10.5 体力測定――負けられない戦いがある――
体育。その授業時間を使用する体力測定は毎年行われ、その時期になれば毎年不満の声でいっぱいになる。その中の一人である神奈も不機嫌さを露骨に顔で表しながら、体育館内で体育の担当教師の説明を聞いている。
「さあ! みんな、元気にいこう! 渡した用紙に記入されている一番上から、出席番号順……いや、早い者勝ちで回るんだ! 張り切っていこう、既に競争は始まっているんだ! それとその紙な、先生が一文字一文字手書きして作ったんだ! 先生の熱が届くようにな!」
暖かい季節だというのに、教師が暑苦しいせいで砂漠地帯のような暑さになる。
渡した用紙というのは、つい先程渡された手書きの文字が目立つ用紙だ。綺麗な文字であるが、全ての生徒分を書いたとなれば相当な労力であったに違いない。
パソコンで作って人数分印刷しろよ。というのが約一名を除いた生徒達の感想だ。
「届きましたよ先生の想い! その熱が、魂が、僕達に届いたあああ! よしみんな、全力で体力テストを受けるぞおおお!」
クラスでリーダー的扱いである熱井が叫び、暑苦しさが増したかもしれない。
白の体操着、赤の半ズボンを身にまとう生徒達は、嫌々ながらも今日測定する場所へ向かっていく。
毎年行われる体力測定の種目は八つ。握力。上体起こし。反復横跳び。長座体前屈。持久走。百メートル走。ボール投げ。立ち幅跳び。基本的な種目のみである。
早い者勝ちでやっていいとは言われたが、全員やる気なんてないので仕方なく並ぶ。神奈も笑里と才華の二人と合流して、面倒そうに列に並んでいた。
「神谷神奈!」
突如名前を大声で叫ばれたので、神奈は声のした方向を振り向いてみると、体操着姿の速人が指を突きつけてくる。
またかと思った神奈は呆れた顔をして「なんだよ」と、雑に問いかけて言葉を待つ。実は速人が神奈に声をかけることは特に珍しいことではない。むしろ一日で絡まれない日など存在しない。その用件はいつも同じである。
「この日を待っていた、勝負だ! どちらがより高い記録を出せるかなあ!」
「はぁ、そんなことだろうと思ったよ。へいへい勝負な、どうせ私が勝つけどやってやるよ」
体力測定の百メートル走の日。速人は神奈に負けてから、毎日何かしらの勝負を仕掛けている。大抵は戦闘で、一割近くが今日のような別のことだ。最初は暇つぶしの楽しみができたと考えていたが、さすがに毎日では神奈も飽きるしウザくなる。それでも負けるのは嫌なので、神奈は完膚なきまでに速人をボコボコにしている。
「ふっ、どうかな? 今回は勝たせてもらうぞ」
やけに自信満々な速人を訝し気に見ていると、神奈達の番になる。
最初の測定は握力。握力計を使用し、直立して力を込める。そうすることで握る力を測定する。
もちろんのことだが神奈は全力を出さない。計測不能になるのは目に見えているからだ。体力測定なのに計測できないなど意味が分からない。なんとか壊さないように、神奈はゆっくりと優しく握力計を握る。
「……神谷、計測不能」
(あれぇ!? うっそお……ほんのちょっと人差し指クイッてしただけなのに)
記録係の男子の言葉が信じられず、神奈は自分が持っていた握力計を二度見する。見れば針が限界まで到達し、カツンカツンと音を立てて先へ進もうとしていた。それを見た神奈は慌てて力を抜き、左手に持ち替える。
当然左手でもやったわけだが測定は出来なかった。無理もない、神奈の利き腕は右であり、力加減もそちらの方が上手である。制御が甘い左手の力は計測不能待ったなしだ。自分の化け物さ加減に呆れるしかない。
「隼、計測不能」
ふとそんな声が聞こえてきたので、神奈は速人の方に目を向ける。どういうわけか速人はニヤニヤとしながら神奈を見ていた。
(キモッ! いや違う! この勝負の狙いが分かった……成程考えたな。隼はほぼ全てを測定不能にして、私と引き分け状態をキープ。そしてどこか記録を残せるところで勝負を決めるつもりだ。それでいいのか裏社会のエリート!)
(狙いには気付かれたか? まあいい、今回は勝たせてもらうぞ!)
