44.80 厄狐
現在から四百年以上前。
今と比べて戦争が珍しくない時代。手のひらに乗れるほど小さな一匹の狐がいた。彼、厄狐はこの時代で妖と呼ばれる存在であり、自身がそうであると自覚していた。
妖、別名妖怪。
彼らは人間と関係を積極的に持とうとしない。人間は妖怪を怖れる傾向が強く、場合によっては武器を向けられて襲われる。
それでも関わろうとする物好きはいるが、厄狐は当然進んで関わりを持とうとしていない。
――しかし運命というのは奇妙なもので。
ある日、厄狐は怪我をしてしまった。
酷い怪我だった。歩けなくなるくらいに傷だらけの足は自然治癒だと一年かかる。厄狐自身の能力として誰かの厄を吸収することで己を強化、治癒するものがあるがそれを利用しても数日は必要だろう。
どうしたものかと山道で悩んでいると、一人の人間が通りかかる。
青のグラデーションが美しい着物を着ている、優しげな顔をした黄髪の男。彼は怪我をしている厄狐を見て「あっ」と声を上げたかと思えば、小走りで近付いてきて懐から何かを取り出す。
(やられる……!)
武器か何かかと推測し、恐怖で両目を瞑った厄狐に訪れたのは足に何かを塗られる感覚。
不思議に思って開眼してみれば、男は小瓶に入っている白いクリームを厄狐の足へと丁寧に塗っていた。
「痛かっただろう? もう大丈夫だ。これは海外の国から手に入った優秀な治療薬だからね」
説明されても厄狐はよく理解出来ない。
人間社会を避けてきたがゆえ、一部を除いて妖怪達は人間のことをよく知らない。こうして何やら道具を使われて説明されても分からないのだ。
妙なクリームを塗られて警戒心が高まる。
足を動かして距離をとって――ちょっと待て、と厄狐は思う。
動いたのだ。歩くことすら出来ない怪我を負っていたはずなのに、なぜか起き上がって後ろへ跳ぶことが出来た。
白いクリームが浸透したのか消えていき、まるで怪我などなかったかのように足が動く。その時になってようやく理解した。男は自分を助けてくれたのだと。
「お、お前……僕を助けたのか?」
「喋れるのか!? あ、もしかして噂に聞く妖ってやつか?」
そこで厄狐は焦る。
男が自分を助けたのは妖怪だと知らなかったからだ。確かに厄狐は見た目だけなら小さい狐にしか見えない。ただの狐だと勘違いしていただけなら助けたのも納得がいく。
妖怪だと知られてしまった今、男がどう行動するのかおおよそ予想がつく。
武器などを使って殺しに来るか、他の人間に知らせて襲わせるか、恐怖して脱兎の如く逃げ出すか。そんなところだろう。
「驚いたな……初めて見たよ。助けたのかだっけ? もちろん助けたに決まってるじゃないか。困っている誰かがいたら助けるのは当たり前だからね」
「こ、怖くないのか? 僕は妖怪なんだぞ?」
「怖い? いやいや、何で怖がる必要があるのさ。君は俺に何かするつもりなのかい? この俺を食らうつもりなら確かに怖がるべきだろうけどね。まだ何もしていない相手を怖がる理由なんてないよ」
考えていたどの行動も男は取らなかった。
恐怖する様子も、武器を取り出して襲う様子もない。それどころか笑いかけてくるなど完全に予想外。
(変な人間だな……)
完全ではないが気を許した厄狐。
一匹と一人の出会いから数ヵ月。彼らは一週間のうち多くて四日は会って話をしていた。他の者にばれると面倒事になる可能性があるので密会という形でだが。
晴れの日も、雨の日も、嵐のような荒れた天気の日でさえ必ず男は会いに山道へ来た。昨日は何があったなど、他愛ない話ばかりだったが人間の話を聞くのは新鮮で楽しかった。
そんな風に過ごしていた厄狐は男の様子が妙だと気付く。
藤原春雨と名乗った彼は、最初に会った頃より痩せこけてきている。元気に振る舞っているが明らかに普通ではない。
「春雨、お前は随分と痩せてきたな。人間というのは皆そうなのか? それとも、春雨だけか?」
「……ばれたか、まあ分かるだろうな。残念ながら俺だけさ。俺は病に侵されてしまってね。医者の話だともう一年も持たないらしい」
案の定、痩せてきていたのはそういった事情であった。一年など長いようで短い、あっという間に終わる時間。厄狐はまだまだ長い時間を春雨と過ごしたいと思っている。
「なら、僕が厄を吸ってやる。そうすればちょっとは長生き出来るはずだ」
厄狐は誰かの不運などを吸収することが出来る。病を完治は不可能だが、進行を遅らせることなど造作もない。
そう提案すると春雨は不安そんな顔をする。
「君に何か被害が出るんじゃないのかい」
「出ない出ない、厄を溜め込むのが僕ら厄狐なんだから。むしろ集めるのは本能なのかもしれない」
「……お願いして、いいかな」
春雨も死ぬのは嫌なんだろう。多少悩んだものの、わりとすぐ決めてくれた。
