47.1 罠――Gパニック――
宝生小学校の昇降口で大勢の生徒達が靴から上履きへと履き替えていく。
神奈もいつも通り自分のロッカーを開ける。欠伸をしたので目を瞑ってしまうが上履きくらい取り出せる。そう思っていたが、いくら手を動かしても空を切るばかり。見ないで諦めずに探していると何か奇妙な感触が指先にあった。上履きではない、別の何か。気になった神奈は視線を向ける。
そこにあったのは見慣れた白い上履き――ではなく、ガサガサと蠢く大量のゴキブリであった。
あまりの光景に神奈は絶句して放心してしまう。
嫌いな虫ランキング不動の一位である黒い虫がロッカーから溢れ、ある者は飛び立ち、ある者は長く続くロッカーを這っていく。
周囲から「え、ゴキブリ!?」と驚く声や「きゃあああ!」という悲鳴が上がるなか、未だ呆けていた神奈の口に一体のゴキブリが飛びつく。汗がダラダラと流れ始め、顔が一気に青褪めて、今まで溜めに溜めた女子らしさの欠片もない悲鳴……いや、絶叫が学校近辺に響き渡った。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
視界が真っ暗に染まっていく。
涙が溢れ出す。
意識が徐々に薄れてしまう。
後に登校して来た生徒達はこの時の光景を地獄絵図と称した。
*
宝生小学校の保健室で神奈は目覚めた。
白いベッドで横になっている神奈に、横に置いてあるパイプ椅子に座る笑里と才華が事の顛末を語っていた。
「――というのが、今ここに神奈さんがいる理由。ちなみにあなたの叫び声で生徒の何人かは耳の痛みを訴えて早退したそうよ。ゴキブリについては全部霧雨君が自作の殺虫剤で処理したわ。朝来たとき何事かと思ったわよ」
「ねー、昇降口に死んだゴキブリがいっぱい転がってたのは気持ち悪かったなあ。でも生きてたらもっと気持ち悪いだろうし、和樹君には感謝しないとね」
想像しただけで吐き気が込み上げてくるので神奈は口を押さえる。
「つまり、私はゴキ……アレに驚いて気絶してたわけか。なにこれ、いじめ? 私っていじめられるようなこと何かした?」
個人のロッカーに大量のゴキブリが自然と住み着くわけがない。誰かが故意に、悪意を持って、大量のゴキブリをロッカー内に入れたことくらい誰にでも分かる。そんな悪質で陰湿ないじめ行為をされる覚えが神奈には全くない。
神奈の学校での立場といえば別に悪くないはずだ。
影では三大美少女なんて男子に呼ばれているが、女子からは恨まれていない。告白されていたら恨む女子もいただろうが大抵されるのは才華である。
一つ気がかりなのは入れられたのがゴキブリだということ。
ゴキブリは神奈が一番苦手な虫。前世で山籠もりしていた時、起床した際に口の中で死んでいた事件があってから悲鳴を上げるレベルで苦手なのだ。犯人は神奈が苦手なのを知っていたのか、それとも誰もが嫌いそうだから入れたのか。前者だった場合犯人はかなり絞れるが後者の可能性が高い。仮に前者だったなら、犯人はそれを知っている親しい人物の誰かということになる。
「いじめはないと思うわ。この時期だし、また向こうの学園の策略と考えた方がいいでしょうね。外部の犯行というより、宝生小学校の生徒の方が仕掛けやすいでしょうけど……」
ないとは思いたいが裏切り者がいる可能性はあるだろう。
本人の意思ではなく、人質など汚い手を使えば裏切らせることは出来る。笑里は隠し事が下手なので信じられるが他は分からない。
「監視カメラの映像を見てはいかがです? 才華さんが前に設置していましたよね」
腕輪の意見に神奈が「それだ!」と叫ぶ。
盗難事件をきっかけに設置した監視カメラは今も健在。こういった時にチェックしなかったら何の意味があるというのか。
「職員室でパソコンを借りてくるわ。ちょっと待ってて」
才華が保健室を飛び出していく。
設置された監視カメラはパソコンに映像を送っているため、それがなければ見られない。これで映っていたのが知り合いでも神奈は一発ぶん殴るつもりでいる。
「よかったね、犯人がすぐ分かりそうで」
「ああ、ほんとな。……同じ目にあわせてやらなきゃ気がすまないっての」
「神奈ちゃんゴキブリ触れないんじゃないの?」
承知の上で言っている。神奈はジッと笑里を見つめる。
