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【終章完結】神谷神奈と不思議な世界  作者: 彼方
四章 神谷神奈と運動会
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46.2 変態――鎖舐めの千恵――


 神奈は笑里と別れて自分の家についた。

 そこで見たのはなぜか包丁を持っているゼータと、倒れている黑い服を着た少年の姿。そう、殺人現場である。


「待て待て待て! 何してんだお前!」


 自宅の前にいた殺人者ゼータへ向かい神奈は慌てて叫ぶ。


「あ、神奈さん。これお土産です、北海道の」


「ああ、ありがとう」


 神奈は紙袋に入ったお土産を見ると、中身は【黒い恋人】と書いてある人気商品なことに気が付く。後で食べようと思うが、それよりも包丁を持っていることが気にかかりゼータに問いただす。


「……じゃなくてそいつだよ! なんだそいつ! あと包丁!」


「え? ああこの人……いきなり襲ってきたんですよ、それでやむを得ず戦いになってしまいまして。あ、でも強いわけではなかったので私一人で怪我無く勝てました」


「それは良かったけど。つまりこいつは私を狙ってきたってことか」


「言動からするにおそらくは。それとこれは人間じゃなくて人形でした。中身が空洞なんです」


「人形? 何でまたそんなのが。はぁ、どこのどいつだか」


 人形が着ている服が黑い服なのに気が付いた神奈は、帰りに聞いた宝生小学校の生徒を襲撃している犯人ではないかと推測する。服をまじまじと見ていると、とある文字が書かれているのに気が付いた。


「……雲固(うんこ)学園」


「え? あの神奈さんいきなり下ネタを投入するのは」


「私だって言いたくて言ってるわけじゃないわ! なんでこんな真面目にうんこって言わなきゃなんないんだよ!」


「神奈さん……じゃあ私は、その、これで失礼します」


「待って!? 引いた!? 今引いた!?」


 ゼータは事情を何も知らないので神奈の言葉に困惑したのだろう。引き攣った表情のまま帰ってしまった。


「……雲固、雲固学園ね。これも全部奴等のせいだ」


 こんな名前は嫌だと神奈は改めて思う。しかしだからといって勝負に勝つために相手の学校の生徒を襲うなんて許されるわけがない。雲固学園に対して微かな怒りを感じていた。ついでにゼータに引かれたことに対する怒りの矛先も向けた。


「それにしてもどうしようこれ、まるで死体じゃん。え、どうすんのこれ」


 神奈と黒い服を着た人形だけが残された。

 人形をどうするか悩んでいると、いきなりその作り物ではあるが本物のように見える眼球が赤く光る。


「え、なんだこれ?」

「神奈さん! これ爆発しますよ!?」


 徐々に強まっていく赤い光に神奈は困惑していたが、腕輪の一言でその顔を強張らせる。焦って人形の首を掴み、遥か上空へと放り投げた。人形は山よりも高い場所で体を弾け飛ばして木端微塵になる。


