79 二人目――はじめの一歩――
腕輪「神奈さん何読んでるんですか?」
神奈「え? はじめの一歩」
腕輪「なるほど、漫画ですか」
――そして翌日。
教室で坂下から気付かれないように帰還した腕輪から報告を聞く。
本を坂下の兄が燃やしたという事実も、逆らえないから勇気がほしいという彼の気持ちも神奈は知ってしまった。知ったからにはもう放っておけない。
勇気の出し方などという本を読んでいたのはそれが深く関わっているだろう。何十回も読むほどに、坂下は苦痛を味わいながら立ち向かおうとしている。
一度恐怖したものを克服するというのは難しいことだ。神奈も簡単には出来ない。
「なあ坂下君、今日、君の家に行っていい?」
「え!? な、なんで急に!?」
「君の家にある本も見てみたいと思ってさ、本好きなんだろ?」
「確かに好きだけど……いや、うん。分かった、来ても構わないよ」
一瞬考え直して坂下は許可する。
本を見たいという理由は建前でしかない。神奈が坂下家に行きたい理由とは、ただ本を燃やした兄を痛い目に遭わせたいだけだ。しかし殴る蹴るの暴行はなしで、彼の勇気を引き出すために行くと決めた。兄への報復は立ち向かった彼が行えばいい。もし報復が足りないようなら神奈が手を出せばいいだけの話だ。
「俺も行きたいです神谷さん」
「影野、お前はダメだ。クラスの人間と親睦を深めてくるだけだから」
「それなら俺もいいですよね!」
(ヤバい、言い訳が裏目に出た……)
もう影野と関わりたくないとまでは言わないが、あまり近寄らせたくないと神奈は思っている。信仰というか崇拝というか、そういった感情を向けられるのは単純に精神的にキツイのだ。暴走させないためにある程度一緒にいなければいけないとはいえ、ただただ対応に疲れる。
「……二人っきりの方が親睦を深めやすいと思う。お前は南野さんとでも深めてろ。少しは私以外とも仲良くなれよ」
押しつけた対象の葵は露骨に嫌な顔をして「えっ」と呟く。
「くっ、確かに……! しかし神谷さんを男と二人っきりにするなんて不安です! いくら人畜無害そうな顔をしていても男はウルフ……神谷さんの美貌を前にすればきっと暴走してしまうでしょう」
「ちょっ、僕そんなことしない……」
「安心してください影野さん。この私がついていますので、神奈さんの貞操はしっかり守りますとも!」
必死に否定しようとする坂下だが息もつかせぬ会話に入れない。
自信満々で腕輪が宣言したことにより影野はゆっくりと頷く。
「頼りにしているよ腕輪。君の全てを捧げて守ってくれ」
「お任せあれ。元よりそれが使命です」
「……もう行っていいか?」
無駄な会話を終わらせて神奈は坂下と共に学院を出る。
どうせ授業もホームルームも行われないなら学院に下校時刻までいる意味がない。他のクラスはこれから授業が始まるが、神奈は坂下と二人で下校した。
彼の案内で辿り着いたのは坂下家。その外見は貴族が住むような西洋の屋敷であった。日本では珍しいため周囲の家から浮いている。
家に入り、坂下の部屋へと二人で向かう。
赤い絨毯が敷かれている廊下を歩いて部屋に到着した。本棚が壁際にギッシリと詰まっていて、まるで図書館のような部屋だ。余程本が好きでなければこんな部屋にはならない。
お茶を入れて持って来てくれた坂下に神奈はまず本を返却する。
「あ……ありがとう」
「貸してくれたのは君だろ。……まあいいか、昨日私は言ったよな。隠し事をされている方が嫌だって」
「え……うん、そうだね」
「だから、嫌なんだ。まだ分からないか?」
答えを言ったようなものなので彼もようやく理解する。
本をなくしたといっても焼失してしまったのだと、隠し通そうとしたのにバレているので目を丸くする。
「……まさか気付いて」
「ごめんな、腕輪を盗聴器代わりにさせてもらった。何があったのかは分かってる」
観念した彼は「そんな……」と膝から崩れ落ちた。
「ごめん隠してて……でもこれも神谷さんの為だった」
彼は自分と兄、家族のことを話し始める。
坂下家は大昔から代々魔法に関わる家系であり、メイジ学院が建築されてからは代々通い続けて優秀な成績を残している。卒業後は政府の役人として仕事をする。ゆえに優秀でない者は必要とされない。
坂下勇気は兄の坂下優悟と違って貧弱だった。
魔力量、属性の適性、身体能力、全てにおいて劣る存在。
