60 拳王――我が生涯に一つの悔いあり――
秋野笑里は混乱していた。
地震が起きたと思えば突然巨大な紫の塔が出現して、いつも自分の背後にいた父親の気配が濃くなって幽霊ではなくなっていたから。
「お父さん?」
「こ、これはどういうことだ? なぜ僕に生身の体が?」
道場主の秋風は窓の外を見て驚愕して、生徒達は不安そうな表情で友人と顔を見合わせている。
「これは、とにかく危険だ! みんな、いったん自分の家に帰りなさい!」
「どうしたの先生、怖い顔してるよ。外で何があったの?」
生徒達が道場から慌てて出て行くなか、笑里は状況把握に努める。
現状、道場に残っているのは四人。笑里とその父親、秋風、そして上野だ。
「分からない、分からないが……外は今大パニックだ。……って秋野さん、体が透明じゃなくなってません? もう普通の人間と変わらないような」
「ふむどうやら僕は一時的に蘇っているらしい、驚かせてすまないね」
「ううん、お父さんはいつも私の傍にいるから変わらないよ?」
「……いや、誰だよそのオッサン。さっきまでいなかっただろ」
風助のことが見えていなかった上野だけが困惑している。
以前笑里は神奈から聞いたが、一時的に憑依されたことで秋風には風助が見えるようになっている。この場で見えていなかったのは上野のみ。だがそれもこうして見えるようになってくれて非常に嬉しい。
「伸二君、どうやら今、私のような死者が蘇っているらしい。生徒達を帰したのが正しい判断とは思えない。今すぐ連れ戻した方がいいんじゃないかな」
「どうして? お父さんみたいにみんなが生き返ったらみんなハッピーだよ?」
「笑里、世の中はそう簡単じゃない。この現象が起きてからというもの、生者を殺せ殺せと嫌な声が脳内に響いている。外ではきっと、死者達が暴れているはずだ」
「オッサンは平気なのかよ。よく分かんねえけど死んでたんだろ」
「娘の前で暴走なんてしたくないから必死に抑えているのさ。以前はあっさりと体を乗っ取られたが、そのおかげで抵抗出来るようになったのかもしれない。……というか上野君、オッサン呼びは止めようか!」
死者が復活し、暴れているのが本当なら今帰るのは逆に危ない。
範囲は不明だが風助が復活している時点で道場近くは範囲内。ここからの帰り道や自宅で襲撃される可能性は高い。
「つうかよ、そんな状況なら下手に動かねえ方がいいんじゃねえの?」
「可能性に怯えてここから動けないというのも問題さ。それに、道場内で君達生徒に何かあったら僕の責任。ぶっちゃけ怖いし、自分の子供は親御さんが守ってほしい」
「……俺、入る道場間違えたかも」
肝心な時に役立たずというか最低だ。笑里でも擁護出来ない。
そんな時――笑里達に轟音が聞こえた。
まるで爆撃でもされているかのような音がどんどん近付いてくる。嫌な予感がしてすぐに外に出ようとしたが遅かった。音の正体が道場の天井を突き破って侵入してきたからだ。
「天井がああああああああ!」
道場が破壊されたことに秋風が叫ぶ。
「だ、誰だ!?」
正体不明の男が登場したことで風助も叫ぶ。
「ほぅ?」
「おおー」
上野と笑里は興味深そうに侵入者を見つめている。
その人物は二メートル近くある筋肉質の男。しかし勢いよく降って来たことにより、下半身が床を突き抜けてしまっている。上半身しか見えない状態で侵入者が自己紹介した。
「――俺は拳王、ただの拳王さ」
「拳王、だと……?」
