69.3 黄――残酷な遊び――
魔力の少ない者、扱えない者が昏倒状態にある町中を猫が歩いていた。
一匹と呼ぶべきか、一人と呼ぶべきか。二メートル以上ある高身長で人間と変わらないが、種族的には一匹とするべきだろう。
豹のように黄色と黒が交ざる配色の毛をしている猫――シエラ。
尖った耳をひくひくと動かし、細長い尻尾をゆらゆらと動かしながら、彼は事件など気にした様子もなく気ままに町を歩く。
「ふぁああ……どこかに元気なやついにゃいかにゃあ。吾輩は早く遊びたいってのに、どいつもこいつも寝てばかりじゃにゃいか」
召喚の魔導書で呼ばれた最上位生命体の一人である彼は黄色の塔を任されていた。しかし自由すぎる性格が災いし、主から命じられた塔の守護という役目を放棄してしまった。これについて主となる人物が問題に思っているなら、すでに彼の命はないだろう。今生きているのが気にしていない証拠だ。
「……いる。にゃんだこれ、強大すぎるエネルギーを備えている何かがいる」
北にある緑生い茂る山。シエラはそこからとんでもないエネルギーを感じ取り、立ち止まざるをえなかった。
「吾輩より上か? 猫族、いや人間の気配もする? でも強いにしては位置を移動していにゃい。にゃにを考えているのか知らにゃいけど近寄らにゃいでおーこう。てか他にも強そうにゃやついるけど関りたくにゃいねえ」
何者なのかはどうでもいい。シエラにとって強いか弱いかだけが重要なのだ。
強さを嗅ぎ分けることを得意とするからこそ、シエラはその場から動かず、目だけを山から逸らす。
「好き好んで強いやつとは戦いたくにゃいんだよね。だからさ……君みたいにゃのは好きだよ。吾輩よりも弱く、貧弱な人間の君みたいにゃのはさ」
「そうか、俺は好きだぜ? お前みてえな強いやつと戦えるのは」
獅子のたてがみのような髪型をしている少年――獅子神闘也がそこにいた。
魔力は多くないが昏倒状態にならない程度は獅子神にもある。事件のことなどどうでもよかったが、獅子神は強い者の気配を感じ取り散歩していたのだ。
軽く舌なめずりしたシエラは体を獅子神の方へと向ける。
「バカだね、君みたいにゃのは吾輩の玩具コースまっしぐらだよ」
嬉しそうな笑みを獅子神が浮かべた瞬間、シエラの姿が掻き消えた。
現れた先は獅子神の背後であり、三日月状の笑みを浮かべながら長い爪を振りかぶる。
「こんにゃふうにね」
勢いよく長い爪が振り下ろされる。獅子神がそのままの態勢でいたなら背中に十本の傷ができていたが、僅かな気配を嗅ぎ取って攻撃と同時に屈みこんでいた。爪という凶器は空振りに終わる。
獅子神は足の筋肉を膨らませて後方に跳ぶ。当然向かう先にいるのはシエラであり、予想外の頭突きが顎に直撃する。骨が軋むような音がして、どちらの視界も白く点滅した。
完全に人間を舐めきっていたシエラは目を見開き、再び左手だけだが獅子神へと振る。頭突きから地面に着地した獅子神は前方に軽く跳ぶことで爪を回避して、半回転してシエラと向き合う。
「ははははは! いいねえいいねえ野生の血が騒ぐ! つええじゃねえかこの野郎!」
「君もそこそこやるじゃにゃいか。吾輩の攻撃を躱し、反撃してくるとは思わにゃかったよ。人間にしては強いね」
「俺が強いのは当たり前だぜ!」
嬉々として敵に走る獅子神は拳を振るが、シエラは最低限の動きで半回転して躱す。
右手を振って獅子神の背中を切り裂こうとするも、シエラの攻撃は空を切る。獅子神は上半身を下に傾けていた。攻撃が来るのが見えていたわけでも分かっていたわけでもなく、恐るべき野生の勘というべきものが備わっているのだ。
上半身を下に傾けた勢いのまま獅子神は一回転し、左足に全ての勢いを乗せて蹴りを放つ。だがそれはシエラの右手が攻撃から防御に回ることで掴まれ、持ち上げられたと思えばアスファルトに打ちつけられる。
何度も、何度も、何度も、前後左右ときには打ちつける場所を変え、そうして何度も獅子神は打ちつけられた。
「言ったよね、人間にしては強いだけだよ君」
持ち上げて打ちつける。その行為を続けているうちに、履いていた靴から左足が抜けて空中に放り出される。
目は回る。耳鳴りもする。体中痛みで悲鳴を上げている。だがそれでも獅子神は笑い、シエラの頭上からかかと落としをしてついに反撃した。
「知るかよ、んなもんは!」