両親や親戚からは兄の搾りカスとすら罵倒されている。大人達の心ない罵倒は、純粋な子供の悪意を育てる結果となり、優悟も弟を見下し蔑むようになってしまった。
幼い頃は普通の兄弟だったが今となっては戻れない。自分に対して横暴な兄の暴力に坂下はただ耐えて、反抗の意思を抑え付けながら生きるしかない。
「兄さんは二年生のBクラスなんだ。僕達がどう足掻いても勝てる相手じゃない。立ち向かったって怪我するだけだから」
「私のためとか、そういうのを自分が諦める理由にしているだけだろ。私の力を坂下君は知らない。確かめもせずに決めつけて、兄貴が強大だと決めつけて、これが運命ですってか?」
敵わないというのも理由の一つだろう。
しかしやはり一番の理由は恐怖。坂下は怖かったのだ。
ずっと逆らえなかった兄に逆らって、それからどうなるのか。もっと酷いことをされるのではないか。力のない者が力ある者に怯えるのは至極当然。怖がる気持ちも神奈は分かるが、怖がってばかりでは現実を変えられない。
「神谷さんならもしかして勝てるのかな?」
同じDクラスであるのに、坂下がそう思ったことに対し神奈は眉を動かす。
「どうしてそう思ったんだ?」
「え……だって神谷さんは凄い人じゃないか。すぐに行動に移せて、目上の人にも口が利けて、何より……勇気がある」
「あのな……別に私は凄い人間ってわけじゃないぞ」
腕輪から「嘘つき」という声が出たが神奈は気にしない。
そもそも神奈は大した人間ではない。これは神音と話をした時から考えていたことだ。もし力がなかったらどうなのか、自分は無力な状態で何をしたのか。神音にも同じことを言った手前、神奈も同じことを考える必要があった。
もしも力を持っていなかったら笑里や才華を見捨てていたかもしれない。リンナのことも、レイのことも、全て諦めていたかもしれない。何も出来ないならどうしようもないので諦めるのも悪くないはずである。もし立ち向かっても負けることが分かっているのなら、神奈だって立ち向かわない。余計な被害者が増えるだけだ。
つまり神奈には勇気なんてない。坂下が思っているほど神奈自身は凄くない。
「私は力を持ってるだけの一般人だよ、勇気を持ち合わせてるわけじゃない。ただ強力な力を持っちゃっただけのちっぽけな人間なんだよ、だから凄くない。私も坂下君も他の奴らも本質的には変わらないと思う」
そう、何も変わらない。力の大小を無視すれば何一つ変わらない。
誰だって怖いものは怖いのだ。その恐怖を克服するか、立ち向かってこそ真に勇気ある者である。例えそれが蛮勇だったとしても必要なものである。
俯いた坂下は小声で、落ち込んでいるように口を開く。
「そんなこと……信じられない。それに僕は誰かと話すことすら苦手に感じてる。こんなに情けない僕と神谷さんが同じなわけがない」
「私もなんだ」
返ってきた言葉に坂下は「え?」と意外そうな顔になる。
「私も人と話すのが怖かった時期があった」
他者との会話を苦手としていたのは前世の話。
魔法に夢見た神奈は修行をしていた。簡単に言えば頭がどうかしていたのだ。
普通という定義は誰かが決めるものではない。しかし神奈は明らかに普通から逸脱している。堂々と魔法使いになるなどと将来の夢で宣言して、小学生のときにクラスの全員に笑われた。とある件をきっかけにいじめにすら発展した。それから人と関わらないように山奥などで修行をする日々。神奈も今思えば、あれは魔法が使いたいと思うのと同時に、人に会いたくないと思っていたのだと分かる。
それはこの世界に転生して、小学校にまた入学してからも変わらない。
友達が欲しいと思いつつも人目を避けて行動し、極力関わらなかった。勿論話しかけられれば対応するが神奈からは何も話しかけなかった。父親が死んで落ちこむ笑里にも話しかけはしなかった。
頼まれたからとはいえ、笑里と関わったのは運命であると神奈は思う。
笑里は神奈に救われたと今でも思っているが、救うと同時に神奈も救われていた。積極的に関わってくれる友達が出来たことで神奈も段々変われたのだ。
「でも人は変われる。私はそれを知ってるんだ」
父親が死んで悲しんでいた少女も、逆らえない命令で苦しんでいた宇宙人も、人類を滅ぼそうとした転生者も、そして何より神奈自身も変われた。
人は変わろうと思えばいくらでも変われる。