「証拠隠滅……ってところかな」


 神奈は何もなくなった空を見ながら呟く。

 今日の出来事をクラスの生徒に伝えようと思い、家の中へ入ろうとした時――鎖が体に巻きついた。


「は、何これ? やばい、今日ボキャブラリー死んでるかも」


「あらあら、じゃあ君も殺してあげるわ。アタシの鎖でね」


 鎖に巻きつかれたまま強引に振り向くと一人の少女がいた。

 三つ編みのツインテールの彼女が鎖を手にしている。物騒な世の中になったものだと神奈は思う。どこぞの殺し屋のような子供がまだいるなど世紀末になるのも近い。


「誰お前」

「アタシは日下部(くさかべ)千恵(ちえ)。裏社会で通っている異名は鎖舐めの千恵。こんな風に鎖を舐めているのが多いからそう呼ばれるようになったわ」


 自己紹介の後にペロペロと千恵は鎖を舐めている。

 口には出さないが、いや出してもいいのだが心底ダサいと思った。もう少しマシな異名はなかったのだろうか。そして鎖を舐める意味は何かあるのだろうか。

 試しに「美味いの?」と訊いてみたが「鉄の味よ」という声が返って来た。鉄の味そのままなら美味しくはないはずだ。尚更意味不明である。


「えーっと、お前は何なのかな。どうせ向こうの学園絡みだろうけど」

「アタシは――鎖舐めの千恵!」

「さっき聞いたよ。いや、だから、お前は何をしに来たのかな?」

「決まってるじゃない。鎖を! 舐めに来たのよ!」

「帰れ変態、マジ頼むから帰ってくれ。家で勝手に舐めてろ」


 呆れすぎて神奈は随分と冷静になっていた。

 いつもなら大きな声でつっこむところだが心が落ち着きすぎている。


「アタシがこれを舐める時はね、獲物をぎゅうぎゅう絞めつけている時と決めているのよ。相手の血と何か色々な汁で味付けした鎖は最高なの……!」

「色々な汁って何だよ」

「色々な、汁よ!」

「だからそれが何なのかって話ね。国語学び直せ」

「細かくつっこんではダメですよ神奈さん。センシティブな情報です」

「センシティブ……センシティブ?」


 どうも千恵という少女はあまり会話が出来ないらしい。小学生らしく国語を一から学習してほしいものだ。神奈も今度英語を少し学ぶ必要がありそうなのでお互い様だろう。


「さーてどうかしら? そろそろ腕が千切れそうなんじゃない?」

「あ、全然平気」


 一般人、戦闘総合値が一桁のような者はそうなるのかもしれない。

 ただ神奈の肉体は見た目に反して強靭だ。油断している時に、魔力が込められた刃物でなら刺されたりしてしまうが、今体に巻きついている鎖は何のエネルギーも込められていない。


「おかしいわね、痩せ我慢してるんじゃなくて?」

「いや全然してない」


 痩せ我慢も何も一切のダメージを受けていない。もはや慣れたものだ。

 余裕そうだった千恵は徐々に込める力を強めていく。


「ふんっ、ぐぬぬぬぬ! ふんぬううううううう!」

「お前顔すげえことになってんぞ」

「うだあああああああああああああああああああ!」

「……もういっか」


 神奈は腕を動かして鎖の拘束を広げると、素早く屈むことにより脱出した。これはある程度のスピードがなければ失敗して首か顔辺りを絞められる。一度拘束を力尽くで緩めてから再び絞められる前に抜け出さなければいけないので、まあ千恵の力から計算するに音速で動けば確実だろう。

 普通に抜けられてしまったのに彼女は愕然としている。


 敵なのは確定しているので神奈は攻撃に移る。

 殴るか魔力弾かで悩んだが、とりあえず無言の腹パンを放った。


「うぐっ!? ぐおおおおお!?」

「もう勝てないの分かったか? 大人しく帰って鎖舐めてろよ」

「おええええええええええええ……!」


 力加減を微妙に間違えたのか千恵は蹲って嘔吐した。

 家の前でゲロを吐かれたのに神奈の怒りのボルテージが高まっていく。


「帰れ。ちゃんと掃除してから」


 冷めた目で千恵を見下ろしていると神奈の視界に黒い波が映る。

 ここはアスファルトの上。水たまりすらない場所で波など発生しない。そうだ、波ではない。そう見えるような黒い壁が迫っている。段々と近付いて来るそれは雲固学園の制服を着た男子生徒の大群であった。


「うわっ、何だありゃ!?」


 数える気にもなれない大勢の男子生徒が押し寄せる。

 慌てて神奈は自宅の玄関前へ避難すると、蹲ったままの千恵は走る男子生徒達に呑み込まれてしまう。大群が通り過ぎると彼女の姿は嘔吐物を残して綺麗さっぱりなくなっていた。

 掃除してけよと文句を言いつつ、神奈は嫌々家の前の嘔吐物を片付けた。



 * * *



 霧雨(きりさめ)和樹(かずき)は運動会の練習を終えて帰路についていた。

 白衣に袖を通して、ゴーグルを頭に装着している霧雨は研究者だ。将来は誰もが絶賛して使う道具を開発したいと思い、まずは形からと私服はいつもそれだ。家にクローゼットには白衣が十着以上も収納されている。


「まったく、運動は疲れるものだ」

「だね。でも今年は結構平気かな」


 そんな霧雨と共に道路を歩くのは斎藤(さいとう)凪斗(なぎと)

 同級生でクラス、部活動が同じの彼とは仲が良い。狐の耳を生やしたような髪型の彼にはたまに発明品を見せて感想を貰っている。彼だけでなく文芸部部員全員も審査員である。ちなみに戦闘に役立つという理由で購入までしてくれるのが速人だ。他の部員は購入までしてくれない。


