107.3 食堂――おばちゃん――
米がないことにまだ心の中で文句を言いつつ神奈は黙々とカレーを食べる。
一緒に牢屋へ入った同期の女性、伊藤はといえばオロオロしながら何度か神奈の方を見ていた。気弱そうな女性だ。この大監獄ハーデスに連れて来られた以上、彼女もれっきとした犯罪者のはずなのにそんな雰囲気が全くない。
「あ、あの……神谷さん、ですよね?」
「え? ああそうだけど……伊藤さんだっけ?」
「は、はい! 伊藤です!」
カレーを食べるのに使用していたスプーンの手を止めて神奈は伊藤の方を向く。
「こ、これからよろしくお願いします!」
「……ああ、よろしく。ていうか年上なんだし敬語いらなくない?」
神奈はまだ中学生だが伊藤は高校生らしい。自分が敬語を使っていないのに相手には敬語を使われるというのが、神奈の心に多少のこそばゆさを感じさせる。
「そ、そうですかね?」
「そうそう、むしろ強気でいてもいいくらいだと思うんだけどな」
「え、えっと……じゃあ……」
伊藤は強気という言葉を何度も頭の中で繰り返す。
「あぁ? おまえ何見てんだこらあ……ど、どうでしょう?」
「いやごめん、無理しなくていいから」
明らかに無茶ぶりされたかのような反応なので、神奈は申し訳なくなり謝罪する。
「そ、それでえっと、何が言いたいかっていうとですね……年が近いですし仲良くしましょうということで……」
両手の人差し指をクルクルと回しながら、伊藤は何かに怯えながら小さな声で告げる。神奈は少し呆れたようにそんなことかと心で思いながら、仲良くしようという意思を持っていることを答える。
「それくらい別にいいって。むしろ仲良くできるか分からなかったから伊藤さんみたいなのありがたいよ」
「そ、そうですか!? じゃ、じゃあ――」
「あっれえ? お前ら二人が新人かなあ? まだガキじゃねえかよ」
伊藤の言葉を遮って牢屋に入って来た者が二人。
一人はスキンヘッドで頭の右上に刺青が入っている粗暴そうで筋肉質な、男性にしか見えない女性。
もう一人は豊満な胸でオレンジ色の囚人服を前方に押し出している、モデル体型の大人っぽい女性。
牢屋の中は四人部屋で、それぞれ男性と女性に分かれている。神奈はきちんとそういった配慮がされているのに当たり前なことながら感心する。ハーデスに入る前、クロノスが骸骨のような男をあっさり殺したことで常識がないのかと疑っていたからだ。
「全く、ガキが何して……おお!? カレーじゃねえか!?」
「え、ええ、はいそうです」
筋肉質な女は伊藤の持っているカレーに目をつけると目を輝かせる。
神奈は先程伊藤と話している間にカレーを食べ終わったため片付けている。よって九十八番の牢屋にある食べ物は伊藤の持っているカレーしかない。
「らっきーだぜ!」
「……あ」
「うめええ、やっぱカレーはうめえなあ」
筋肉質な女は伊藤の手からカレーの皿を奪い取り、半分以上残っていたカレーを飲み物のように飲み干してしまう。その突然の行動に伊藤も神奈も呆気にとられていたので何も出来なかった。伊藤はただ信じられないように、丸い目で自分の食べ物を奪った女のことを見る。
「あぁ? 何だよその目は? 反抗的だなぁ?」
「い、いえ、そんなことは……」
筋肉質な女は伊藤が自分のことを見ていると分かると、苛つきから顔を歪めてズカズカと歩み寄る。ベッドに座っている伊藤は遠ざかることも出来ずに恐怖するしか出来ない。
「あぁ? オレは先輩だからよぉ? 当然カレーを食べても文句はねえよなあ?」
一センチ程しか二人の顔の距離は離れておらず、伊藤が先程やってみせた棒読みの大根役者のような演技ではない本物の口調。伊藤はただ汗をだらだらと流し、目を泳がせ続けることしか出来ない。
目前で起きた横暴な事件に神奈は不愉快なものを覚える。
「おい」
「……あ?」
神奈は思わず低い声を漏らしており距離を詰めると、その中学生女子らしい小さな手で髪一本もないボールのような頭をがっしり掴む。筋肉質な女は頭を掴まれたことで不快になったのか更に顔を歪める。
「お前も新入りだよなあ? このオレに盾突こうってのかあ?」
「黙れよ、人の食べ物盗る常識がないやつの言葉なんて意味ないから」
筋肉質な女は神奈の前に立つ。
