86 過去――諦めれば楽になれる――
教師に偉そうな態度をとったとは思っているが罪悪感など感じない。
敬意を抱くことすらできないダメ教師相手に、なぜ何も言ってはいけないのか。弥生も授業が受けられないことに酷くショックを受けていた。せっかく入った学院だが授業すら受けられないのなら意味はない。
教室に戻った二人はこれからのことを考える。
「どうすればいいのかな?」
「とりあえず自力で実力を埋めるしかないよ。魔導大会ってのがあるらしいんだ……そこで証明すればいい、落ちこぼれでも努力をすれば報われるってことをさ」
「そっか、そうだよね」
魔導大会。通称、魔導祭。
三学年、AクラスからDクラスの生徒が、希望者のみ二人組で出場するメイジ学院の体育祭みたいなものである。二人同士で戦い、優勝すればこの学院で最強の称号を手に入れられる。その称号に興味がないわけではないが、そもそも斑達は実力で遥かに劣る。今のままでは勝利するなど夢のまた夢、だからこそ勝つために努力する。
もちろん今年優勝など無理がある。しかしそこで一勝でも出来れば実力が証明される。
「でも魔法は習ってないし……どうするの?」
「それは考えがある。魔力だ、魔力を使う」
どういう意味か分かっていない弥生は「魔力を?」と首を傾げる。
「うん、魔力って一言にいっても実は出来ることが色々あるんだ。肉体を強化したり、バリアを張れたり、体から離れた魔力を精神と繋げて物体を感じ取るなんてことも出来る」
この学院にいる間、授業が受けられないからと斑は何もしていなかったわけではない。
魔力と呼ばれる力でどんなことが出来るのか、片っ端から検証していた。その結果、ついさっき説明したことや、魔力エネルギーを集めてそのまま弾にして放出する魔力弾など、様々な用途があることが分かっている。
それからというもの、魔力の応用技術を習得するため二人で猛練習を開始した。
男性教師もたまに見に来ていたようであったが、結局何もしてくれない。
一か月もの間練習した斑達は、魔力応用の技術を少しずつ身につけていた。
そんなある日のこと。弥生が髪留めに使っていたピンを失くしてしまったというので、斑達は学院中を探していた。今まで差別されるのが嫌で、無暗に出歩いてはいなかったが今回は仕方がない。
「あれえ? もしかしてDクラスの男じゃねえ?」
ヘアピンを探し続けていると、見慣れない男子生徒から声を掛けられる。ネクタイの色から同学年だということは分かる、だがそれだけだ。冷笑を浮かべる男子生徒の思惑までは分からない。
「君は?」
「おいおい俺はBクラスだぜ? ちょっと頭が高いよなあ」
「……用がないならもう行っていいですか」
出歩けば見下す連中が寄ってくる。周りも見て見ぬフリをするばかりで助けようともしない。そもそも助ける価値なんてないと思っているのかもしれない。
斑は先を急ぐため離れようとしたが、男子生徒は立ち塞がってくる。
「ダメだ、お前に用があるんだからよお」
会ったこともないのに、明らかに見下しているのに、ろくな用事ではないだろうと斑は警戒する。
「Dクラスにもう一人、女いるだろ。俺ちょっとアイツのこと好きになっちまってよお。いいだろ? 協力してくれよ?」
もう一人といえば弥生しかいない。
弥生は確かに可愛い部類に入るだろう。過ごしていくうちに斑も心が惹かれており、この時は明確な嫌悪感を出しているのが自分でも分かった。彼女の優しさや明るさには助けられた。そんな彼女が好きであると、斑は今初めて自覚したのである。
「ごめんなさい、嫌です。僕も……ガッ!?」
「そうかよ、残念だあ」
突如感じた痛み。殴られたのだと斑が理解したのは少し後だった。
(見えなかった……恐らく魔力による身体強化か)
腹に風穴が空いたかと思えるほどの痛み。それだけで分かってしまった……たとえ斑が身体強化しても勝ち目がない。他の応用技術を使っても同じ結果になるだろうことを悟った。
「じゃあな、次会ったら協力してくれよ」
男子生徒はそう言うと立ち去っていく。
斑はそれを、床に倒れて蹲ったまま見ることしか出来なかった。
ある程度回復したら斑は歩き出し弥生と合流する。どうやら無事にヘアピンは見つかったようで、弥生の方に男子生徒が向かったかもという心配が杞憂であったことに胸を撫で下ろす。
(良かった……彼女の方には来なかったんだ)
それから数日後。
斑は教室での訓練に身が入っていないことを弥生から指摘される。
やる気なんて出る筈がない。もうあの男子生徒との一件で、勝ち目がないと分かってしまったのだから。悔しく思うも教師の言う通りだった。D……デス、生きる価値がないとは本当だったのだ。
