77 貸出――大声で話すことが正解とは限らない――
神奈は新たに影野を学院へと通わせる約束を取り付けた。
自宅にて、神奈は身だしなみのチェックなど登校の準備をして、白を基調とした制服に着替える。制服については実は初日に貰っていた。しかし斑から直接ではなく、仕事をしない教師など当てにできないので葵が貰ってきていた。
「あと、一人……」
「日野さんですね。こればかりは地道にやっていくしかないでしょう。影野さんと同じように手早く済むと楽観視はできませんよ」
準備が終わった神奈は「分かってる」と腕輪に返事した後、自宅玄関の扉を開ける。
「おはようございます!」
――外には満面の笑顔で挨拶をする影野がいた。
家の場所は教えていない。後をつけられていたなら気付く。ここに影野がいるということはありえてはいけない。
思わず左手で目を擦り、もう一度前を見ても――いる。
「……お、おお、おはよう影野君。でもなんで私の家の前にいるんだ」
「不肖ながらこの影野統真、神谷さんをお迎えにあがった次第です。道中の護衛は任せてください。あなたに近付く敵は全てこの俺が潰します」
片膝をついて頭を下げる影野。
ここまで徹底していると神奈も恐ろしく感じる。
「えっと、私達がこれから向かうのは勉強する施設であって、危険とかはないんだ。そもそも護衛とか頼んでないし、私は一人でも問題ないから。だいたい何を血迷ったらそんな態度になるんだよ」
「俺は正気ですよ。一晩考えたんです。こうして外に出るきっかけを作ってくれたのは神谷さん、あなただ。だから俺にとってあなたは女神。守護しようと思うのは至極当然。自分で言うのも恥ずかしいですが、俺はあなたを信仰しています。愛の奴隷なんです!」
「うんごめん、とても正気とは思えない」
事前に神奈がしていた予想と影野の行動は全く違う。
神奈の予想では外出や他人と接する恐怖が残っており、人見知りのようになっているはずだった。誰かと打ち解けるまでに時間がかかるかもなどと思っていた。しかしこれでは打ち解けるどころか、仲良くなろうとした相手が即行で去っていくだろう。
「……で、どうやって私の家に?」
「天使のような神々しさを感じ取ったので」
「ごめん、日本語であるかどうかも分からなくなってきた」
知らず知らずのうちにこんな人間にしてしまったことに、神奈は影野の両親に対して申し訳なくなる。元からこんな性格ということはないだろうが、実は最初からこういった性格だったのではと思ってしまう。
「とりあえず学院に行くぞ」
「あ、学校じゃなくて学院でしたか。まあ気にせず行きましょう!」
守護するといっても何も起きるわけがなく無事メイジ学院へと辿り着いた。
道中では影野が小石を見つけると「危ない!」と叫んで、誰かとすれ違う度に睨むような目を向けていた。神奈にとって迷惑以外の何物でもない。
三階にある一学年教室の左端にあるDクラス教室へと神奈達は向かう。
教室へと歩く途中、クラスが優劣で分けられていることで蔑むような視線が神奈達を襲う。左端に向かった瞬間、Cクラスを通り過ぎた瞬間、そういった視線が一気に増加するのだ。これは入学二日目で既に分かった事実である。
「なんですかあの人達、俺達をバカにしてる目ですよ。俺はともかく、女神である神谷さんへそういった感情を向けるなんて愚かなことだと思わないんですかね。自分達が優れているなんて幻想を抱いているに違いありません。人類は今すぐ神谷さんに頭を下げて奴隷になるべきなのに」
「幻想を抱いているのはお前だ。……まあこれについては、見返す何かがないとどうしようもないだろうなあ。ちょっと気分悪いだろうけど我慢してくれ。……暴走とか大丈夫か?」
「問題ありません。こんな視線、昔の怯えられたものよりよっぽど楽です。暴走は分からないですね。もしかしたら神谷さんをバカにした奴らに、不慮の事故ですが攻撃してしまうかもしれません」