体力測定は続く。二番目は上体起こし。認知度が高い表し方をするならば腹筋だ。
上体起こしは二人一組でやる種目。神奈は笑里を足を支える係にして、速人は話したこともない男子と挑む。ここで交友関係が勝負なら勝てたなと、神奈は満足気な顔をして速人を見下す。
ひんやりとした床ではなく、分厚いマットを敷いてその上で上体起こしを行うことになっている。開始の笛が鳴り、三十秒の上体起こしが始まった。
何度も何度も起きて寝てを繰り返す、ただそれだけのこと。体力は身体能力と別なので普通の小学生並だが、神奈には超人のような力がある。常人が全力で走っていたとしても、神奈はそれに早歩きで追いつけるし、なんなら走行車にすら追いつける。要するに全力出して疲れるなんてことはせず、ほんのちょっとの力を入れて動けばいいだけなのだ。当然疲れもせずペースも落ちない。そもそも全力で上体起こしをしたとするなら、最初の一回で足を押さえている笑里が体育館端まで吹き飛び、床に衝撃で亀裂が走り地震すら起きる。
笛がもう一度鳴る、終了の合図だ。
一定のペースで上体起こしをし続けた神奈は、記録係でもある笑里に回数を訊ねる。
「笑里、私は何回だった?」
「八百九十五回! 神奈ちゃん残像できてたよ? 数えるのが大変だったよう……」
疲れたように笑う笑里に、神奈は申し訳ない気持ちになる。小学生女子の回数ならばせいぜい三十回いけばいい方だ。クラスメイトの三十倍近くといった数字。もしも数えるのが神奈なら途中で数えることを放棄している。
勝負中である速人の記録はどんなものか。気になった神奈は耳を澄ませると、二人の男子の会話が聞こえてきた。速人は怒鳴っていて、ペアである男子は委縮してしまっている。
「貴様ふざけるなあ! なんだ二十二回ってのは!」
「……いやだって、実際……そう見えたし」
「そんなわけがあるか! 俺が途中まで自分で数えて七百は余裕で超えていたぞ!」
体力測定での測定不能大作戦には、意外な落とし穴が存在する。
現在怒鳴られている速人のペアは悪くない。むしろ理不尽なことで怒られているので、逆に怒鳴り返してもいいくらいだ。なぜなら、そもそも見えるわけがないのだ。神奈や速人、それと笑里もだが、常人離れしすぎている。当然その動きは目で追うのも困難。ある程度の実力、優れた動体視力を持っていなければ計測など不可能なのだ。
ペアを組んだ男子には、速人の姿が扇風機の羽のようにスローで見えていた。対して笑里は全力ではないとはいえ、神奈の動きがちゃんと見えており測ることができた。要するにこれは記録係の人選ミスである。神奈は意図せずに人選で有利になっていた。
そして次の反復横跳びでも同様のことが起き、速人の記録は普通の小学生男子と同じくらいになってしまう。
続いて長座体前屈。これに関しては、先の一件で悔しそうにしていた速人が、勝ち誇った表情で神奈を見ていた。
正方形が両端に二つ。それを繋いでいる橋のような薄い段ボールが、ガムテープで付けられている。手作りの長座体前屈専用段ボールを、壁に背をつけ、上半身を折り曲げて思いっきり押すだけの種目。
出た記録は四十五センチメートル。小学生の記録としては一番上でもおかしくない。
速人は戦闘を想定した身体を作っているので、体の柔軟性を測定する種目は相性がよかった。もちろん神奈もそうなることは予想していたが予想を超えていた。
「ハッハッハ! 四十五センチ! この俺の記録、塗り替えられるものなら塗り替えてみろ! 長座体前屈の帝王はこの俺だあ!」
興奮した様子で訳の分からないことを言い放つ速人に、神奈は言い返す術を持たない。特別なことをしていない神奈は突出していない平均的記録だったのだ。およそ三十二センチ、それが神奈の記録である。
――だが今回速人にはもう一人敵が存在していた。
「秋野、四十六センチ」
「やったあ!」
「な、なん、だと……?」
両手でガッツポーズしながら笑里は跳ねて喜んでいる。そして予想外の記録に神奈と速人は驚愕した。
笑里の父親は空手家だ。そういった格闘技の才能があってもおかしくない。体の柔らかさも才能も父親譲りである。なお純粋な実力はもう超えているが。
「お、おあ……バ、バカな……」