二人の身長差はかなり開いており、神奈は平均的な数値だがその女は二メートルを超えていた。上から見下ろされて睨まれる神奈だがそんなものに恐怖は感じない。ただ全身を怒りに支配されていたことで睨むような視線を向ける。
その視線を反抗的なものだと思った筋肉質な女は拳をゆっくりと振り上げる。
「オレは五年も前からここにいるんだぞ!? 逆らうなんて百年はええんだよ!」
「うるせえ、黙れって言ってんだこのクズがあ!」
「ぎゅぶっ!?」
神奈は筋肉質の女の拳が振り下ろされる直前に跳び上がり、女の後頭部に手を回して膝蹴りを叩き込んだ。女はその一撃で大きな鉄球が顔面に衝突したかのような衝撃を味わい意識を手放す。白目を剥いて倒れたその女を踏みつけて、神奈は怯えていた伊藤の心配をする。
「伊藤さん、大丈夫か?」
「あ、はい。でもその、踏んでますよっ……!」
「――あっはっはっはっは!」
伊藤からは怯えが消えており神奈が安心していると、突然背後から笑い声が聞こえたことで目線をそちらに向ける。
「いやっ、悪いね! そいつは強盗を五十件以上やった挙句にムカついた人間は殺しちまう凶悪犯だったんだが、まさかアンタみたいなガキにのされちまうとはね……笑うなって方が無理だよ!」
豊満な胸をしている女は先程のいざこざを無視して、神奈の上にある自分のベッドに座っていたのを神奈は気付いていた。しかし助けてくれる雰囲気ではないため後回しにしたのだ。
「……お前は助けなかったよな。この禿の仲間かと思ったけど違ったのか」
「はげっ! はげっ! ぷははははっ!」
「いちいち笑うの止めろよ! 話が進まないから!」
「はははっああ、ごめんごめんついな。アタシは不知火、アンタが踏んでるのは青木ってんだけど仲間じゃないよ。ただ一緒の部屋ってだけさ」
不知火は笑いを堪えて、自己紹介すると青木の紹介も済ませる。
「アタシは十年以上前からここにいる。面白いもん見せてもらったから気に入ったし仲良くしよう」
「悪人ってわけじゃないみたいだし、まあいいか」
「か、神谷さん……私達は悪人だからここにいるんじゃ……」
現在地が監獄内だということを忘れていたわけではないが、神奈は「あ」と言葉を漏らしてそうかと納得する。極悪人が集うこのハーデスでは良い人間などいるはずもない、誰もが心の中で何を考えているのかは分からないのだ。
「でも伊藤さん、それに不知火さんも……本当に罪を犯したのか?」
「それは……」
「ああ待ちな、自分のことを話したがらない連中も多いんだ。犯罪歴を自慢するようなやつじゃない限り話すやつはいないよ」
伊藤が俯いて困っているのを感じた不知火は助け舟を出すようにそう言うが、神奈は話してみて二人が犯罪者ではないと思い始めていた。今の自分のように冤罪でこの場所に来た可能性だってある。
「まあ今日は寝ときな、明日は、というか毎日六時起きだからねえここは」
「えっ!? そ、そうなんですか!? も、もう寝ないと起きれませんね……! すぅっ……」
伊藤は驚いてすぐにベッドへと横になって寝息を立てる。
さすがに早すぎる就寝に神奈は驚愕しつつ他の部屋を見てみると、全ての部屋で灯りは消えており神奈がいる部屋だけがまだ少し明るかった。
牢屋の中には蛍光灯が付いている。ハーデスの屋根部分にはソーラーパネルが装着されていることにより、電気が好き放題使えるシステムだ。太陽光発電なので雨が続いて曇り空だった場合は停電のようになることもある。
神奈はとりあえず寝ようと思い、自分のベッドに向かって歩くと突然灯りが消えて視界が奪われる。停電かと驚くが、不知火が灯りを消したのだと分かるとまた歩き出す。しかし何かに足が引っ掛かって転び、ベッドのサイドフレームに顔面を強打してしまう。
「いっつ!? 何が……あっ」
青木の腹の上に乗っていたことを忘れており、女性とは思えないごつい筋肉質な腕に躓いたことを悟る。酷い醜態だが暗闇だし誰にも見られていないだろう……と決めつけたのは早かった。
「ぷはっ……! ぷくくっ……!」
不知火の堪えるような笑い声が聞こえたことで、神奈は羞恥により頬を赤く染めて大人しくベッドの中に潜る。そのまま蹲るように丸まったまま眠りについた。
* * *