「違うよ、何か違う。洋君さ、もしかして怖がってる? 勝てないとか思ってる? やってみなきゃ分からないよ?」
元気に励まされても斑の気分は晴れない。
「分かるよ……僕なんかが勝てるわけ……」
「分からないよ、勝負には運が絡んでくるし。そうだ、私ちょっと思ったんだけど、魔力を全部集めれるだけ拳に集中させちゃうってのはどうかな! これって凄い威力なんだよ! まあ使った後倒れちゃうから一度きりの大技なんだけどさ」
気分は晴れなくても、斑は考え直す。
弥生はまだ諦めていない。彼女がやる気を出しているのに、パートナーである斑がやる気を出さなくてどうするのか。
勝利の夢を見るのは悪いことではない。
何も現実を知らない弥生には、まだ夢を見させてあげたいと斑は思う。
勝てるはず、なんていう希望を持たせていたい。
「……私さ、夢を見るの」
唐突に話題が転換されて斑は戸惑う。
「えっと、夢? それなら誰だって見るよね?」
「違うの、私の夢って半分の確率で正夢なんだよ。悲しいことも、嬉しいことも、ぜーんぶ現実になっちゃうの」
「それって……予知夢?」
固有魔法という名称が斑の頭に思い浮かぶ。
人間に限らず、魔力が宿る生物には固有の力を持っている者がいる。持たざる者は羨み、持つ者は誇ってもいいほどに希少な力だ。
予知夢を見れるとしても大会に貢献はできなさそうだが、まだ知りえていない事実を知った斑はなんだか嬉しくなる。
「かもね、それで見たんだ。私と洋君が大人になってて二人で笑い合ってるの。……私の方はなんだかあんまり成長してなかった気がするけど……これってさ、どんな困難も乗り越えられるってことじゃない?」
未来で笑えるのなら、それはきっといい未来だ。
斑は妄想で弥生と結婚までして、母親似の子供と遊ぶ微笑ましい光景まで幻視する。そこまでいくと重症だが斑は気にしない。
「そっか、きっとそうだね……よし、頑張ろう」
「うん! 絶対勝とうね魔導大会!」
それから再開した訓練の途中――最悪の人物が教室に入って来た。
「うわっ、マジで二人かよお」
「あ、君は……」
その男は斑が以前会った男子生徒。
弥生のことを舐めまわすように見て、男子生徒は邪悪そうに笑う。
「えっと、知り合い?」
「うんそうそう、この……ま、まら? とは親友でさあ」
親友という単語に反発して斑は『誰がお前の親友だ!』と叫ぶ――ことはない。
口に出したかったが出せなかったのだ。恐怖が体に染みついている。
脳に焼きついた痛みを唐突に思い出す。腹部が痛くなった気がして、斑は無意識の内に腹をさすっていた。
「でさあ、弥生ちゃんだよね……ちょっと遊ばねえ?」
「え……いやでもまだ訓練してる最中で」
「大丈夫だって、楽しいことだからさぁ」
男子生徒が弥生に薄気味悪い笑みを浮かべたまま歩み寄る。
近付いてくる男子生徒に怯え、弥生は後退ろうとして尻餅をついてしまう。
逃亡を許さない男子生徒が弥生に跨った。机や椅子などは退けてあるため空間は広く使える。たとえ暴れても教室に被害が出ない。
「……ちょっ、ちょっと! 止めて!」
弥生は必死に抵抗している。男女の力の差か、または魔力の差か抵抗は無駄である。その徐々に腕などを押さえられていく様子を斑は青ざめた顔で見ていた。
助けを求めるように弥生が斑を見やる。
こうして頼れるのはもう斑しかいないからだ。教師は職員室にいるし、Dクラス方面には滅多に人も来ない。現場にいる斑にしか現状を打破することはできない。
弥生の泣きそうな顔を見ていて、斑には勇気が湧いた気がした。
「おい、止めろ!」
「ああ?」
「……いや、止めて……ください」
――気がしただけだった。
腹部の痛みが忘れられない。斑にはどうしても立ち向かう力が出ない。
強気な声と睨むような目を向けられると萎縮してしまう。
「ほおら、大人しくしろよお。初めてでもすぐに気持ちよくなるから」
「や、やめてよ……」
弥生の服が強制的に脱がされる。白い肌に、可愛らしい下着まで現れる。
涙を流しつつ抵抗しても、ささやかな抵抗とばかりに押さえられて、男子生徒の手によって水色の下着が今にも脱がされようとしていた。
もう何をされるのか弥生も斑もとっくに分かっている。合意ならともかく、これでは犯罪そのものであると理解している。
まだ抵抗している弥生を見て、その秘部に触れる汚らわしい手を見て、窓に映る何もしない自分を見て、斑は――。
「もう、いいや」
――全力で身体強化した蹴りを男子生徒の尻にお見舞いした。
(先のことは考えない。今は助けなくちゃいけない!)