「それ絶対事故じゃないよね? 絶対故意だよね?」
本当に暴走したら特定の誰かへ攻撃するなんて器用な真似はできないだろう。
影野が暴走した時に果たして校舎は無事で済むかどうか。
校舎は魔力で覆われていて頑丈だ。ちょっとやそっとじゃ壊れないと腕輪も言っているが、神奈が軽く壁を殴れば破壊できると聞けば強度には若干不安が残る。校舎の限界が不明なので怪我人が出ないよう祈るしかない。
「おそらくですが、影野さんの暴走はストレスが原因だと思われます。これから生活に気をつければ暴走することはなくなるでしょう」
こういったことの解析では腕輪が役に立つ。教える魔法の質がもう少しよければ神奈も文句ない。
「ストレス……神谷さんと会えないとたまるかも」
「私の存在お前の中で大きすぎない? まだ会って一日だよね?」
「人間関係に時間なんて関係ありませんよ! 俺にとって神谷さんは世界の広さを教えてくれた救世主、何よりも優先すべき人なんですから!」
「崇拝の域にないかこれ……」
新たな友達、いや友達とは言いたくない男に呆れながら、神奈はDクラスの教室の扉を開ける。
「おはよう二人とも!」
「ひっ……! お、おはよう」
教室では坂下と葵がすでに席に座っていた。
大きめの声が原因で坂下は驚いて小さく悲鳴を上げる。対照的に葵は入口を見ずに、机の上に広がる実験器具を見つめている。集中しているのか挨拶すらしてくれない。
神奈と影野は自分の席に向かって歩いていく。
ようやく顔を上げた葵が、神奈の後ろにいる影野に気付き「誰?」と不思議そうな顔で問いかける。
「驚け! この男こそ――」
大声のせいで坂下が「ひゃう!?」と悲鳴を上げた。
「この男こそ不登校児だった影野統真だ。坂下君、大声出してごめん」
神奈の後ろにいた影野は、クラスメイトに挨拶をしようと頭を軽く下げた。
「えっと……影野統真、よろしく」
「よ、よろしく坂下勇気です」
「南野葵、よろしくする気はないわ。一人来たなら後は……」
「ああ、日野の奴だけだ」
昨日来た日野という金髪の不良のような少年。神奈は意地でもこの場所に連れ戻してやると、決意を胸に灯しながら自分の席に座る。影野は当然のように左隣に座る。
座ったはいいが神奈は斑が来ないことを思い出す。つまりここでただ待つのは暇であることを意味する。そんな何も起きない教室で、坂下と葵はどのように過ごしているのかが気になった。
「なあ、坂下君は教室で何してんの?」
「え!? え、ええと、本を読んでるよ」
今も本を読んでいる坂下は読書を中断して小声で返す。
読書というのは暇潰しに適している。少なくとも、無駄に天井の模様などを眺めているよりはマシである。少し前まで文芸部に所属していた神奈がするのにも最適と言えるだろう。
「それって何の本?」
「あ、これは……」
本の表紙を坂下が見せてくれたので神奈はじっとタイトルを見てみる。
読まれていた本には【勇気の出し方、人は誰しも勇気を秘めている】と書いてある。胡散臭いが少し興味が湧いた神奈は読んでみたいと思う。
「よければそれ貸してくれないかな。ダメなら自分で買うからいいんだけど」
「いや、いいよ。僕の愛読書なんだけど……もう何度も読んだから」
「本当か、ありがとうな」
もう何度も読んでいるというのが嘘でないことは受け取った本を見れば分かる。
ページのあちこちがボロボロで、指の跡までくっきりついている。何年も読んでいなければこうはならない。大事だろう本を貸してくれた坂下に対し、神奈は笑顔を向けると「うん、ヒイッ!?」と怖がられた。
「え、何? どうした?」
坂下は震える指で神奈の後ろを指す。
その仕草に神奈も「後ろ?」と呟いて振り向くも、影野が満面の笑みを浮かべているだけだ。特に異常という異常は見当たらない。
「何もないけど」