「何? なぜだ、体力でもついたのか?」


 斎藤は体力がないはずだ。少なくとも文芸部に入った初めの頃はそうであったのを霧雨は憶えている。よく体育の授業で息を切らして辛そうにしていた。


 あの頃と変わった点というなら彼が魔法を習得したことだろう。

 究極魔法なるとんでもないものに加え、神奈の知り合いに魔技(マジックアーツ)なるものまで教わっている。戦闘訓練も受けているらしく最近は多少筋肉が発達してきていた。


「レイ達との特訓でちょっとずつね。それと、まあ、ズルいかもしれないけど魔力でもっと身体能力を強化出来るようになったんだよ。上達してるって褒められて嬉しかったなあ。……まだあの人達にキズ一つ付けられないけど」


「それはまた、相当強いんだな。隼や神谷の同類か」


「レイでも神谷さんには勝てないって言うし……神谷さんってほんと何者なんだろ。レイも出会いは話してくれないし、この世界で一番強いなんて言うんだよ。気になるなあ」


「確かにあれほどの強さをどう手に入れたのか気にはなるがな。どんな過去にせよ、自分から話すようなものではないんだろうさ。何なら今度聞いてみればどうだ」


「うん、そうす――」


 他愛ない話をしながら歩いていると――斎藤が視界から消失した。

 代わりに見覚えのない少年が蹴りを入れたような体勢で立っている。黒いコートのような服を着ているが、よく見れば襟付近に最近耳にした学校の名前が書いてある。


 蹴りを入れたような体勢なことから実際に入れたのだろう。霧雨の動体視力は他の文芸部部員と違って並外れているわけじゃない、そこらの一般人と同程度。高速で動かれれば見えないのも仕方ない。

 少年が蹴ったと思われる方向に恐る恐る視線を送れば、遥か向こうのゴミ捨て場にぐったりしている斎藤が転がっていた。これでも視力だけはいいのだ、見間違えてはいない。


「斎藤……! くそっ……」


 下手な動きをすれば攻撃される予感があった。

 誰かは知らないが雲固学園の生徒だろう。不審者が制服だけ借りて襲撃して来たという線もあるので断定は出来ないが。どちらにせよ目的ははっきりしている。


 襲撃者は宝生小学校の生徒を襲う。なぜかといえば邪魔だから、例えば運動会で活躍されると困るから。雲固学園の生徒が戦力を削ぎに来ていると考えた方が自然だ。


 問題はどうして他校の生徒が斎藤を実力者と決めつけて襲ったのかである。普通他校の生徒の実力まで把握は出来ない。霧雨だって雲固学園の生徒のことまでは知らないのだ、噂もない。神奈と速人が超人的追いかけっこをするのを見て噂が出るなら分かるが斎藤は全くの無関係。つまり考えられる中で一番妥当なのは内通者の存在。宝生小学校の何者かが生徒の情報を伝えている可能性が高い。


「待て、一応言っておく。俺を痛めつけても意味はない。運動会という体育会系の人間が活躍するイベントにおいて俺は無力だからだ」


 まずは自己防衛が重要。こちらへ振り向いた少年に攻撃されないことを祈る。


「さすがだねえ霧雨和樹。俺は一言も喋っていないのに、俺を見ただけで情報を集めて推測している。お前の推測はほとんど正しいよ。一つ勘違いしているみたいだけど、そうさ、俺は能力の高い生徒を怪我させる役目を持っている」


「……勘違いだと?」


「ああ、俺はお前を襲う気はない。実はスカウトしに来たんだ。随分と頭がいいらしいじゃないか。どうだ? 俺達の学園に協力するつもりはないか? 報酬なら望む物をくれるらしいし悪い話じゃないはずだぜ」


 やはり生徒の情報を握っている。内通者がいると思った方がいい。

 霧雨はこんな時でも情報収集を怠らない。スカウトの話など答えは決まりきっているので聞く価値がない。望む物を何でも与えてくれるというのも胡散臭い。そんな程度の甘言に絆されてのこのこ付いて行く霧雨和樹ではないのだ。


