45 名前――それ悪いのこっちじゃん――
かなりギャグ回だと思います。今回運動会を乏しているような発言がありますがあれはあくまでも神谷神奈の思想であって作者がそう思っているわけではありませんのでご注意ください。
神谷神奈、小学五年生。
今年もまた面倒な季節がやってきたと心の中でそっと思う。
それは――運動会である。
運動会。それは自然界の掟とも言える弱肉強食の世界を再現し、他者と己で優劣を付ける恐怖のイベント。一年に一度それは開催され、毎年弱者達が顔を歪め、涙を流してその日を過ごすという悪魔の一日。
今年もついにその季節がやってきてしまったのだと神奈はげんなりとした表情で思う。多少癖毛なのに艶がある黒髪もどことなく元気がない。
神奈は運動が出来る方だ……訂正すると出来すぎる方だ。
何をするにも手加減が必要であり、それをするのも一苦労。周りに合わせるのが大変だから神奈は運動会というものが嫌いなのだ。
去年。クラス対抗リレーでの出来事は、今でさえ昨日のことのように思い出せるくらい神奈の記憶に刻まれている。
昨日のようというのは、ひょんなことから半年を数日で消費したことも原因になっているだろうが。
いつも自分に戦いを挑んでくる隼速人と一方的に殺し合い、という名の追いかけっこをしていることが有名になっており、そのせいでリレーのアンカーを強制的に引き受けることになってしまった。そしていざ走ってみた時、神奈にバトンが渡った時の順位は最下位だったにもかかわらず、他のクラスのアンカーをごぼう抜きで一位になって優勝したのだ。手加減したにもかかわらずである。
他のアンカー達はしばらく放心してしまい運動会の進行に影響が出たほどだ。
そんな去年のこともあり、神奈は今まで以上に周囲に合わせようとしている。圧倒的な絶対者がいるせいで、他の生徒の苦労や努力などを全てを台無しにしてしまうのは心が痛い。手加減されていると思われても相手の心の平穏を保つためなら仕方がないことだろう。
「運動会が近々ありますけど皆さん風邪には気を付けて下さいねえ、それではさようならあ」
「さようなら!」
「さようならああぁ」
「さああぁ」
「……あぁ」
担任の教師が帰りの挨拶をするが、ほとんどの生徒がだるさを訴え、やる気のないこのクラスでは運動会が近づくと返事も気が抜けたような返事になってしまう。例外として熱血男子の熱井心悟は元気だが。
下校の時間だということで神奈はいつも仲良くしている女友達二人。秋野笑里と藤原才華と共に帰ることにした。
廊下ですれ違う生徒達は怠そうな表情をしている者達が多く、教師でさえそんな顔をしている者がいることには神奈も驚く。せめて顔には出さないようにしろよと心の中で呟くが、面倒だという感情をもろに表に出している神奈が言えたことではない。
「はあ、運動会かあ。憂鬱だなあ」
「うーん、ちょっと嫌だよね」
同意したのはまさかの笑里。
運動会が嫌いなタイプではないはずだがどういうわけか。同じように疑問を抱いたらしい才華が「あら意外」と呟く。
「あはは、お母さん……シングルマザーってやつだからさ。毎日働いて疲れが溜まってるみたいなんだ。運動会に来てもらうのもなんか悪いなあって思って」
意外と笑里にしては重い理由だった。
彼女の母親を置いて先に死んでしまった父親は相変わらず、守護霊(仮)として傍に彼女の付き纏っている。さすがに申し訳なく思っているようでバツが悪そうにしていた。
「なるほどね……。私も両親が忙しいけど学校行事には参加してくれるのよね。当たり前だと思っていたけど、もっと感謝しなくちゃいけないのかも」
「来てほしいけど、来てほしくない。変だよね」
「変じゃないだろ。里香さんも行ってあげたいと思ってるだろうし、でも仕事が忙しいのはどうにもならない。心と現実ってのは複雑だってこった」