厄というのは簡単にいえば不運などのこと。それは厄狐にとって人間の食事のようなものであり、摂取しなければ死んでしまう。言わば厄を吸収するのは日常である。
――だから甘く見ていた。
特定の個人から厄を吸収するのは何ら問題ない。しかし、その個人があまりに多くの厄を持っていた場合、人間でいうところの過食にあたる。つまり想像以上に苦しかったのである。
頭痛や腹痛などに襲われたが、それでも春雨のためだからと我慢して、山道で密会する度に厄を吸収し続けた。
週に必ず三度会う春雨といえば病の進行がピタリと止まったらしい。さらに偶然思いついた道具を売り出してみると大人気商品になり、商人としてどんどん成り上がっていくという。結婚し、子供も生まれ、常に順調な日々を送れるのも厄狐が厄を吸収しているおかげだろう。
すっかり絶好調な彼のことで予想外だったのは、厄を吸収し続けたことで予想以上に長生きしたことだ。正直精々一年かそこらだと厄狐は思っていたのに、気がつけば五年以上の年月が経過していた。
「子供がもうすぐ三歳になる。まさかここまで俺が生きられるとは思ってなかったよ」
「僕も意外だったさ。それにしても気がつけばお前は伴侶を選び、子孫をも残しているな。随分と幸せな人生を生きているんじゃないか?」
「君のおかげさ。本当なら、もうとっくに死んでいる身だったんだから」
そう言いながら春雨はジッと厄狐に視線を送ってくる。
「君も、随分と様変わりしてしまったね。本当に害はないのか?」
春雨の言う通り厄狐の姿は大きく変貌していた。
人間の手のひらに乗れるくらい小さな体は今や春雨よりも大きく、色も禍々しい。どす黒いオーラを若干纏う厄狐は笑みを浮かべる。
「……ないさ。体が大きくなってむしろ嬉しいね」
「……そうか。……でも、もう止めないか」
目を丸くした厄狐が春雨へと顔を向ける。
「何を言っているんだ春雨。止めたらお前の病はまた酷くなっていくんだぞ」
「……そうだね。じゃあ、今日も頼むよ」
本当は頭痛や腹痛が今も襲っていた。おそらく春雨も詳細が分からずとも何か察しているのだろう。そうでなければ自分が死ぬと分かっていて止めようなど言わない。
厄狐は敢えて追及せず、今まで通り厄を吸収した。
厄を吸うのに特別なことは必要ない。ただ本人の意思だけで近くの者なとから吸いとれる。
「なあ厄狐」
きっちり吸収した後で春雨が改まって声を掛けてくる。
「どうした春雨」
「もう長い付き合いだし、お前には世話になっていると思う。一回くらいお前を家族に紹介したいと思うんだがどうだろうか?」
思わず厄狐の表情が曇った。
以前はただの小狐と変わらない姿であったが、今では人間より大きく、禍々しい色で邪悪なオーラを纏っている。果たしてそんな存在を敵として見ないだろうか。
春雨とは良好な仲だが他の人間とは話したことがない。どうしても他の誰かと会って話をするというのは不安であった。
「紹介、か……それは大丈夫か? 今の僕の外見は人間が受け入れるようなものじゃ……」
「俺が受け入れている。それに俺の家族は皆理解ある者達だ、きっと仲良くなれるさ」
「……そこまで言うなら、行こうじゃないか」
春雨が自信を持って大丈夫と言うなら信用するしかない。彼は「よかった」と笑って言葉を続ける。
「じゃあ三日後に俺の家に来てくれ」
不安は消えていない。しかし、同時に楽しみでもあった。
今までは春雨一人としか関わってこなかったがこれからは違う。彼の家族、そして次第に人脈の輪は広がっていくだろう。
人間と関わるのも悪くないと思っている厄狐は、そうなることを夢見ていた。他の妖怪にも伝えたかった。……人間にも良い者はいるから危険ばかりでもないのだと。
――三日後。
厄狐は不安と期待を胸に藤原家を訪れた。
商人として成功したからか立派な屋敷であった。
なるべく人目は避けてここまで来たのだが、これから接触してどうなるかを想像すると緊張してくる。
門は閉まっていたが鍵はかけられていなかったため、厄狐は勇気を出して門を前足で開けた。
春雨以外の誰かがいても話は伝わっているだろう。そう思っていた厄狐を出迎えたのは――刀を腰に下げた大勢の警官達。
「な、何だ!? 何だお前は!?」
「こいつただの動物じゃない! 妖だ!」
「みんな刀を抜け! 妖が出たぞ!」
事態を呑み込むのに厄狐は数十秒を要した。
気付けば刀を構えた警官達に囲まれて、明らかに敵意が含まれた目を向けられている。この状況が意味するのはたった一つの現実。
――藤原春雨は厄狐を裏切ったのだ。
事前に知らなければ警官がこんなに多くいるわけがない。もし妖怪がやって来ると分かっていれば、これだけの人数が配備されているのも納得がいく。
今までの厄を吸いとった恩を忘れ、自分を騙した人間に厄狐は荒れ狂うような怒りを抱く。