勇気というよりは怒りに支配された一撃。
勢いの乗った蹴りを喰らった男子生徒は転がり、壁に激突する。
「さ、今のうちに逃げるよ弥生!」
「洋君……!」
涙を零しながら笑顔を見せる弥生。
純粋に守れてよかったと斑は心から思った。
弥生が斑の手を取って立ち上がり、助けを呼ぶために廊下へ向かおうとした時――男子生徒の怒鳴り声が二人の耳に届く。
「ざけてんじゃねえ! テメエの攻撃なんて効くかよ、落ちこぼれがあ!」
「うそ、だろ?」
いつの間にか起き上がっていた男子生徒が駆けて来る。
今度は斑にも攻撃が見えていた。殴られる瞬間がはっきりと見えた……それだけだ。反応ができないことに変わりない。
短い悲鳴を上げて斑は蹲る。
痛みは前回よりも酷く、腹部からどんどん周囲に広がっていく。前回は手加減されていたのだと今さらながらに気付き、圧倒的な力を前に立てなくなる。
弥生が「洋君!」と叫ぶも、倒れた斑を嘲笑する男子生徒にすぐ押し倒された。
(ああ、そうか……結局ダメなんだ。落ちこぼれだもんなあ)
それから斑は何も出来なかった。
目の前で好きな人が自分以外の男に汚されるのを、黙って見ているしかなかった。いや、途中からはもう見たくないと思い視界に床しか映さなかった。彼女の泣き声も、そして嗤う男子生徒の声も全て耳に聞こえていた。
斑が動くことはない。痛みのせいでもあるが一番の問題は――弱い心。
何も出来なかった斑達はその日、家に帰って一日を終える。
翌日。教室に斑が行くと既に弥生は座っていた。
あんなことがあったのに不登校にならなかったのはいいが、目に見えて元気がない。彼女はまるで生きた屍。そんな状態でも彼女は挨拶を欠かさない。
「洋君、おはよう」
「あ……おはよう」
教室では目に光のない二人だけが存在している。
弥生は斑に対して、昨日のことを何も言わなかった。
それからの日々は苦痛の一言で済む。
あの男子生徒のもとに弥生は何度も行っている。
行きたくないはずなのに、力で脅されてしたくもないことをしている。
彼女を助ける勇気が、男子生徒を止める勇気がもう斑にはない。
教室でただ一人、窓の外を眺めながら過ごす日々。
そんな暗い日々はあっという間だった。
「……今日が本番か」
本番、つまり魔導大会当日。
あれから訓練もたまにしていたが目に見えた成果はない。それでも大会に出ることだけは忘れておらず、斑は入学試験でも使われたドーム内で待機している。
パートナーである弥生がまだ来ていないので、寝坊でもしたのかなどと思いながら待っていた。一人で、独りで――大会が終わるまで待っていた。
弥生は現れなかった。斑は戦わずして敗北し、何も出来ずに終わったのである。
途方に暮れている斑に近付いてくる男が一人。
ずっとDクラスのことを放置している男性教師であった。
一言「残念だったな」と声を掛けてくれただけで、斑の瞳から涙が浮かんでは零れる。
しかしその「残念」という言葉の真の意味を――告げられる。
「今……なんて?」
「だから死んだ、夢咲は死んだんだ」
「嘘だ……そんなの嘘だ……なんで……!」
夢咲弥生の死亡。
斑にはこれが現実のような気がしなかった。たとえ嘘だとしても許せる言葉ではなく、男性教師に掴みかかる。黙っている男性教師は全く抵抗せず受け入れた。
兆候がなかったなど、斑には言えるはずもない。
いつ自殺してもおかしくない環境下だったに違いないのだ。何度も顔を合わせておきながら、斑はそれを無視してしまっていた。