「勇気がないから苦しんでるんだろ?」
その問いに坂下は無言で頷く。
「誰だって初めは怖いもんだよ、でもその初めの一歩を踏み出せたら簡単だ。そのまま歩けることを知っているから次の一歩は初めよりも軽い」
「その一歩を踏み出せないんだ……僕は怖い、どうしようもなく怖い」
「だったら私が背中を押すさ。だって一人で進まなきゃいけないわけじゃないだろ。確かに坂下君の力は弱いのかもしれないけど、私の力は君の想像以上に強い。頼れる相手が目の前にいるんだから頼ってくれよ」
初めから一人で歩ける者には助けはいらない。しかし弱き者は誰かと協力しなければ、何かを克服することができない。一人で進めない者の足を進ませるために、誰かが支えてやらなければならない。
神奈の前世とは状況が違う。頼れる相手に頼るのも一つの勇気。
「どうしてそこまで言ってくれるの?」
「だって私達は――」
神奈が何かを言おうとした瞬間――神奈達と同じ制服を着ている男が入って来た。ネクタイの色が違うことから神奈は坂下の兄だと理解する。
欲を言えば神奈はもう少し話していたかったが、坂下に伝えたいことは全て伝えた。現況はピンチであると同時に絶好のチャンス。もしここで踏み出せないなら今後は今よりその一歩が重くなる。
「あれえ? なんだ友達か? へえぇ結構可愛いじゃん」
(なんだろう虫唾が走る。誉め言葉だよな? え、こいつキモすぎだろ。何この目とか完全に私を女っていうか、性的に見すぎなんですけど)
「彼女か? そんなわけないよなあ?」
助けを求めるように坂下が神奈を見てくる。
神奈は助けない。少なくとも坂下が一歩を踏み出さないと助けない。ここで助ければまた助けてくれるという甘えが生じてしまう。せっかく芽吹く勇気の可能性を潰すことになる。
「ぼ、僕は」
「ああ?」
何かを言おうとした坂下は黙ってしまう。
「なあ、何か言いたいなら言えよ。お前の彼女なのか?」
「ち、違うよ……でも」
「あっそ、それなら……連れてくぜ。さあこれからいいことしようか。女として生まれたことを喜ばせてやるよ」
(……うわぁ、今すぐぶっ飛ばしてえ)
坂下の兄、優悟は神奈の右腕を掴んで部屋から出ていこうとする。
敢えて神奈は抵抗しないでずっと坂下の方を見つめていた。一人で恐怖を乗り越えろまでとはいわないが、少しだけでも勇気を振り絞らなければ先はない。背中を押すといっても最初から最後まで協力するつもりはない。もちろんどうしようもない状況なら神奈も動くのだが。
連れ去られそうになる神奈を見つめる坂下の足は震え続けていた。
暗闇の中で坂下は膝を抱えて俯いている。
その暗い世界は心象世界。つまり心の中。
心は酷く落ち込み、闇に囚われた。
「ああ……ダメだ、やっぱり僕には踏み出せなかった。恐怖を乗り越えられなかった。せっかく神谷さんが話してくれたのに……僕には何も出来ない」
連れ去られようとしている神奈を助けたいと願っていながら、何も行動に移せていない。実兄の優悟は自分より強いが、顔面をぶん殴りたいと思うくらい現況に怒りを抱いている。……なのに動けない。
「やっぱり僕には何も出来ないんだ……出来ないんだよ!」
暗闇の中で坂下は叫ぶ。
無力な自分に恨み言を言いたくなる。
「――ねえ君はどうして俯いている、の?」
ふいに、坂下には聞き覚えのない澄んだ声が聞こえてきた。
いったい誰なのかなど気にする余裕はない。
いや、もはや誰でもよかった。
心の中に誰が現れようと弱気な自分が変わるわけではない。
もはや全て諦めている坂下は素直に胸の内を白状する。
「僕には勇気がない。だからか、もう何も見たくない。これ以上僕が助けられないで苦しい思いをする人間を見たくないんだ」
「ダメだよそれじゃ、あ。君が立ち向かわなきゃ神奈さんが連れていかれちゃう、よ?」
「分かってる! でも怖いんだ! 一歩すら踏み出せない程怖いんだよ!」
優悟に立ち向かうのが怖い。坂下は誰だか分からない黒髪の少女に精一杯叫ぶ。
「それなら私が背中を押してあげ、る。誰かが背中を押せば一歩くらい踏み出せるで、しょ?」
「君は、どうしてここまで……」
名前も顔も知らない人間によくしてくれる少女は異質。
顔を上げて、立ち上がって、振り向こうとしても坂下の首は動かない。