上野は、上野だけはその名前に反応せずにはいられない。拳王の子孫と散々言われていたが、本人は拳王の容姿や強さなど全く知らなかったからである。知らないからこそ、彼は今までの退屈な人生が全て先祖のせいだと思っていた。
間抜けな姿だが拳王は気にせずに話を続ける。
「俺は自由に生きてきた、この鍛えた体で何でもしてきた。でも一つだけ悔いがある」
拳王と名乗った男は、床に埋まっていた下半身を腕力と脚力で脱出させた。
「対等な戦いってもんをしたかった。俺は強すぎたのさ、周りには雑魚ばかりで話にならねえ。だが何の因果か蘇った。暇つぶしに散歩してたら道場を見つけたもんでなあ? お邪魔させてもらったんだよ、ここで対等な勝負ができるかもって俺の勘が言ってたからなあ! はっはっはっはっは!」
拳王は豪快に笑いながら、道場に存在している二人の成人男性を見る。
一人は秋風伸二、もう一人は秋野風助。構えをとる二人をジッと観察するが、どちらも期待外れだったのか深いため息を吐く。
そんな拳王に笑里が歩み寄って「ねえ」と声を掛ける。
「なんだい嬢ちゃん」
「建物に入る時は玄関から入らなきゃダメだよ!」
笑里のその場違いな注意にその場は静まり返る。だが沈黙は早くも破られた。
「そら悪かったな、今度は玄関から入るぜ」
「うん、そうしてね」
「ああ」
拳王は素直に謝ってから笑里の頭をポンッと叩く。
ゴツゴツとした手で優しく撫でながら横を通り過ぎた瞬間、秋風が頭を掴まれて壁にめり込まされた。彼は決して優しい人間ではなかったのだ。
「ガッ!?」
「先生!」
「お前がはっ!?」
「お父さん!」
あまりの横暴さに風助が拳王に立ち向かったが一撃で壁にめり込む。そんな様子に拳王は心底残念そうに口を開く。
「ダメだね、テメエらダメダメだ。弱すぎだぜ? おかしいなあ、確かにここで対等な勝負が出来るって勘が言ってるんだけどなあ」
「それ俺のことじゃねえかって思うんだけど」
残念そうにしている拳王に上野が声を掛ける。
「ああ? まだ小さい僕ちゃんが言うじゃねえか。でもお前さんの年でこの俺に勝てると思うか?」
「俺はお前の子孫だぜ? 拳王、俺が相手してやるよ!」
上野は空手の構えをとって瞬時に近付き、上段蹴りを放つ。
笑里と戦った時は出鱈目な攻撃の仕方だったが、短時間とはいえ空手に真面目に取り組んだことで技として昇華していた。しかしその蹴りはあっさりと拳王に受け止められる。
「なっ!?」
「さっきの雑魚共より強いじゃねえか。驚いたな、だがまだ弱いぜ!」
拳王は上野の脳天に肘打ちを放ち、道場の床を突き破らせてめり込ませる。強烈な一撃により上野は頭から血を流し、白目を剥いて完全に気絶した。先祖と子孫、その差は断崖絶壁の如し。
道場を出て行こうとする拳王を、笑里が服を引っ張って止める。
怯まずに勇ましく「待って」と声を掛ければ拳王が振り向く。
「ん、なんだ嬢ちゃん?」
「どうしてこんなことするの」
友達、先生、家族、大切な者達を傷付けられて笑里は怒っていた。
暴力を振るったからといって拳王が悪人とは思えない。ただ何か事情があるにしても、この場でやってしまったことは許せない。
「決まってるだろ? 強い奴と戦うためさ」
「私が戦うって言ったらもう誰も殴らない?」
「嬢ちゃんが? あんまり強そうに見えねえな。やっぱ筋肉がねえからな」
笑里は「えいっ!」と拳王へ拳を繰り出す。
道場で教えてもらった父と秋風直伝の正拳突き。
深く腰を落とし、全身の筋肉を使用した鋭い一撃。もし常人が相手ならその一撃で絶命するだろう。そんな強烈な拳を拳王は片手で軽く受け止めた。