「いや、でも影野くああ!」
「どうした!?」
また頬を引きつらせた坂下が影野を指すも、神奈が見た時にはただ笑いかけているだけだ。いつも笑顔の人はたまに怖く感じるとはいえ、そこまで怖がる必要はあるのかと疑問が浮かぶ。
「まあ、とにかくこれは借りとく。……ああそうだ、私だけ借りるのもあれだし、私が読んだ本でよよければ貸すよ」
そう言いながら神奈はバッグの中から文庫本を取り出す。
良かれと思って坂下と本を交換しようとした時――彼はまるで絶望に叩き落されたみたいな表情になっていた。不思議に思いながらも、神奈は受け取った本をバッグの中に入れる。
「あの神谷さん! 俺にも神谷さんの本貸してくれませんか!」
貸借を見て羨ましそうにしていた影野が叫ぶ。
「え、ああごめん。複数冊持ってるわけじゃないから」
「そ、そうですか……ナヨナヨ野郎め……」
唯一神奈が所持していた本――絆に関する本。
小学生の時、文芸部にて泉沙羅が読んでいた絆の本。色々あってからいつか読もうと神音から借りたが未だに読んでいない。
本について思い出していると坂下の様子がおかしいままなのに気付く。
全身を震わせている上、顔は青褪めている。初めて会った時から臆病すぎる彼だが今日はいつもに増して様子がおかしい。挙動不審にも拍車が掛かっている。
「本当にどうした?」
「か、かかか、影野君が……」
振り返って影野を見てみるがやはり笑顔。怖がる要素は一つもない。
しかし本当にそうだろうか。今朝からの影野の態度を見ていると、怖がらせるようなことをしているのではと疑いたくなる。疑心を消すにはやはり潔白の証拠が必要だ。神奈が見ていない間の様子を確かめる必要がある。
方法は簡単。
目を増やす魔法……なんてものは使えないので、純粋な身体能力で気付かれないよう超高速で振り向けばいい。坂下の発言を待つのではなく表情が歪んだ瞬間が勝負だ。
「別に何もおかしなところはないみたいだけ……ど」
神奈は前を向いてから超高速で振り返るのを繰り返す。
風圧でバレないよう動きは最小限。何も見逃さないよう一秒ごと。
そうして何度か振り返っていると影野の表情が変化していた。般若のような顔をしており、確かにこんな恐ろしい顔を見れば臆病な坂下は過剰に驚く。
「お前何してんの?」
見られたことに気付いた影野は顔を正常に戻す。
「……表情筋を鍛えていたんです」
「嘘だよね!? 仮に鍛えるにしても坂下君の方を向いて鍛えるな! いいか坂下君はビビりなんだよ、ハリネズミより臆病なんだよ。怖がらせるようなことしてんじゃねえよ!」
「か、神谷さん、後ろ」
申し訳なさそうな表情をした影野が神奈の後ろを指さす。
意識を逸らそうとしているわけではない。不思議に思ってまた前を向いてみると、坂下が頭を抱え、両膝を丸めて蹲っていた。全身に針があったら正にハリネズミだ。
「……大声出してごめん」
「神奈さん、ついにこの時が来てしまったようですね」
急に深刻な声音で腕輪が告げる。
「はい? 何の話?」
「はっきり言いますが神奈さんのつっこみの声量は異常です。とてもうるさいんです。それが神奈さんらしさでもありますけど、迷惑している人がいるなら声量を落とす必要がありますよ。残念でしたね、アイデンティティを失うことになって」
「私のアイデンティティにつっこみの声量関係ないだろ!?」
またしても大声を出してしまった神奈は「あ」と坂下を見やる。
彼は蹲ったままピクリとも動かない。名前を呼んでも動かないので、力尽くで彼の体勢を変えて顔を覗き込んだが表情筋すら動いていない。どうしてしまったのか分からず彼の体を揺らしていると、彼が気絶している事実を腕輪が教えてくれた。
腕輪「結局シリアスなんて長続きしないんですね、ギャグがどうしても入っちゃうんですよ」
影野(神谷さんに近づく男はコロス……!)