今までのお返しとばかりに、獅子神のかかと落としはシエラを顔面から地面に叩きつけた。アスファルトが砕け、シエラはぴくりとも動かない。追撃とばかりに獅子神は落下に合わせて拳を振るう。
その拳によりさらにアスファルトが砕けた。結果はそれだけだった。
「……あ?」
なぜかシエラの姿が消えていた。
いや、獅子神はしっかりとその目で見ている。拳を振るう直前、まるで体が黄色い極細の糸のようになってシエラはいなくなったのだ。
「があっ!?」
そして困惑している獅子神の右肩を長い爪先が通り過ぎる。
爪先だけだったことが幸いして深い傷にはなっていない。それでも血は出ているし、決して無視していい傷ではない。
「くそっ、そっちか! はあ!?」
右肩を引っ掻き攻撃が襲ったということは自分の右側にいるということ。その判断に間違いはなく、獅子神が振り向いた先には確かにシエラがいた。
しかし――あるのは宙に浮いている右腕のみ。
「う、う、ううう、腕え!? 腕しかねえじゃねえか、どうなってんだ!?」
右腕だけがあり、しかもそれが空中に浮いているという不思議な光景。だがその右腕が攻撃してきたのは事実であり、爪先からは獅子神の赤い血が垂れている。
「こうにゃってるんだよ」
背後から声がした。少しの間しか聞いたことがないとはいえ、獅子神はすぐにシエラのものだと理解する。
振り向いた先では――首から上しかないシエラが空中から見下ろしていた。
「く、くく、首しかねええええ!」
軽くホラーな光景だが、楽観視できる状況ではない。
まず獅子神の頭では説明不可能の状況。戦いは楽しめればいいと考える獅子神でも、楽しさが消し飛ぶほどの衝撃を受けている。
「安心しにゃよ、ちゃーんと君の後ろに右腕があるし、頭の上には左腕があるから」
右腕の存在は確認済みだが左腕は知らない。獅子神は嫌な予感がしたので、慌ててシエラの首の横を通りすぎる。先程まで獅子神がいた場所には、人差し指を立てた左手がアスファルトに突き刺さっていた。
「こ、今度は左腕だけ……お前体どうなってんだ」
「ククク、何度これに驚く雑魚を見てきたことか。これが吾輩の力さ」
右腕と左腕が先端から、視認するのも難しいほど極細の糸になっていく。まるでそれは編み物がちょっとした綻びから解けていくようである。
糸は動く。シエラの首が獅子神の方へと向き直り、そしてその下に糸が集合していき形になる。一秒弱で本来の姿である人型の黄色い猫が完成した。
「〈細胞糸化〉。体を糸に変化できる力だよ。糸の間は多少肉体強度が落ちるけど、回避以外に攻撃にも使える。まあ糸で攻撃にゃんて吾輩も危にゃいし、キャラ被るからやんにゃいけど」
糸になっていても細胞であることに変わりなく、強力な攻撃を受けてしまえば細胞が傷付く。そうなれば元に戻ったときに出血などを引き起こす可能性があるので、使い勝手のいい能力というわけでもない。だが細い隙間だろうがなんだろうが、どこにでも移動ができるという便利な力ではある。
「へっ、まあなんでもいいや。お前が強いことも、お前をぶっ倒すことも変わらねえ」
「できるにゃらやってごらんよ。吾輩も君を嬲り殺すのはかわらにゃいからさ」
今度はシエラから獅子神に迫る。
黒く長い爪は危険なので獅子神は逃げるべく後方に下がる。これで躱せるはずだったが、突然シエラの右腕の中心部分が糸となり、伸びることで間合いも伸ばしてみせた。
咄嗟に首を捻った獅子神だが爪が左目を引っ掻く。
幸いにも瞼を掻かれただけで眼球に異常はない。血で左目の視界が若干赤くなっても視力は落ちない。
「ぐうっ! 腕が伸びた……!」
血が流れる左目を押さえて獅子神はもう一歩下がる。
「うん? にゃんだあれは?」
その時シエラは何かを見つけた。
遠くから人間が走って来ることに獅子神も遅れて気がつく。
一人だけでなく、全てで十五人。瞳に光を映すことのない者達が向かってくる。
「君の応援か。意味にゃいと思うけどね」
あっさりと爪で引き裂かれて五人ほどが地に伏せる。だが不思議なことに血が出ていない。獅子神はそれをどこかで見たような気になったが、全く思い出せないので前進して一人を殴り飛ばす。
「はっ! なんだか知らねえが邪魔なやつらだ。ここは共闘といこうじゃねえかぐあっ!?」
「いやするわけにゃいよね。バカにゃんじゃにゃいの君」
あまりにもつまらない相手なせいでシエラは欠伸しながら、正体不明の者達の腹部と、迂闊にも前に出た獅子神の背中を爪で引っ掻く。