崩れ落ち、両膝と両手を床につけて速人は落ち込む。
「やったね神奈ちゃん、これで私が長座体前屈の帝王だよ! ……ところで長座体前屈の帝王って何?」
「いや、私も知らん」
その後、館内でやることができる種目は全て終えた。神奈達は全員が外に移動する。
残りの種目は持久走、百メートル走、ボール投げ、立ち幅跳び。しかし本当のところ、百メートル走はすでにやり終えている。つまり残りは三つであるが、持久走は時間がかかるため後日ということになり、行うのはボール投げと立ち幅跳びの二つとなった。
「さあ! 一人ずつボールを投げてくれ! 先生な、昨日張り切って、校庭突き抜けて向こうの道路の先まで白線引いちゃたよ!」
「いや張り切りすぎでしょ! 消すの大変じゃない!?」
ボール投げの時間。当然ではあるが、力の制御が難しい神奈、そもそも抑えないで全力投球の笑里と速人は測定不能だ。三人の身体能力の前では白線をどこまで引こうと無駄になってしまう。二秒とかからず目視不可能の距離にまで飛んでいき、教師の頑張りも意味のないものとなってしまった。
速人と笑里は手加減しないと決めていたが、神奈は逆に抑えようとしていた。一投目は撫でるような優しさで投げ――遥か彼方に星となる。二投目はさらに手加減するため小指だけで投げ――遥か彼方に星となる。結局何をしても、神奈は常人レベルになることができなかった。
「立ち幅跳び! 先生な、ネットで業務用の百メートル測れる巻尺買っちゃったよ! ……できればメジャーが届く範囲で頼むぞ……三人とも」
最後にそう小さく呟くのが聞こえた神奈は申し訳なくなる。
勝負している場合ではない。教師があまりにも可哀そうであると思った神奈は、笑里に力を抑えるよう言ってなんとか測定不能になることを防いだ。それでも九十八メートルという相当危ない数値だったが。
そして測定は進んでいき速人の番となる。すると神奈に向かって、後出しじゃんけんのようにふざけたことを言い放つ。
「神谷神奈、今までの記録はなしだ。この立ち幅跳びで全ての決着をつける!」
「はあ!?」
そう言って跳んだ速人は――四階建て校舎の屋上まで跳び上がった。教師涙目である。
「ははははは! これで俺の勝ちだ。残念だったなあ!」
「……んな」
体育教師がもう泣き出しそうな顔で神奈を見る。
ただ、これまで散々力を抑えようとしてきたし、勝負も大して気にしていなかった神奈はここにきて心が変わる。内心教師にごめんと謝っておいた。
今日これまで神奈が体力測定の勝負を気にしなかったのは、自分が圧倒的優勢であるからというだけだ。今までの記録をなかったことにして立ち幅跳びだけで決めると速人が言ったのなら、神奈とて平均を目指して負けるのを許容したくない。
男にも、女にも、決して負けられない戦いというものがある。もしも敗北したとすれば速人は神奈に勝ち誇り、これからの学校生活でずっと見下されるだろう。そんなことを想像した神奈は腸が煮えくり返るような気持ちになる。
「ふざけんなあ! 私の勝ちに決まってるだろうが!」
叫びながら神奈は跳ぶ。グラウンドの大地が爆ぜ、教師と生徒の悲鳴が飛び交う。空気を切り裂き、高く高く、雲すら突き抜けて跳んだ神奈を見て、誰もが驚愕の表情を浮かべている。それは誰一人例外などなく速人も目を丸くする。
遥か下にいる速人の驚愕の表情を見て神奈は笑う。
(私に勝てる? 甘いね! 勝てるわけがない! 私に勝てる奴なんていたら世界は終わりだ!)
数秒の空中旅行から地上に帰還、着地する。高く跳びすぎて距離が稼げなかったが、それでも速人がいた屋上の隅程度にまで神奈は跳んだ。着地したのは危険な場所で、壁の役割をしている金網フェンスだった。着地と同時に金網は変形して潰れ、金網だけでは衝突のエネルギーを抱えきれず、校舎にも衝撃が伝わり亀裂が入る。
轟音の余韻が消失すると、神奈は振り返って勝ち誇った笑顔を浮かべる。
「この勝負、私の勝ちな」
しばらく速人は呆然としていたが、正気を取り戻すと悔しそうに顔を歪め、顔を神奈から逸らす。
風に飛ばされて消えそうな声で速人は何かを呟いた。それは突如吹いた強風により、一切の音を届かせることはなかった。




