ってなんかいないよ。確かに君の予想通り、というか目論見通り彼女、つまり女性が入ってきたけれど僕は負けていない」
「どういうことだ。私は女、レイは男に賭けていたはずだろ」
「確かにそうだね。でも勝負は次に来る客の性別だったはず、彼女はこの店に入ってきたけれど何も注文しない。なぜなら君と一緒にすぐにこの店から出て行ってしまうからね。つまり彼女は客じゃないのさ」
屁理屈もいいところだ。しかし卑怯なことをした神奈は何も言えない。
だが勝負が終わっていないというのなら、まだ続ければいいだけの話。客ではないというのなら、客にすればいいだけの話。結局はそれで終わる。
「……っ! 笑里すぐに何か注文を――」
「いや、もう遅いよ」
神奈達が話している間に別の客が来店していた。
「マスター、このオリジナルブレンド珈琲を一杯」
「承りました。少々お待ちを」
中性的な見た目をした男性客が今、喫茶店オリジナル珈琲を注文してしまった。
勝ったという考えが、神奈の思考を鈍らせていたのだ。細かいミスに気付けなかったのは自身の落ち度。しかし諦めない、負けられない理由が神奈にはある。
「……まだだ、あの人は本当に男か? あの人はどうも中性的な見た目をしている。見ただけでは判断がつかないな」
「ぐっ、なるほど。でもそんなものは時間稼ぎにしかならないよ」
確かにこんなものは時間稼ぎにすぎない。つまり次の手を考えなければならない。そう神奈が思っているとレイが仕掛ける。
「じゃあ、僕が聞いてこよう。まあ十中八九男性だと思うけどね」
「いや待て、それはあの人に失礼じゃないか? 性別が女の人に男じゃないかと聞くのは」
「なぜ女性だと決めつけているんだい? 大丈夫さ、幸い僕らは子供なんだ。失礼でもきっと許してくれるだろうさ」
――非常にまずい状況であると神奈は悟る。
(なんとしてもここで勝たなければいけないんだ! これは負けられない戦いなんだ。なんとしても勝つ糸口を見つけないと……!)
その時、男性客がトイレに向かっているのを見つける。
ここのトイレは男女共用。つまりあの客の性別は分からない。神奈も男なのは分かっているが、負けられないという思いから素直に認められない。
「あ、トイレか。これじゃあすぐには聞けないかな」
「そうだな、ここはあの人じゃなくて次の客で決めないか?」
「仕方ないか、ただし本当に次の客でだよ? 秋野さんが注文しても勝負には反映されないからね」
神奈は次に賭けた。だが予想通りならば勝利できる可能性は存在している。
扉がゆっくりと開いていき、客が来店したことを知らせるベルが鳴り響く。
そこにいたのは神奈と笑里の友人。二人を見つけると呆れたような顔をして近付いてくる。
「笑里遅いよ? 連れてくるなら早くしてよ、外で結構待ってたんだけど」
「あ、才華ちゃん。ごめんね~」
ゆるふわパーマの黄色い髪を背中まで伸ばしている少女――神奈の友達である藤原才華だ。
「藤原さん、今すぐ注文するんだ! なんでもいい!」
「え? まあここで話すなら少し注文してもいいかしら。すいません、このクリームソーダください」
「承りました。少々お待ちください」
注文したことで才華は客とみなされる。これで神奈の勝ちということになった。
渋い店主が飲み物を作るために準備を始める。その様子を見て、才華のことを見て、レイは驚愕の表情を浮かべている。
「なっ、まさか……二人目がいたなんて……」
驚いているレイに神奈は勝ち誇る。
「これで私の勝ちだな」
「ぐっ、ああ認めるよ。僕の負けだ、今回の支払いは僕が払うさ」
諦めたように笑い、レイは財布を取り出す。
「頼んだ。笑里、藤原さん、公園行こうよ」
「お話終わったの? じゃあ行こう!」
「え? 私まだ注文したばっかりで……って待って待って置いていかないで!」
クリームソーダを頼んでしまった才華には悪いと神奈は思うが、勝負がついたのでもう喫茶店に用はない。というか、いてはマズい。なぜ神奈があそこまで勝負に固執していたのか、知られたくないレイに知られてしまう可能性がある。
元々遊ぶ予定だった神奈達は近くの公園に向かう。
その途中で腕輪が余計なことを言いだした。
「もう神奈さんってば、いくら財布を忘れたからってあんな勝負する必要あったんですか?」
神奈の足が止まり、額からは冷や汗が流れ始める。
腕輪の発言を聞いた才華と笑里は振り返って、二人で揃えて口を開く。
「……え、財布を忘れてきた?」
「ええそうなんですよ、それに気付いた時の神奈さんの顔ったらもう真っ青で笑えま――」
「おい?」
「笑えませんね、はい」
他人事なら笑い話にでもなるだろうが、本人からすれば笑えない事態である。
確かに神奈は黒いズボンのポケットに入れていた。そう思っていたのに、会計で出す金額だけ出そうとして、ポケットから財布を取り出そうとしたらなかったのだ。その一瞬だけで、神奈はこの世が終わるかのように絶望し、そこからレイに払わせる策を練るまで二十秒くらいかかってしまった。
お互いオレンジジュースしか頼んでないことから、金額は大したことない。巻き込まれたレイからすれば迷惑であろうが、いざとなれば店主にツケにしてもらおうとしていたので、神奈からすれば問題はない。
事情を全て聞いた才華は納得して頷く。
「なるほどね、それでそんな普段ならしないような賭けをしたのね。だったら連絡してくれたら一万くらい出してあげたのに」
「……いや、払う額はその十分の一以下だから」
「それってもう喫茶店で払う金額じゃないよ」
意外そうに目を丸くする才華は「え、そうなの?」と呟く。
まだまだ彼女の金銭感覚、お金についての常識は足りていないのを神奈は理解した。
* * *
喫茶店『マインドピース』の店内。
神奈達が出て行ったことにより再度ベルが鳴り響く。
店内に残されたレイは神奈について考えていた。
(神奈はどうしてあそこまで必死になっていたんだろう? こんなものはただの暇つぶしだったはず……。彼女には負けてはいけない理由があったのか?)
トイレから先程の男性客が出てきて席に戻る。
少ししてからまた新たな客が入店してきたが、どうやら先程の客と待ち合わせていたようだった。長い茶髪を首の部分で結んで一つにしている、おっとりとしていて眠そうにしているが、可愛らしい女性。
女性が席に着くと、二人は挨拶をして話し始める。
「や、遅かったね。トイレに行ってたから結果的には良かったけど」
「え、お腹調子悪いの? 大丈夫?」
「うん、なんとかね。でもなんだったんだろう、急に寒気がしてね」
「もう心配しちゃうよー? 私のカッコいい彼氏なんだから」
「はは、ありがとう。それを言うなら君だって可愛い彼女だよ」
会話の内容からも、もはや分かりきっていたことだがトイレに行ったのは男性だった。神奈の機転、というか卑怯さで、一度決定したレイの勝利は消えたのである。レイがなんとも思っていないからいいものの、人によっては怒りだすだろう。
(あのタイミングで腹を下した……。少し殺気が漏れ出てしまったかな? いきなり殴られそうになってビックリしてしまったからなあ。……なら神奈もあの笑里って子もなんでなんともなかったんだろう?)
思考に没頭していたレイは手元にあるオレンジジュースを飲み干す。
「しかし……やっぱり僕の勝ちだったんじゃないか」
三人分の代金を手に持ち立ち上がる。お金をカウンターにいた店主に渡してから、レイは喫茶店を出ていった。