 ……ただ状況が悪い。断れば確実に病院送りにされる。

 不意を打って打倒出来ればいいのだが可能性は低い。手持ちの発明品で勝てるかもしれないが使う前に攻撃されるだろう。何せ相手のスピードは素人目には見えないのだから。


「望む物、か。俺の望みをお前が叶えられるかな」


「俺は無理だが、あの人ならやってくれるさ。事実俺の望みを叶える手筈を整えてくれているんだから。資金もある、何だって出来るぞ」


「つまりお前より上の人間がいるということか。誰だ」


「仲間になるなら連れて行ってやるよ。さ、返答は?」


 時間稼ぎも厳しい。不意打ちに賭けるしか霧雨の選択肢はない。


「……お前の上の人間。もしかして、後ろにいる奴のことか?」


 襲撃者は「なっ、まさか!?」と後ろへ振り向く。

 当然誰もいない。霧雨のハッタリだ。

 これが最初で最後のチャンスだと思われる。霧雨は白衣のポケットから小型の拳銃を取り出して襲撃者の足元へと向ける。


 敵で厄介なのは目にも止まらぬスピード。その長所を殺すには機動力を削げばいい。

 霧雨が向けた拳銃は一見ただの拳銃。しかし中身はベトベトの瞬間接着剤を入れた弾丸だ。着弾と同時に破裂して瞬間接着剤が広がることにより、足に撃てば地面と瞬時にくっついて剥がれなくなる。


 防犯用に持っていて正解だったと思いつつ発射。

 緑の弾丸が撃ち出され、襲撃者の右足に着弾。弾丸が破裂して白い接着剤が足と地面にかかって固定される。


「誰もいねえじゃねえか……。くだらねえ真似してんじゃねえよ。まさかとは思うがよ、これがお前の返答だってことか? つまり歯向かうってことなんだよな――っていねえ!?」


 全速力で霧雨は倒れた斎藤の元へと走っていた。

 何も敵を倒す必要はない、逃げ切ればいいのだ。


「ふざけやがって、俺は音速で動ける固有魔法を持っている。この音原(おとはら)(しゅん)様から逃げられるわけねえんだよ――って何だこの白いの!? 右足が動かねえ!?」


 今更気付いたらしいが様子を窺う余裕はない。

 ゴミ捨て場に倒れている斎藤の元へ辿り着いた霧雨は手を伸ばし、目を見開く。

 視界に突如もう一人の男が入って来た。瞬間接着銃により動けないはずの音原だ。対処法を考え出すと同時に腹部へ蹴りが入って体と思考が吹き飛ぶ。


 骨折はおそらくしていない。ただ内臓が破裂したと思えるほどの痛みが発生し、腹部が熱を持つ。アスファルトの上を転がった霧雨は徐々に速度が落ちていく。白衣は擦り切れた部分があり、酷く擦りむいて出血した箇所もある。


「ぐ、うおっ、かああっ……!」


 蹲った霧雨は痛みに悶える。

 涙が自然と溢れて視界が滲む。目に映る景色は劣化するが音原の動けた理由を理解することが出来た。

 靴だ。右足だけ靴を脱いで白い靴下で立っている。


「あー悪い悪い、凡人相手に力加減するの難しくてさあ。まったく勘弁してくれよ、俺この後で神谷神奈って女と隼速人って男を潰す気なんだから。へへ、日戸(ひと)の人形と戦って弱った二人を一網打尽、完璧な作戦だぜ。まあただ万が一を考えて体力の無駄な消耗は避けたいんだっつーの。……で、どう? さすがにもう歯向かう気起きないだろ」


 あまりにも酷い力の差を理解して歯向かう気はなくなった。

 音原は神奈と速人を潰すと言った。霧雨からすれば三人共強すぎて力の差は不明だがきっと音原は勝てないだろう。究極の魔導書の一件を思い出すと目前の男に勝ち目はないように感じられる。


 今後の賢いプランは二つ。

 このまま勧誘を受けて、雲固学園の協力者となったフリをしてスパイになる。

 一旦降伏して付いて行き、音原が倒された後の混乱に乗じて脱出する。


 どちらにしろ雲固学園へは行かなければならない。相手校の生徒を襲うような胸糞悪い奴等と会うのも、協力者のフリも嫌だが他に道はない。どうせ神奈か速人が相手を潰すまでの辛抱だ。



 ――本当にそれでいいのだろうか。霧雨の思考に雑念が交じる。



 どうせ倒してくれる。それは信頼の証と同時に甘えているのではないか。

 最初から二人を頼りにするのはどうなのだろうか。もちろん二人なら何も言わずとも助けてくれると信じている。だが心配と迷惑を掛けてしまうのは間違いない。

 格上の男が相手だろうと、まずは死ぬ気で足掻いた方がいいのではないか。本当に最初から友達を頼りにするのは友情じゃない、利用しているだけだ。霧雨にだってまだ手は残されている。