夜遅くまで働くのも珍しくないと聞く。以前会った時は笑里と似て元気で、正直疲れなど知らなそうな人物に見えたが疲れない人間などいない。シングルマザーはさぞかし大変な思いをしているだろう。
笑里はそれでもにかっと笑い「でもお父さんが見ててくれるし寂しくないよ」と告げる。才華が微妙に泣きそうで目頭を手で押さえているが違う意味に捉えていそうだ。天国で見守ってくれているなんて意味じゃない、今のは幽霊の父親が見てくれるという意味である。
ただ、幽霊だとしても父親が傍にいるなら心は軽くなるはずだ。
「ちなみに神奈さんはどうして嫌なの? いつも面倒そうだけど」
「一般人レベルに合わせるのが辛い。あと隼がウザい」
「……私から見たら笑里さんとか文芸部の子達もおかしいんだけどね」
「私から見たらあいつらも合わせる対象なんだよ。隼には容赦しないけど」
廊下を歩き続けた神奈達の視界には校長室が見える。
いつもなら気にも留めない部屋だが今は違った。一瞬だが見知らぬ老人が入っていったように見えたのだ。思わず「うん?」と不思議そうな声を零す。
「どうしたの神奈ちゃん?」
笑里がきょとんとして問いかけてくる。
「いや、さっき校長室に誰か見慣れない人が入っていったから気になってさ。誰だろあの爺さん」
校長室に入ったのはチラッと見えたがすごく怖い顔をした老人。鬼のような形相、親の仇に会いに行くかのような表情をしたのがやけに気になった。
明るい黄色の髪を手で弄る才華が「そんなことか」と少し落胆した様子で口を開く。
「それって別に珍しいことではないんじゃない? 校長なら誰かと会うなんて日常茶飯事なんじゃないかしら」
「それはそうなんだけど、あの人なんだかすごい顔を……」
才華の言う通り珍しいことじゃない。だというのに神奈には気のせいか何か嫌な予感がしていた。こういった予感は憶えがある。そう、いつもの厄介事、災難が神奈に降りかかろうとしている時だ。
あまりにも気になるので、いけないことと分かっていても神奈は聞き耳を立てることにした。笑里と才華も「そこまで気になるの?」と付いてきている。
校長室の中では二人の男の怒鳴り声が響いている。一人は宝生小学校校長であり、もう一人は話を聞くに他校の校長であった。
「なんだと!?」
「ハッ! 言い返せるなら言い返してみろ! この卑怯者め!」
「勝負は受けてやる! 何度やっても同じ結果だろうがな!」
「黙れ! 今年こそ我が願いは叶えさせてもらうぞ!」
相手の老人とは険悪な仲らしいことは事情を知らない神奈達でさえすぐ気付く。
「分かった分かった、だから早く出ていけ! お前なんぞに会う時間がもったいないわ!」
「言われなくても出て行ってやるわこんな学校はな!」
わりとすぐに会話が終わったことで、老人は校長室から出ていこうとしている。足音が近づいてくるのを感じて神奈達三人は「やばい」と心で叫ぶ。校長室に聞き耳立てていたなんて怪しまれるし、怒られるのは確実だろう。
外に出てくる前に隠れなくてはいけないと思うが、廊下なので隠れる場所はどこにもない。
「ど、どうしましょう。さすがに怒られるわよこれは」
「私は怒られるの嫌だなあ」
「私だって嫌だよ! こうなったらあれだ、自然体で今ここを通りましたよという空気を作るんだ……!」
神奈達三人は歩き出して会話を始めてみることにした。
「ところでこの世界ってどう思う?」
「いきなりその話題はおかしくない!?」
「世界……美味しい食べ物があるね」
才華がいきなりスケールの大きすぎる話題を出してきたので神奈は大声でツッコミを入れてしまう。この世界について小学生が考えるのは時間がもったいないだろと、心の中では別のツッコミも入れておく。
「帰りに道場に寄っていかない?」
「あそこはいいや」
「私も遠慮するわ」