ハーデスの朝は早い。
午前六時という早い時間に全員が起床して、朝食を食べに二階へと向かわなければならない。もし食べ損ねたとしても残った朝食は全て、クロノス達看守の食糧に追加されるので一分一秒の遅れも許されない。
「起きて……せえ……起きて……」
「ううんっ、起きるっ、起きるからっ……」
神奈は体を揺さぶられることで強制的に眠りから覚まされる。
こうして起こしてくれるのは誰なのか。普段なら腕輪だがハーデスに来てから一度も喋っていない。伊藤辺りかと思いながら神奈は目を擦ってベッドから起き上がると……傍には伊藤の癒されるような顔ではなく、強面の青木の顔があった。
「うっ、うわああああああ!?」
「ど、どうしたんですか姉貴!?」
「いやいきなりそんな凶器みたいな顔面があったら……姉貴ってなんだよ」
神奈は耐えきれずに悲鳴を上げるが引っ掛かった言葉があったので問う。
「いえね、昨日の凄い蹴り喰らって敗北したのを知って、貴女こそ姉貴と呼ぶに相応しいと思いまして」
「何だよそれ! 気持ち悪いから即刻止めろ!」
「じゃ、じゃあ姐さんなら……」
「それも止めろよ!」
「……ね、姉さん!」
「……もういいよ、好きに呼べば」
決して引かない青木に神奈は呼び方などどうでもいいかと折れた。
神奈が部屋を見渡すとまだ伊藤も不知火もいたので、どうして青木を止めていないのかを問うが、伊藤は「まだ怖い」と言い、不知火は「面白かったから」と笑いながら告げる。
「アタシ達はアンタを待ってたんだ、早く食堂に行かないと朝食が食べられないよ?」
「もう私も準備は終わってるので、か、神谷さんも行きましょう」
準備といっても化粧品などないため、女性だろうと男性だろうと身だしなみを少し整えるくらいしかない。それでも伊藤は女子高生なために少し髪が跳ねていたりすると気になって直そうとするのだ。実は女性にしては髪は短めでも癖毛が酷いため、それだけで二十分は費やしていた。
「そうかあ、じゃあ行こう」
「お供します姉さん!」
「……それじゃあ行くか」
青木のせいでテンションが下がっている神奈は螺旋階段で食堂まで一気に下りる。
不知火の案内により、食堂の奥にいる老齢の女性に朝食を貰うために並ぶ。
ハーデスの食堂では全ての食事をその女性から受け取り、食べ終われば食器を返しに行くルールだ。食事の量などは全員が同じであり、文句を言って暴れた者は過去に何人もいたが全てクロノスに処刑された。
神奈は女性から朝食を受け取り見てみると疑問を持つ。
茶碗一杯の白米と味噌汁に目玉焼き、ほうれん草の炒め物などなど、日本人に合わせたようなメニューだ。世界中から大犯罪者が集まる場所でこんな料理を出して、全員が納得してくれるのだろうか。
「ああその顔は、朝食が日本食みたいなのは何でだって顔してるね? あの食堂のおばちゃんはベテランだからね。新入りのアンタ達含めた囚人全員の出身を覚えてて朝食を決めているのさ。このハーデスの一番の働き者は明らかにあのおばちゃんさね。囚人の出身地ごとに料理を変えるなんて苦労するはずだよ」
長い黒髪が味噌汁に浸かっていることに気付いていない不知火はそう説明する。
「味噌汁に髪が浸かってるぞ」
「あっ、なんてこったい……アタシの髪が味噌汁の香りに……!」
不知火は慌てて手に持っているトレーをテーブルの上に置くことで髪を味噌汁から脱出させるが、その髪先からは味噌汁の水滴がポタポタと床に垂れている。
食堂の席は囚人全員が座っても大丈夫なように膨大な量があるが、そもそも囚人がハーデス許容制限にまで達していないので座る席はいくらでも空いている。
神奈達はもう何も言わずに朝食を食べ終わると、周囲の囚人たちが慌ただしい様子なことに気付く。
「どうしたんだ、あいつら」
「ああ、そりゃあもうすぐ内職の時間ですからね……」
「そういえばクロノスさんが内職があるって言っていたよね……?」
神奈の問いには青木が嫌悪感を表しながら答え、その答えに伊藤が指を顎に当てて思い出すような仕草をする。
「しょうがないねえ、もうすぐ始まる時間だし早いとこ片付けてアタシ等も行っちゃおうか」
不知火が髪先から味噌汁を垂らしながらそう言い、神奈達は三階にある内職部屋へと向かった。




