51.5 熱井心悟――友情より――
校舎裏に二人の人影があった。
一人は雲固学園のお嬢様、金城遥。以前宝生小学校の校門で札束をばら撒いて生徒を買収しようとした女子生徒である。
もう一人は宝生小学校の体育委員であり熱血漢な男子生徒、熱井心悟。
「使えないわよあなた、結局負けちゃったじゃない」
長い金髪をクルクルと指で巻きながら、金城は呆れたような声を出す。
彼女の強気な言葉に熱井は申し訳なさそうに俯いて口を開く。
「それはすまない……だが棒倒しのメンバーは病院送りにした――」
「でもこっちが負けちゃ意味ないのよ、おわかり?」
「それは……」
熱井が俯いて言葉を詰まらせていると第三者の声が響く。
「――やっぱりお前だったか。裏切り者は」
その二人の会話に突如入った声の主は神奈だ。
棒倒し直前で熱井の様子がおかしいことには気が付いていた。選手の中で一人だけ無事というのも引っ掛かったし、棒倒しも勝つ気力がないし勝っても喜んでいなかった。そんな熱井を観察して違和感を抱き、神奈は後をつけたのである。
熱井は茫然とした表情で振り向いて「神谷さん……」と呟く。
「やっぱり無能ね、つけられてくるなんて」
ため息を吐いた金城は更に呆れたような声で告げる。
「酷いな神谷さん、裏切りだなんて」
「この状況じゃ言い逃れ出来ないだろ、諦めろよ。詰みだ」
雲固学園の生徒との密会を見た時点で全て悟っている。
いくら熱井が弁明しようと裏切りは裏切り、やってはいけないこと。理由によっては力尽くでの解決も止むを得ない。
「……どうして僕が裏切ったって?」
「棒倒し終わった後いつもならヨッシャアアアアア! ダバッハアアアアア! くらい叫びそうなもんなのに暗い顔してるからさ。おかしいと思うだろ」
「……僕、そこまで叫んでるかい?」
大袈裟なリアクションに熱井は困惑の表情を浮かべる。
しかし熱井ならば平常時それくらい叫んでいるだろう。そこにガッツポーズとジャンプも加わると神奈は思っている。
「熱井君、何でだ、あのとき何をしたんだ……? いやそれよりも……何で裏切ってんだよ。お前は五年一組のリーダーだろ?」
「そいつは金で買ったのよ、今じゃ私に言いなりの人形。まあ質は悪いけど」
どうでもよさげに喋る金城へ熱井が睨むような視線を向ける。
そしてそれよりも鋭い目を神奈が向ける……対象は熱井だが。
「金で? おい、金より大事なものがあるって言っていたのはどこのどいつだ、お前だろ!」
神奈は声を荒げて問いかける。
何かに反応した熱井の全身は震え始めた。
「お金がなければダメなんだ!」
顔を真っ赤にして怒鳴る熱井の言葉に神奈は目を丸くする。
「な、お前意見を百八十度変えやがって……前のあれは嘘だったのか?」
「嘘じゃない! 確かにお金は大事だけど、それで買えないものもあると知っているつもりだ! でもお金がなければ何も買えない!」
「お前、いったい何を買おうとしてんだよ。それは本当に、みんなを裏切ってまで欲しいものなのか? みんなお前のこと信頼してたんだぞ?」
神奈から見た熱井心悟という男子は良いリーダーだった。
どの学校にもクラスの中心と言える存在がおり、彼がまさにそうである。
前世で通った学校にも当然中心人物がいたが最低な男だった。平気な顔でいじめを行い、心に大きな傷を負わせられた。今思い出しても腹が立つくらいに酷い。
熱井は少々個性的だが絡みにくい性格ではない、寧ろ彼の方からグイグイ絡む。
悪口は言わないし、誰にでも明るく接する性格の良さも素晴らしい。非常に熱血で面倒臭いことを除けば全員が見習ってほしいくらいに尊敬出来る。前世で自分もああだったらと憧れもした。
尊敬していたからこそ今の彼が信じられない。
何かしらの強い理由がなければ彼は絶対に裏切らないはずだ。
「妹の命がかかっているんだ」
想像以上に重い理由で神奈は「……えっ?」と驚く。
「妹は病気で、治療の為にお金がいるんだ。治療を受けなければもう残された時間は少ないって言われた時、僕はお金の重要性に気が付いた。気付いたからこそ僕は契約を交わした。宝生を負けさせる代わりに治療費を負担してもらう契約を!」