笑里が道場に誘ってくるが、あの場所は特にすることもないので神奈からすればつまらない。初めて道場に行ったときは練習の真似をしたりして楽しんでいた才華も同じ気持ちなので当然却下。
「日本の経済について語り合いましょう」
「経済……? お金があれば美味しい物が食べれるよね」
「小学生の話題じゃないよ。それと笑里の言っているのは経済の話題じゃないから」
才華が再び大人びた話題を出してくる。
「別に小学生の頃から経済について考える必要ないだろ、大人になってから考えとけ」
そんなコントのようなやり取りをしていると、校長室の扉から不機嫌そうに眉を顰めた老人が現れ、近くの昇降口から出ていって見えなくなる。
神奈達は肩の力を抜いて三人同時に軽くため息を漏らす。
バレることはなかったが、精神的に疲れたような気がした。
「それにしても、何か険悪な雰囲気だったな」
「うん、喧嘩してたね……」
「あの人、勝負って言ってたけどなんのことかしら?」
「分からないけど校長って立場の人が使っちゃいけないような言葉遣いだったな」
校長という立場ならもう少し優しい言葉遣いをしてほしいと三人は思う。生徒や先生の見本となる立場なのだから、怒鳴り散らすのは気品などが疑われる。
「校長先生もだけど相手の人も怒ってたね」
「まあ、あんまり関係なさそうだったし関わらないでおこう。とりあえず今日は帰ろうか」
会話は一部しか聞き取ることはできなかったが、自分達に関係はなさそうだと判断する。神奈と笑里は徒歩で、才華は迎えの自動車でそれぞれ帰っていった。
翌日。宝生小学校の教室。
朝の挨拶で教師が珍しく重要なお知らせを発表した。
「実は急遽変更で運動会は二校合同で行うことになりました。皆さん負けないように頑張ってください」
「やるぞおおおお!」
「えええぇぇぃ」
「はああああい」
「ふえええぇい」
熱井以外の気の抜けた返事と共に朝の挨拶が終わる。
神奈の机にはすぐに笑里と才華が集まる。言いたいことはだいたい理解している。昨日の老人に関係していると神奈だけでなく二人も考えたのだろう。
「合同ってもしかして……相手の学校って昨日の爺さんの学校なんじゃないか?」
「校長先生ぽかったもんね」
「ふぁああ……その通りよ」
神奈と笑里のような予測ではなく、手で開けた口を隠しながら欠伸をしている才華は確かな確信を持っているようだ。
彼女曰く、家に帰ってから考え直すとモヤモヤするような気持ちになり落ち着かなかったので、すぐに父親の手を借りて宝生小学校校長のあらゆる過去を調べあげたらしい。そのえげつない行為の結果、昨日学校に来ていた老人についても予想でき、さらにその人物の過去も徹底的に調べあげたという。
何ともまあ恐ろしい、敵に回したくない一家だ。
藤原家と敵対したらその時点で詰みかける。元から武装した使用人がいる時点で物騒だとは思っていたが、今回で情報面すら徹底していると分かった。シンプルに怖い。
「本当にくだらない戦いよ? この運動会、昨日パパに調べてもらったんだけどね」
(才華のお父さんってほんと何者だよ。手がかりほぼゼロなのに一晩で調べるとか……)
「あの昨日のお爺さんとうちの校長先生は幼馴染みで、将来学校を建てるというのが夢だったらしくてね。ついにその夢が実現しようとしていたそのとき、うちの校長先生が遊びで勝負を仕掛けたらしいわ」
幼馴染みにしては険悪な雰囲気だったのにはそれなりの理由がなければおかしい。気が合わないにしても、才華が調べた限りではある時期までは仲は良好だったという。
「どんな勝負を?」
「勝負方法は分からないけれど……。その、負けた方の名前を…………にするって」
途中から声がおかしいほど小さくなったとき、才華は俯いており、その顔は赤く染まっていた。
しかし声が小さければ聞こえない。神奈と笑里には途中部分が聞こえていなかった。
「ごめんよく聞こえなかった、何だって?」