 選ぶべきは第三のプラン。賢くないプラン。

 この場で音原を倒して斎藤を手当てする。


「くうぅ……はあ、はあ、はあ。う、おお……!」


 気を失いそうな痛みを堪えて霧雨は立ち上がった。


「お前に、神谷や、隼は、倒せない。なぜなら……俺に、負けるからだ」


「ふっ、ふははははっ! 俺を倒す? お前が? どうやらその目は俺だけでなく現実すら見えないらしいな、節穴が! もういい、病院送りにしてやるぜ!」


 瞬間接着銃を構えるが、発射前に蹴りで弾き飛ばされた。

 黒い拳銃が音を立ててアスファルトの上を滑っていく。回収しようと手を伸ばすが音原が立ち塞がって、視認出来ない速度で頬を殴られた。


 本当に音速を出しているなら首が千切れているだろう。そうならないということは手加減しているのと同義。病院送りという言動から察するに殺人は避けている。要は気絶さえしなければこの勝負には負けない。


 音原に蹴り飛ばされて霧雨は再びアスファルトを転がる。

 白衣の一部が赤く染まり、頭部のどこかが切れたようで血が顔を流れる。


「こうした荒事も……想定、済み。だから、今日は……持ってきていた」


 蹴り飛ばされたのは丁度いい。音原相手には雀の涙程度だが距離を稼げた。

 数秒でいいのだ。数秒さえ自由があれば勝機を掴める。

 瞬間接着銃が入っていた方とは逆側のポケットを漁り、小型ケースを取り出して蓋を開く。中に入っているのは【β】の刻印がある白い錠剤が三つ。霧雨は躊躇なくその錠剤を一つ口に放り込む。


「お薬の時間か? ならこれから行く病院で処方してもらえ!」


「ハイパープロテイン、β(ベータ)!」


 錠剤を飲んだ途端、変化は訪れる。

 霧雨の肉体はぐんぐんと巨大化して身長は二メートル五十センチを超えた。肉体は筋肉が異常に膨れ上がって筋骨隆々といった様子なのに、顔だけは小学生のあどけないもののまま。あまりの変化に音原は愕然として立ち止まった。


「……あ? あ、あ? あ? はああああああ!? な、なんっ、なんっじゃそりゃあ!? だ、誰だお前、本当に霧雨和樹か!?」


「当然だ。今俺が飲んだのはハイパープロテインβ。以前テストしたαより進化した筋肉強制成長剤だ。効果時間は二倍になり、筋肉量も増加、筋肉痛の痛みも以前よりマシになっている。さて、俺の前腕二頭筋が唸るパンチを喰らうがいい」


 以前、ハイパープロテインαを泉沙羅が飲んだ時から実験を繰り返していたのだ。どう見ても貧弱そうな泉が怪力の笑里と腕相撲で渡り合ったりしたことから、遥かなパワーアップが見込めることは理解していた。それを自衛に活かせないかと、防犯アイテムとして売り出す計画の元に改良を続けているのが何を隠そう、ハイパープロテインβである。


「は、はっ! そんなのこけおどしに決まっている。俺をビビらそうって魂胆だろ、狙いが透けて見えてんだよ!」


 音原が音速の殴打を太ももへと放って来る。

 ドンッと丸太でも殴ったような音がした。


「くくっ、効かんなあ」


「……んな、バカな」


 嬉しい誤算だ。音原の攻撃は全くのノーダメージであった。

 今の状態の霧雨を相手に彼の勝ち目はゼロに近い。

 今度はこっちの番だとばかりに霧雨は極太の腕を引き絞る。


「どうやら節穴はお前の方だったようだな」


「ま、待て、待ってくれ! そんなのぶち込まれたら死んじゃうって!」


「安心しろ、死なない程度に筋肉(マッスル)パワーをぶち込んでやる」


「あ、うわあ、や、やめ、止めろおおおおお!」


 霧雨は極太の腕で半円を描くように下から殴打を放つ。

 めり込んだ拳を振り抜くと音原は小石のような軽さで見事に吹き飛ぶ。白目を剥いて、血と嘔吐物が混じった液体を吐き出してながら、まるでギャグ漫画のような吹き飛び方で霧雨の視界から消失した。


筋肉(マッスル)パワーに不可能なし」


 その後、斎藤の手当てをしようと近付いた時に彼は目覚めて、変貌した霧雨の容姿に絶叫したと思えば再び気絶した。

 筋肉とは末恐ろしいものである。


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