「……でも、だからってあんなことしていいのか? 汚い真似して金を受け取って……そんなの、何か違うだろ。なあ、別の道だってあったはずだろ?」
「ないから……これ以外に方法がないから今こうなっているんだあ! お金があれば買える、欲しい物も、人の命も、全て買えるんだあああ!」
涙を流しながら怒鳴り散らす熱井に何も言えなくなる。
妹の治療費のために頑張っている姿勢は馬鹿に出来ない。他の道といっても具体的に示せるわけではない。解決策が思いつかずに神奈は黙ってしまう。
「ねえ、もういいかしら? そんなドラマみたいな見世物もういいからさあ」
大人しく見ていた金城は欠伸をしながら割り込んだ。
「……なんだと?」
今のやり取りを軽々しく扱われたことに神奈の怒りが爆発する。
普段あまり出さない殺気を放出した。途轍もない殺意で、実力のない金城の平衡感覚をおかしくさせるほどの威圧感。一瞬足元をふらつかせた金城はすぐに姿勢を直して、恐怖からか上擦った声をあげる。
「とにかくあなた、次は上手くやりなさいよ? じゃなきゃ報酬もあげられないわ」
「分かっている。騎馬戦では必ず」
「そう、じゃあせいぜい頑張ってよね」
手を伸ばして「待て」と神奈は呼び止めたが金城は去ってしまう。
怒りの発散が消化不良のまま終わったため心はモヤモヤしたままだ。
複雑な心境の中、神奈は裏切った熱血男子と見つめ合う。
「……というわけだ神谷さん。僕はなんと言われてもやり遂げるさ」
「だったらなんとしてもそれを止める」
「好きにすればいいよ、でも邪魔をするなら君も潰させてもらう。正直、今の僕には君の言葉が偽善にしか聞こえない。信じられるのは、お金だけだ」
熱井も敵意をぶつけて去っていき、神奈は一人になった。
一人になった神奈は想像よりも酷い現状に頭を抱える。
「あんなのどうすればいいんだよ……」
熱井の妹が病気という事情を知ってしまった今、止めるとはいってもただ止めただけでは不幸な結果になってしまう。かといって止めなければ熱井は全員から責められるだろう。裏切りがいつまでもバレないなど甘い考えだ、いつか確実にバレる。
この際学校の名前が変わるとかどうでもいい。それよりどうしても勝たなければいけない理由が出来てしまったのだから。そのために勝った後を考えなければ、熱井に一生恨まれてしまう。
「たとえここで止めたとしても熱井君の妹は病気で死ぬ。でもあんな汚いことをこれ以上させるわけにはいかない。せめてお金、そう、治療費が用意出来れば……」
「――止めるしかないよ」
唐突に神奈に声を掛けた主は、金城や熱井が去った方向とは逆方向から歩いてくる夢咲だった。予想外の人物の登場に驚いてパチパチと何度も瞬きする。
「え、夢咲さん? 何でここに」
「ごめんなさい。話があったから追いかけてきたんだけど、とんでもない話聞いちゃったみたい。でも聞けてよかった、もし何も知らなければ止めることも出来ないし」
「でも止めるっていったって、どうすれば……」
「それは神奈さんが目を覚まさせればいいんだよ、お金の件は別としてね」
「そんな上手くいくかどうか……そういえば話って?」
夢咲も話があると言っていたので気を紛らわすためにも耳を傾ける。
深刻な表情を彼女は浮かべた。どう見ても軽い話をする顔ではない。正直昼食が足りなくて午後のエネルギーが足りないとかだと思ったのだが。
「それなんだけど、さっき予知夢を見てしまって。それがその……すごくマズイことになるから、どうにかできないか相談に来たんだけど」
「このタイミングで……? どんなことが起きるんだ?」
「それが――」
夢咲が話した内容、それはとても信じられない内容であった。
あまりに突拍子がない。運動会中に起きるとは到底思えない話。
思わず「マジ?」と訊くと「うん」と返される。
「どうなってるのか私にも分からない。何でこんなことが起こるのか考えたくもないし。それでも運動会中に起きるっぽいから知らせようと思って」
「まあ分かった、何とか出来る奴に連絡しとく。今は運動会に集中しよう」
神奈達に出来るのは運動会に勝つこと。