自分が触れないのなら他の誰かにやってもらえばいい。そんなずるい作戦は伝わったようで「え、私がやるの!? 嫌だよ……」と拒否されてしまった。さすがの笑里もゴキブリに触るのは嫌だったらしい。
「あ、ごめん神奈ちゃん! 今日は練習ある日だから道場行かないと!」
「え、もう? え、もしかしてもう放課後!?」
「うん。ほんとにごめんね!」
そう謝って笑里は保健室から出て行ってしまった。
ドタバタと、騒がしい足音が遠ざかっていく。そしていきなり扉が勢いよく開かれたため神奈はビクッと肩を震わせる。
「神谷神奈ああああああ!」
「うわっ、何だお前かよ……」
やって来たのは速人であった。
扉を開けてから廊下の方でダダダダダンッと強い足音が聞こえてきた。音速より速く動いた結果だろう。少々驚くので「音より速く走るの止めろよ、危ないだろ」と注意しておく。
「どういうつもりだ! 昨日はなぜ来なかった!」
「は? いや、いやいやいや、何の話だよ。約束なんかしてないだろ」
「お前から呼び出しておいて惚けるつもりか。俺は一応今日の夕方まで待ってやったのに、お前はベッドでお寝んねか!? 見てみろ!」
速人が折り畳まれた紙を叩きつけるように渡してきた。
仕方ないので開けて見てみると、そこには神奈そっくりの筆跡で書かれた文章が書かれていた。これは果たし状だ。残念ながら心当たりが全くないので罠だろうが、仕掛けたのが雲固学園だということは想像出来る。
「果たし状、ね。出したの私じゃないぞ、悪戯だろ」
「嘘を吐くな。筆跡が同じだぞ」
「似せたんだろうよ、随分と手間かけて。誰が出したのか個人は特定出来なくてもお前なら分かるだろ。この果たし状に関与している奴らくらい。……てかさらっと私の筆跡を把握してんの明かすなよ」
忌々しそうに顔を歪めた速人は「雲固学園か」と呟く。
自分で汚い手に気を付けろと言っておいて、こういう手に簡単に引っかかるのはどうなのだろうか。神奈関連になるとあっさり罠に嵌まりそうだ。神奈は若干彼のことを心配する。
「俺を謀った報いを受けてもらうか……」
「程々にしとけよー。一発殴るくらいにしとけー」
「ちっ、なら一回斬るくらいにしてやる」
「おいそれ死ぬだろ多分」
怒気を放出したまま速人は窓から出て行く。
わざわざ開けてそこから出て行かなくても、と神奈は呆れた。そもそも靴はまだ昇降口にあるはずだ、上履きで帰るつもりなのだろうか。ただ単に忘れている可能性も否定できない。
「あれ、笑里さんは?」
保健室を訪れたのは帰って来た才華。
ノートパソコンを抱えている彼女に「道場行ったよ」と神奈は返す。
「監視カメラの映像、ちゃんと撮れているみたいだから見てみましょう。笑里さんがいないのは好都合だわ。あの子、犯人分かったら殴りに行っちゃうだろうし」
「なるほど、そう考えると確かに好都合か」
才華がベッドに腰かけて、神奈の隣でノートパソコンを操作する。
素早い操作であっという間に動画が画面に映し出された。昇降口全体の映像だったので、神奈のロッカー付近を拡大する。時刻は六時過ぎと朝早い。この時間帯なら生徒は誰も登校していないだろう、罠を仕掛けやすい。
――やがて、黒い制服を着た生徒が登校して来た。
宝生小学校に指定制服などないし、雲固学園の生徒だろう。
向こうの制服を着ただけの裏切り者という可能性もあるが、顔さえ映っていればこっちのもの。映っていた少女は虫かごを持っており、中にいる大量のゴキブリを神奈のロッカー内に手掴みで入れていく。
「こいつか。才華、才華ならこいつ、誰か分かるか? 出来ればどこにいるのかも」
「方法はあるわ、すぐ見つかると思う」
「じゃあ頼むわ。私はこいつによお、地獄ってもんを思い知らせてやりてえからさあ。死にたくなるほど後悔させて後悔させて後悔させて、一生懺悔させながら生かしてやる」
過去に自分の家を破壊されたことがあるが、それ以上の怒りを抱く。
欲の精霊を相手にしていた時よりも遥かに強い怒り。腸が煮えくり返るようなそれの矛先をたった今、一人の少女へと向ける。
* * *
とあるコンビニエンスストアの漫画、雑誌コーナーに一人の少女がいる。
児童向け漫画雑誌を手に持って立ち読みしている彼女を注意する者はいない。店員はやる気がないのか呆けて座り込んでいる。