「それにしても人間じゃにゃくて人形か。自動操作でにゃければ操作している人間がいるはずだけど、離れているのか感知できにゃいね」
十五人の人間は人形である。血が出なかったことと、爪での手応えでシエラは気付くことができた。
人形という言葉に獅子神は誰かを思い出しそうになったが、背中や左目の痛みが原因で頭がうまく働かない。
「さて、もう君も限界かね。でも安心してよ、すぐには殺さにゃい。吾輩は弱者を甚振るのが大好きだからね。契約者のしたいことが終わるまでの暇つぶしににゃってよ」
爪が振られる。先程と同じように肘辺りを糸にして伸ばし、間合いも伸ばした一撃。獅子神は危険を感じ取って横に転がることで回避する。
転がり終わると四足歩行の状態になり獅子神はシエラに突進する。だが単純な直線上の攻撃など、どれだけ速くても目で見える限り予測するのは容易い。
横に一歩移動しただけで躱したシエラは獅子神の後頭部を殴りつけた。
道路を跳ねて吹き飛んでいくが、すぐに両手を道路に突き立てて摩擦で速度を落とす。
獅子神は焦げるような臭いと痛みに眉をひそめる。
両手の指は多少黒くなって血も出ていた。だがそんなことがどうでもよくなるほどの死の気配が濃くなっていく。
黄色の糸が見えた。極細でほぼ見えないような糸を超人的視力で目にした。
周囲を覆う黄色の糸がある一方シエラの姿はなくなっている。
汗が額から顎にかけて流れ、途中で血と混ざって落ちていく。
道路に赤く濁った雫が落ちた瞬間、シエラの黒く長い爪が獅子神の真横から飛び出た。気配を素早く感じ取るために集中していたおかげで、獅子神は後方に跳び回避できた。
――だが回避できたのは一撃目のみ。
「がっ……あぁ?」
腹部が急に熱くなるなどの強烈な違和感を覚えた獅子神は視線を落とす。
確かに一撃目は躱している。でも通常なら腕は二本あり、二回目の攻撃があってもおかしくはない。獅子神の腹部は後ろから貫かれており、黒い斑点がある黄色の腕が引き抜かれると鮮血が流れ出る。激痛が走り獅子神は両膝から倒れてしまった。
「まだ死にゃにゃいでよ? 面白いこと考えついたんだから」
細長い黄色の腕だけが宙に浮いていたが、やがて黄色の糸が上からシエラの形を作っていく。
「君はそこそこ強い。ずっと格下としか遊ばにゃかったから、君ぐらいのと遊ぶのは初めてだ。でもだからこそこんにゃ愉快にゃ遊びを考え付いたよ」
シエラの体が再び腕から糸になっていく。極細のそれは獅子神に向かい――傷口から体内へと侵入した。全身が糸となり、獅子神の体内に入りきった。そして黒く長い爪一本だけを本来の形に戻す。
体内に入れているのは糸になっているからだ。ではそれが本来の形に一部でも戻ればどうなるか。答えは今の獅子神の状態が物語っている。
地面に倒れたままの獅子神の右肩から黒い爪が突き出ていた。
爪を再び糸に戻すと、貫いた右肩から血が飛び出る。
爪を再び本来の姿に戻すと、今度は背中から突き出た。
そこからは同じことの繰り返しであった。一本の爪を出しては引っ込め、その度に血が噴き出る。
一回ごとに痛みで喘ぐ声が獅子神から出ていたが次第に小さくなり、最後の方では掠れた声しか出ていなかった。
しばらくして残酷な遊びを終え、シエラは獅子神の口から糸として出ていく。
本来の姿に戻るとシエラは赤い水たまりに伏せている獅子神を冷たく見下ろす。
「うんうん、楽しかったにゃあ……。今までで一番いい声で、長時間遊べた。まあ泣き喚くのとかが聞けにゃいのは残念だけど、君の場合そういうタイプじゃにゃいもんね」
シエラは紫の塔を一瞥する。
「まだ時間かかりそうだにゃ、これにゃら吾輩もあと一人くらいと遊べそうだ。さて、最期くらいはこの目でじっくりと見たいからね。心臓を一突きして楽に終わらせてあげるよ」
視線を戻すと、目が見開かれる。
獅子神が立っていた。もはや死んでもおかしくないほどの出血量で、俯きながらも立ち上がっていた。
「は? いやいやおかしいでしょ。こんなあがっ!?」
動揺している隙に、勢いがいい獅子神の頭突きが腹部に突き刺さる。
予想外のダメージでシエラは数歩後退る。
「にゃんだよ君……。その傷で、その出血量で、立ち上がれるはずがない。仮に立ち上がれたとして、それだけで精一杯のはずだ。人間だろう? にゃら脆弱で、貧弱で、虚弱で、惨めな不良品のはず……。にゃのに吾輩達を従えている契約者も、君も、いったいにゃんだ……人間じゃにゃいのか……?」