「才華ちゃん、声が小さいよ。もっと元気よく大声で言おうよ!」
「だから……学園にするって」
「才華ちゃん? 聞こえないよ?」
二人がまたも聞きとれず、それに対して才華は全身を小刻みに震わせる。
「だから! うんこ学園にするって言ったんだって!」
「なんかごめん!」
下ネタを普段口にしない人が唐突に叫んだからか、教室中の生徒が思いっきり目を開いて才華を見ている。
言い辛そうな雰囲気で察せなかったのは神奈達も悪いが、それでもさすがにその名前を予測するのは誰であろうと不可能だっただろう。一般的な思考回路をしているならば学び舎をそんな名前にしない。
「さ、才華ちゃん……下品なことそこまで大きな声で言わなくても」
「笑里さんが言えって言ったんじゃない! うんこ学園を大きな声で言えって! うんこ学園を!」
先ほど恥ずかしがった言葉を連呼する才華だが、羞恥心よりも怒りの方が上回っていて気にする様子もない。
「てかうんこ学園!? まさかそれ本当に……」
「ええ、あっちの学校、つまり今回の相手校の名前よ。さすがに雲って漢字と固まるっていう漢字で、パッと見ても分からないようにしてるらしいけど」
「マジでそんな名前にしちゃったのか……」
いじめのような酷い名前にしてしまったのは、きっと幼馴染みだからというのもあるのだろう。だとしても普通は遊びの範疇で済ませて実行しない。宝生小学校の校長が約束を守れと言ったのか、相手の校長が守ると言ったのか不明だがどちらにしろおかしい。いくら何でも酷い。
「しかもその原因が酷いのよ。本来ならその勝負はうちの校長先生の負け、本当ならこっちがその名前だったの」
「……え?」
「私嫌だなそんな名前の学校……」
「安心しろ笑里、誰だって嫌だと思う。クラスの奴らも全員頷いてるし」
たとえ教室中ではなく学校全体に下ネタ全開の学校名に変えていいかを訊いても、誰であろうと賛成はしないだろう。それほど常識から外れた恥ずかしい名前なのだ。
「でも校長先生が駄々をこねて、結局最終的にあっちが負けを認めたの。校長先生は情けで勝ちを譲ってもらったのにそれを『負けは負け、その名前で学校を建てろ』って言いだして結局折れたあっちの校長先生がその名前にしたってわけ」
「それ悪いのこっちじゃん! なんか相手を勝たせたくなっちゃったな」
校長のことを今までよく知らなかった神奈達だが、クズということだけは理解できた。そんな男が校長をやっている事実が無性に腹立たしいと、話を聞いていた全員が思うだろう。
相手を勝たせようと思っていると、才華は一人深刻な表情を浮かべる。
「それがそういうわけにもいかないわ」
「え? なんでだ?」
「もし負ければ私達の学校がその名前になるからよ」
「……マジで?」
才華はいたって真面目な表情だ。
嘘を言う理由もないしそれが真実なのだと誰もが悟る。
「マジか……負けたら強制でか……」
「毎年のようにその条件で勝負を挑んでは負けているらしいわ。でも近年なぜか立て込んでいたみたいでしばらくその勝負はなかったらしいけど……今年になって来てしまったということよ、地獄の決闘がね」
相手校の校長が叫んでいた「卑怯者」という言葉を神奈は思い出す。
確かに卑劣な行動をした。あんなに険悪な仲だったのも話を聞けば納得できる。復讐したいという気持ちも、そんなことをされたら当たり前だと理解できる。――しかし、自分が貧乏くじを引かされると分かっていれば誰だって拒否する。
「お前達! この勝負勝つぞ!」
「オオオオオオオオオオオッ!」
負ければ名前が下ネタに変更される。そんな未来を誰がどう受けとめられようか。
その日、運動会が嫌いで気が抜けていた神奈達のクラスは初めて一致団結した。熱井並の熱意を持って優勝をもぎ取ろうと全員が叫ぶ。
「……お金で解決出来ないかしら」
一人だけ、とある少女は別方向の思考を働かせていた。