喚くのを止めて、斑の手が男性教師の首元から離れる。
「……死因はなんだったんですか」
「死因ね、聞かない方がいいと思うがね」
「聞かせてください」
ここで聞かなければ斑は後悔する気がした。
男性教師は難しい顔をして話し出す。普段やる気がない男でも、顔を顰めるほどの理由はいったいどのようなものなのか。
「お前は産褥期死亡って知ってるか?」
「……さん、じょく?」
「要は出産して死んだってことだよ」
「……しゅっ……さん?」
言葉の意味は分かる。頭で理解したくないが分かってしまう。
つまりそれはあの男子生徒との、愛の結晶などと呼ぶにはおこがましいナニカであり、かつて斑が妄想していた幸せとは全く違う状況から生まれた命だ。
「待ってください、あの男は今日も平然と学院に来ていた。彼女が死んだと知らない筈はない。なんで何事もなかったかのように登校してるんですか。それにおかしいでしょ、まだ中学生なんですよ……親は反対するでしょうが!」
「あいつの親はいない、既に他界していたらしいからな。それにあいつ自身冷静じゃなかった、いや冷静だったのかもな……妊娠すると子供に情が移ると聞いたことがある。夢咲は相手が誰であれ関係なく、体の負担を考慮した早産とはいえ子供を産むことを決意したんだろう」
斑は何も知らなかった。
親がいないことも、妊娠していたことも、何一つ知ろうとしなかった。悲劇から救出したいと思っても思うだけに留まっていた。
「辛いだろう、悲しいだろう……俺も似たようなことがあった。だからこそのアドバイスだ……諦めろ。何もかも、全てを諦めろ。諦めれば楽になれる」
「諦めれば……楽に」
斑は言われた通り諦めた。彼女のことをもっと知りたいと思うことも、男子生徒に復讐しようと思うことも、大会にて勝利することも、これから成そうとした全てを諦める。
微かな光は失われ、斑は機械のように決められた行動を起こしてそれからも生き続けた。
*
現在。斑は教師になり、何も教えていない教え子に「ダメな大人」と評された。
当たり前だ、斑はあの時の男性教師と同じ状態になっている。
思い返せば斑はあの時、あの男性教師に怒っていたのだ。それなのに今の自分はその教師と同じ道を歩んでいた。斑は教え子に言われてようやく気が付いたのだ。
教え子である神奈はあの時の斑とは違う。
Bクラスの男に襲われそうになった時も、それから起こした行動も、弥生や斑とは全く違うものだ。神奈は強い、心も体も子供とは思えない程に強い。
「ああ……ダメな大人か」
今までを振り返ると、斑にはあの悲劇からずっと思い出と呼べる記憶がなかった。
斑はずっとあの時のままで道を踏み外している。
「なあ、弥生……もう十年以上だ、こんなに経った今からでも……道を正せるかな? 君はこんな僕を許してくれるのかな?」
許されるわけがないと斑も分かっている。
現状を知りつつも助けられなかった斑に許される道はない。
「踏み出そう、正しい道を」
しかしこれからの歩みを正しい方向に変えることはできる。
(まずは謝ろう、神谷に、教え子達に。そしてこれからはまともに授業もするし、生徒と向き合っていこう。それと、あの時から会う勇気が湧かなかったけど……彼女の子供にも会いに行こうかな)
そう思い廊下を歩こうと足を進めたら隣で弥生が笑った気がした。
幻覚だと分かっていても、斑はその幻覚に笑い返す。
遅くなったとはいえたった今、斑は悪夢から目覚めたのである。