そして間違った道に進んでいる友達を止めること。
* * *
運動会二日前。
一大イベントに万全の状態で臨みたいと思うのは、宝生小学校の生徒全員の意志。それは誰一人として例外なく、神奈のクラスでのみではなく学年全体でリーダーのような男もそう思っていた。
熱井は家である古いアパートの一室に帰って来た。
学校での元気がいい挨拶ではなく「ただいま」と、らしくない静かな挨拶をする。その元気がない挨拶に「お帰りなさい……」と覇気のない声が返ってきた。布団で横になっている赤髪の女性からである。
玄関で靴を脱ぎ丁寧に揃えてから熱井は奥の部屋へ向かう。
布団から起き上がろうとしている女性に歩み寄り、心配の目を向ける。
「母さん、まだ体調がよくないの?」
「ごめんね、心悟にばかり迷惑かけて……」
女性の名前は熱井心子。
熱井心悟の母親である彼女は病弱であり、一日中寝たきりであることも少なくはない。ある男と結婚したはいいものの、他の女性と浮気し出ていかれたために幸せと程遠い別れ方をすることになった。
唯一、働けないほど病弱な彼女の幸せは二人の子供だ。その二人の子供の成長を見守ることが一つだけの幸せだった。
一人で育ててきたというわけではない。体が弱いために就職することができないので内職のみでしか収入はなく、それも体調が悪くなると出来ない日もでてくる。両親がいざという時のためと貯金してくれていたお金を崩して、貧しくも日々を乗り切っている。かなり高齢ではあるが優しい両親の存在がなければ、二人の子供を育てるなど到底不可能だっただろう。
「いいんだ、母さんの分も僕が働けばいい。この前、近所の駄菓子屋を手伝ったら二百円くれたんだ。これで僕の一日の食費は稼げた、これからも僕がコツコツと働いていくよ」
「それじゃあ、ダメなの……もう私のことは気にしないで。いっそのこと、私が死んでしまえば保険金が……」
「冗談でもやめてよ母さん……! 母さんが働けない分、僕がお金を稼げばいい。心春の入院費も僕がなんとかするから」
貯金も無限にあるわけではない。生活費が足りなくなる月も多く、熱井が小学生でも手伝えるだろう場所を手伝って少ない労働賃金を手にしている。それでも焼け石に水であり貧乏なことに変わりはない。
特に今は妹である熱井心春が体調を悪くして入院しているため、出費が酷く激しいのだ。到底小学生が一人で稼げる額ではない。それが分かっていても働くしかないというのが現状。
心子が自分が死んでしまえば保険金が手に入ると考えてしまうくらい、子供の成長を見守るのを放棄する決意してしまうくらい、今の熱井一家は絶望的な状況であった。
比べれば夢咲より貧しいかもしれない。
「心配いらないよ、この僕がなんとかする……! だって僕は長男だ、家族を支えて当然の人間なんだ……だから僕が助けてみせる」
「本当に、本当にごめんね……ごほっ、けほっ!」
「か、母さん! やっぱり横になってなきゃダメだよ。ほら、薬を飲んで……取ってくるから」
咳込む心子を心配して熱井は寝るように促す。
薬があるのは、玄関のある部屋にポツンと存在しているテーブル。上に置かれていた錠剤を手に取って、心子の方へと戻り薬を手渡す。
そんな時、いきなり電話の音が鳴り響いた。
「で、電話……はい、熱井です」
小学生ながら人脈はあれど、電話番号など教えている人物はあまりいない。かかってくるのはいつも病院からだ。
電話の相手から内容を聞いた熱井は顔を青ざめさせて目を見開く。
「え、す、すぐ行きます! ごめん母さん、また一人にしてしまうけど僕は心春のところに行ってくるよ」
焦った様子で熱井は家を飛び出す。
全速力で走り心春が入院している病院に到着すると、息切れを起こしているのも構わずに心春の担当医へ会いに行く。
このとき熱井は気付かなかったが妙に病院内が静かだった。元から静かな場所ではあれど、診察に訪れている人間が存在していなかった。それは明らかに不思議なことなのだがそれに気付かないほどに焦っていた。
「先生! 心春が大変だって本当ですか!?」
「うおおおびっくりした!」