「黒い虫触った手で立ち読みか、汚ねえなあ」
薄汚い笑いを浮かべながら神奈はその少女の肩へ右手を置く。
「ちゃ、ちゃんと洗いましたって……え、嘘、何で」
振り返った彼女の表情は一変。
漫画雑誌が面白かったのかクスクス笑っていたのに、隣にいる神奈と才華を目にした途端笑みが消える。目を見開いて愕然としているのが丸分かりだ。
「やあ初めまして。騒ぐなよ、もし騒げばどうなるか。きっとお前が想像している四十四倍は酷い結末が待っているから」
「逃げ場はないわ。大人しくしていてね」
ゴキブリをロッカーに入れた実行犯である少女の居場所へ、どうやって二人がやって来れたのかは言葉にすれば非常に単純。藤原家の財力、技術力を駆使し、町中の監視カメラ映像をハッキングして足取りを追ったのである。当然誰にもバレないように。
件の少女がコンビニで立ち読みしていると分かった途端、神奈は才華を脇に抱えて、無事でいられるギリギリの走行速度で少女の所へと向かったのだ。
「洗ったってことはお前で間違いないな。撲殺、自殺、虫の中で埋もれて死ぬ、この三つから三秒以内に行く末を選べ。拒否しても骨の二、三本は覚悟してもらおうか」
「いや怖いわよ、そこまでやらなくていいからね。……まあ、色々と察していると思うけどこういうことよ。雲固学園五年一組、走莉矢素紺さん。ちょっとお話をしましょう」
冷静になってみれば殺すだの何だのは言いすぎた自覚を持てる。ただ、この短時間で居場所と名前を特定するのとどちらが怖いのだろうか。個人的に神奈は才華の方が恐ろしく思える。
「……ごめんなさい」
立ち読みしていた漫画雑誌を棚に戻してから素紺は頭を下げた。
深く、深く、これでもかという程に深く。いつまでも。
「謝れば許してもらえるとでも? 謝るくらいなら何でこんなことした」
「め、命令だったの。私だってやりたくなかったけど、逆らえないから、従わなくちゃいけないから……。監視カメラもないからバレるわけないって言ってたし」
「カメラならあったわよ。だからこうしてあなたに辿り着けた」
「え、嘘……! じゃあ私は、何の為に……」
驚いた素紺は頭を上げて呆然としている。
「命令つってたな。いじめられてるのか?」
彼女は俯いて「……言えません」と告げる。
「言えないって、いじめが悪化すると思ってるなら大丈夫だ。ここには私達以外に聞いている人間の気配はないし、私達だって誰にも言わない」
「……言わないんじゃない、言えないんです!」
「何でだよ。制約と誓約か? ジャッジメントチェーンが刺されてるわけでもあるまいし。口に出したら心臓でも貫かれんのか?」
異能の可能性もある、通常の魔法では無理だろうが固有魔法なら可能かもしれない。意味深な彼女の言葉を真に受けるなら言動を規制されていると思った方がいい。
「前に、同じクラスの生徒が警察に密告しに行ったんです。その子一人で行ったし、警察の人以外には話していない。当然周囲には誰もいなかった。なのに、それなのにバレて、その子はみんなの前で痛めつけられて……。後日、頭がない死体が見つかりました。そしてその翌日、教室で警察の人の歪んだ顔が教卓に置かれていました。……私も話したら、ああなるかもしれない」
さすがに嘘だろと言いたいレベルに酷いエピソードが語られた。
青褪めて震える様は嘘を言っているようには見えない、きっと真実だ。真実がそれなんだとしたら加害者は常軌を逸したド畜生である。普通の小学生が人間の頭部を見せられて怖がるのは当然なので、恐怖で支配するなら効果的ではあるだろうが、たかだか小学生相手にそこまでやる必要があるかと疑問は出る。
「なるほど、神奈さん、どうやらこの会話も聞かれているようですね」
唐突に腕輪が喋り出す。
困った時の腕輪頼りになる雰囲気を察したのか、自慢の知識を披露したかったのかは不明だが。きっと後者だろう。
「でも周りには誰もいないぞ」
「ええ、人間はいません。しかし、彼女のポケットの中を調べてください。そこから小さな魔力反応があります」
神奈は「魔力?」と呟いて素紺の制服のポケットに手を突っ込む。
訝しみながら中を探ると小さな何かがあるのが分かった。不思議に思いつつ取り出してみると、手の中にあったのは極小のマネキンであった。