「私は絆の魔導書だ、よ。神音の手によって生み出された試作品な、の。世界から失われてもずっとあなたのことを見ていた、よ。本を受け取ったあなたに、もう消えそうな思念で干渉できたのは奇跡かも、ね。まあそんなことはどうでもいいから、さあ行って、ね?」
少女は坂下の背中にそっと触れ、グッと押し出した。
『ここいいかな?』
『じゃあ坂下君、南野さん一緒に頑張ろう!』
『何の本読んでんの?』
『私もなんだ』
『だって私達――』
「はじめは怖くて当たり前、でも一度踏み出せれば……」
――動かなかった足で一歩進む。
そのまま坂下は走り出して、暗い世界から脱出した。
*
連れていかれる神奈を助けるため、勇気を出して坂下は叫ぶ。
「友達なんだ!」
急に叫ばれた優悟は足を止めて「あ?」と振り返る。
睨みつけるように見られても、坂下は多少怯むだけで言葉を止めない。
「その人は僕の友達なんだ! だから止めてくれ!」
初めの一歩を、恐怖を乗り越えて踏み出せた。
坂下は名前に恥じぬよう、ほんの僅かしかない勇気を絞り出せたのだ。
「ふーん、ならしょうがねえな」
意外にもあっさり引いてくれるようでホッと息を吐く。
優悟は神奈の腕を放し、拳を引いて駆けて来る。
「じゃあ力尽くで言うこと聞かせるしかねえよなああ! 兄貴に歯向かったこと後悔してろクズがあ!」
急変した優悟が坂下に殴りかかる。
殴られると思い両眼を瞑ってしまう坂下だが、いつまでも衝撃が届かなかったので目を開く。視界には神奈の背中が映っており、振るわれた拳を片手で受け止めていた。
「よく踏み出せたな」
「お、お前! チッ離せ!」
受け止められている拳を引こうとする優悟だが微塵も動かない。
神奈の拳に多少の力が入れられる。そして鋭い眼光で彼を睨みつける。
「それにしても久しぶりだ……こんなにムカつく奴はなあ! クズはお前だあ!」
目前の優悟が殴り飛ばされて「グベエエエッ!」と悲鳴を上げる。そのまま壁にぶつかると彼は白目を剥いて気絶した。
坂下は今起きたことを信じられず、目を丸くして兄と神奈へと交互に視線を移動させ続ける。Dクラスの生徒がBクラスの生徒を殴り飛ばした目前の光景は、それだけ信じられないことである。
「坂下君、止めてくれてありがとうな」
振り返って笑みを浮かべる神奈がそう告げる。
「いや僕は何も……というかあの、僕……さっき失礼なこと言ったよね! 勝手に友達だとか……図々しくてごめん!」
「何言ってるんだ。もうとっくに友達だろ、ごめんとか謝るなよ」
「……ごめ……ありがとう、で良いのかな?」
「いいんだろ、きっと」
二人は笑い会い、互いにおすすめの本を見つけて読みふける。
気絶している優悟を放置して神奈は帰っていった。坂下も実兄とはいえ酷いことをしようとした彼を許せず、部屋の外へ転がして放置した。
* * *
メイジ学院廊下にて二人の男が歩いていた。
一人はAクラスの担任教師。もう一人はつまらなそうにその後ろを付いていく黒髪の少年。
「さあ、もうすぐで君のクラスだ」
「そこに神谷神奈はいるのか」
「神谷……どこかの名簿で……ああ、Dクラスの落ちこぼれか。当然この俺のクラスにはいない。俺のAクラスはエリート揃いだからな。今年は斉藤と泉という生徒が優秀でね、そこに君も加われば最高のクラスが完成するぞ」
男性教師は一応全生徒の名前に目を通している。
優れている生徒、劣っている生徒、選別のためではあるが名前くらい憶えている。もちろん神奈の名前はいい意味で憶えていない。史上最低レベルの魔力を記録した少女なのだから当然だ。
「――ならば貴様に用はない」
「なんだと? なんだその口のききっ!?」
男性教師の首元には刀が突きつけられていた。
全く動作が見えなかったが、その事実を認識すると勝手に体中から汗が出てくる。
「用があるのはただ一人、神谷神奈だけだ。他はどうでもいい」
「き、君は十年、いや百年に一人の逸材! その力はAクラスで活かすべきだ!」
「興味ない。AでもDでも俺にとっては何一つ変わらん」
身を翻して黒髪の少年はDクラス教室へと向かっていく。
男性教師は「くっ」と悔しそうに杖を向けるが、その瞬間――立っていられないほどの殺気がぶつけられる。
「あ、ああ……」
全身を震わせて杖を手放してしまい、男性教師は腰が抜けて座り込んでしまう。
「待っていろ神谷神奈……今日こそお前の最期だ」
今、Dクラスに生徒が一人増えようとしていた。