診察部屋の扉を熱井が勢いよく開けて大声を出したことで、担当医である男性はビクッと体を震わせた。
「ま、まあ、落ち着いてくれ」
「落ち着きました! それで心春は無事なんですか!?」
「全然落ち着いてないな。まあそれが少しマズくてね……知っていると思うけど、君の妹である熱井心春ちゃんはとある病気にかかっているんだ。何か所も炎症を起こしているし、たまに呼吸困難になったり、心臓が止まったりするんだ。……まあかなりマズいね」
具体的な症状は口にするが病名は口にはしない。
ただ担当医が告げた内容は熱井にショックを与える。
「そんな……そうだ、根性でなんとかなりませんか!」
「なってしまったらこの世から医者などいなくなるだろうね。いくらなんでも根性では回復しないかな。助かるには手術するしかないんだが、当然費用がかかる」
「分かりました、これでお願いします!」
熱井が自分のズボンのポケットから取り出したのは百円玉二枚。それを医者の男に手渡そうとするが、受け取ろうとはしてくれなかった。
「圧倒的に足りないね。いいかい心悟君、手術費用は何百万という単位だ。家庭環境を知っているからこそはっきり言えるが君が払えるような金額じゃない。残念だけれど、心春ちゃんのことは残り少ない命の時間を幸せで埋めてあげなさい」
「そんな……そんなことない……努力すれば、根性があれば、熱い魂さえあれば、どんなことも乗り切れるはず……なんだ」
「はっきり言ってそんなものは無価値だよ。いいかい? この世は所詮金さ。金があればどんなものでも買える……それがたとえ人の命であったとしてもね。君の持つ金では誰も救うことなどできない。結局、この世界はまず金がなければ始まらないんだよ。私も無料で手術するわけにはいかないからね」
もう熱井は言葉を話す気力も起きなかった。
二枚の百円玉を落としたのにも気付かず、フラフラと部屋を出て行く。今の熱井は魂の抜けてしまった抜け殻のように生気がない。
「……でいいのか……あの……約束……」
「ええ……約束のものは……受け取って……億円よ」
部屋の中からはもう医者の男一人だというのに、誰か幼い子供の声もしていたが熱井に気にする余裕はない。努力でも根性でも救えないものはある、それを分かっていたつもりでも現実として叩きつけられると落ちこんでしまう。
「お困りのようね」
病院のロビーで熱井に声を掛けたのは雲固学園の制服を着た少女。
水色の髪が腰まである彼女は熱井の前に立ち塞がる。
「どいてくれ……僕は、働きに行かなければいけないんだ」
金を稼ぐ。それだけが今の自分に出来ることだと熱井は思う。
「働くですって? あなたバカ? 治療費の金額は聞いたでしょう。あなたがどれだけ近所の店の手伝いをしたところで、いったい貯まるまで何十年かかるのかしらね。貯まるまでに妹さんは死んでしまうわよ」
それは紛れもなく正論で、反論などできるはずもない。だから熱井は叫ぶしかなかった。
「なら、ならどうすればいいんだ! 金だ、金がいる! 努力や根性で金が手に入らない以上、僕は地道に働くしかないじゃないか!」
その言葉に少女は不気味な笑みを浮かべ、熱井の背後へと瞬時に移動すると悪魔のように囁く。
「だったら私達に協力しなさい。そうすれば治療費を全額払ってあげる」
思わず、息を呑んだ。
願ってもない申し出であるが、本当に誘いに乗っていいのかと心のどこかで迷っている。差し出された手を見つめているのに目が泳ぎ続けている。
「ぼ、僕は……僕は……」
「迷う必要がどこにあるのかしら。私の手をとれば確実に妹を救えるのよ? なら、あなたがするべきことが何か……分かるわよね?」
「僕は……」
悩んで悩んで悩み抜いて数分。
答えを告げた後、そこから去っていく熱井の目には覚悟が宿っていた。
時は流れて運動会当日。
自分と同じくクラスを裏切った生徒とチームを組み、騎馬戦の出場準備を終える。
妹の小春のために絶対負けられない。彼は強くそう思い、邪魔をする黒髪の少女を睨みつける。一時期、一人でも平然と生きていられる姿に憧れを抱いた相手だ。そんな彼女も今や敵。友達でもクラスメイトでもない、ただの敵だ。