「おいおい、これ、まさか……人形か?」
「おそらくその人形で盗聴していたのでしょう。今こうして話しているのも相手に筒抜けと思ってください。壊した方がいいですね」
「人形で盗聴って、そんなことが出来るの? 人形の中に盗聴器が入っているなら納得出来るけど」
「魔法は不思議だからな、出来てもおかしくない。ま、固有魔法か」
今回の相手が一筋縄でいかないことを実感しつつ神奈は人形を握り潰す。どういう素材なのか潰したら塵になったので、店員に言ってからトイレを借りて水で流しておいた。
二人のもとへ戻った神奈は「もう話しても大丈夫だぞ」と告げる。
信じられないのか素紺は「ほ、本当に?」と問いかけるが、本当なものは本当なので「ほんとほんと」と軽く流した。
少しして状況を呑み込んだ素紺が真っ直ぐに目を見て話し出す。
「あの、神谷神奈さん、ですよね。もしかして、あなたも何か不思議な力を使えるんですか? あの人みたいに」
「あの人ってのが誰か知らないけど、使えるぞ。ろくでもないのがな」
「素晴らしい魔法を数多く使えますもんね」
「そう思ってるのお前だけな」
最近は使用していないが神奈が使える魔法といえば使い道がないものばかり。出っ歯にするなどの魔法で敵と戦えるわけもない。……一度だけ切羽詰まって戦闘中に使ったことはあるがそれは特例だ。基本的に戦闘用の魔法じゃないうえに使い道がないのだから酷いものである。
対して人形で盗聴するなど、なんて応用が利きそうな魔法だろうか。敵ながら羨ましく思ってしまったのは誰にも打ち明けられない。
「あなたなら、あの人に、勝てますか?」
「少なくとも負けるつもりはない。こう見えて私、めっちゃ強いから」
「神奈さんの強さだけは保証するわ。まず、そのあの人とやらについて教えてもらえないかしら。今まで何をされて、どうしてきたのかも」
恐る恐るではあるが素紺はこくりと頷く。
手足や唇を小刻みに震わせながら彼女は語る。
ある日、二人の男女が雲固学園に転入してきた。
名前は女が天寺静香、男が日戸操真。
一見普通の転入生だが事件は翌日に起きた。学校が天寺静香の管理下に置かれてしまったのである。素紺には何が起きたのかさっぱり分からないが、日常が終わって非日常が始まったことだけは理解した。
教師、生徒、校長含めて雲固学園は全てを支配されたのである。
歯向かった生徒も当然いた。結果は手酷いオシオキを受けて、翌日には忠誠を誓ってしまっていたが。未だ彼女達が気に食わない生徒がどんなにいることか。誰もかれもが暴力を恐れて従っているにすぎない。唯一、金城遥という財閥の跡取りだけは多少の我が儘を許されていた。
状況は放置せざるをえなかった。それが悪かったのか、悪夢の残酷さが増していく。
さらなる転入生。獅子神闘也を含めた十数名。彼らは希望になるどころか絶望の調味料にしかならなかった。なんせ転入してきた彼らは既に天寺の下僕であったのだから。
奴隷のような生活は続き、素紺はただ従っていた。
名前しか知らない生徒二名のロッカーにゴキブリや果たし状を入れろと命令され、歯向かうことなく忠犬のように仕事を果たした。もし拒否すれば肉体的にも精神的にも痛みを与えられる、それがどうしようもなく怖い。
「なるほどね、事情はだいたい理解した。魔力持ちが相手だってんなら逆らえないのも納得だ。聞いた限りじゃ相当のクズらしいし、逆らわない方がいいのかもな。……まあでも安心しろよ。そいつは私がぶん殴ってやる、反省するまで、何度でも」
素紺は「ありがとう、ございます」とおどおどしながら礼を言う。
最初神奈は彼女を殴るつもりでいたが、先程の話を聞いて怒りの矛先を向ける対象が変化した。天寺静香という全ての元凶に怒りを燃やす。
「ああでも、一つ忠告することがあった」
希望に縋るような表情の彼女へ神奈は告げる。
「今回はしょうがないかもしれないけどさ……時には逆らうことも大切だぞ。言いなりのままでいたらきっといつか、すごい後悔する羽目になるからさ」
最後、前世の経験を踏まえた忠告をしてから神奈は去った。
悪いのは加害者で間違いない。ただ、逆らわない者達も加害者になる。胸の中にある後悔は死ぬまで……いや、死んでもなくならない。