そして自分を嵌めた裏切り者である春雨を末代まで恨み、厄を吸収して絶頂の人生を歩んでいるところで、どん底に落としてから無惨に殺してやると決意した。
* * *
薄暗い空間内で目前の少女が告げる。
「これがお前の過去ってわけか。春雨って人が裏切った、ね」
ここは精神世界。厄狐の心の中。
空間内には映画館のようにいくつもの映像が流れている。その映像は厄狐の過去を映し出していて、当時の心情もどこかから聞こえてきていた。
「そうさ。僕は春雨を本当の友達だと思っていたのに、あいつは、人間達は妖怪である僕のことを排除しようとしたんだ。こんなの許せるわけないだろ」
「春雨がそう言ったのかよ」
言っていない。そもそもあの日、厄狐は春雨に会ってもいない。
「そ、それは……あいつはあの場にいなかった。全部警官に任せて家に引き篭っていたんだろうさ。あんな奴は臆病者だ」
「本人がお前のことを友達でも何でもなくて、妖怪だから殺したくなったとでも言ったのか。何で本人の言葉も聞かずに納得しちまってんだよお前は」
「状況がそう言っていたんだよ!」
やはり妖怪は人間と相容れない。あの時、警官達に襲われて、さらに増援としてやって来た陰陽師集団に封印されて厄狐は理解した。人間は敵、春雨も人間だから敵であっておかしくない。厄狐の能力を利用して病気を治し、用済みになったら誰かに殺させる最低の男だと認識を改めてしまった。
「友達だったら、最後まで信じぬいてやれよ! 春雨が本気で友達を殺そうとしてたなんて全部お前の勝手な想像だろうが!」
「だったらどうしてあの場に警官が多くいた!? 僕を討伐するつもりじゃないんなら、何であんなに多くの警官が春雨の家を守っていた! もし春雨が本当に真実を説明していたなら、襲われることなんてなかったはずだろう!」
「――藤原春雨はその時もう死んでいたんだよ!」
息を詰まらせたかのように「……な、に?」と厄狐の言葉はうまく出てこない。それだけ春雨が死んでいたという発言は衝撃的なものであった。
別に春雨が不死の存在だと思っていたわけではない。人間なのだから数十年、長くて百年ちょっとしか生きられないのは分かっている。しかし春雨は当時三十代前半。いくら何でも死ぬには早すぎる。
「な、何だって……?」
「何度でも真実を突きつけてやるよ。藤原春雨は、その日より前に死んだんだ! お前が家に行った時は春雨の葬式途中だったんだよ! 警官が多くいたのは警護を頼んだからだろうさ」
「そ、そんなの……それこそお前の勝手な想像だろ!」
「かもな。でも、信じてやったっていいんじゃないの? 何にも知らないで疑うってのは可哀想だろ」
あの日以降、厄狐は春雨に会っていない。
当然だ。厄狐自身は意識があっても封印されて身動き出来ず、春雨だって用済みの相手にわざわざ会いに来ないだろう。だがそれが病で死んでいたからだとすれば……もしそうなら、あの日の襲撃に春雨が関与していた可能性は――。
そこまで考えて厄狐は激しく首を横に振った。
違う、全て少女の出鱈目だと自分に言い聞かせる。
なぜ春雨が病で死ぬ? 厄を吸収したおかげで進行は止まったと春雨は言っていた。進行しない病など治ったも同然というのが厄狐の考えだ。厄の吸収以来、苦しむ素振りを見せていない男が死ぬはずもない。
「はぁ、本当はもう信じてほしかったから言う必要ないと思ってたんだけど。資料室で見つけたんだよ、藤原春雨の日記を」
少女の話に厄狐は目を丸くして「日記……?」と呟く。
「そこにはこう書かれてたよ。死が近いのを悟ったから、厄狐のことを一人にしないため家族に紹介したいってな」
「死が近い……だと? バカなっ、僕が厄を吸っていたんだぞ。病に侵されても問題なく生きられたはずだ! あいつが僕の前で苦しんだことなんてなかった!」
「そりゃそうだろうよ、春雨はお前の前で平気なフリをしていたんだ。お前に心配掛けたくなかったのさ」
単純な話。厄狐には病を治したり進行を止めるほどの力はなく、進行を遅らせる程度しか出来ていなかったのである。厄狐自身も最初はそんな認識だったが、平気そうな春雨を見る度に病が治ったと思い込んでしまった。
厄狐が苦しんでいたことも、病の魔の手がゆっくりとはいえ体を蝕んでいることも、全て理解していた春雨は厄狐の前では元気な自分を演じていたのである。
しかし己の体調などから死期が近いことを悟ってしまい、厄狐に厄の吸収を止めないかと提案した。断られて、もう無意味だと気付いていながら吸収を強引には止めなかった。理由を聞かれては傷付けずに答えるのが難しいと思ったからだろう。
そうしてそれから家族に話そうとして、話す前に亡くなってしまった。ゆえに家族や関係者には伝わらず、葬式の日に配備させた警官と鉢合わせて戦闘になったという流れが出来上がる。
――全ての流れを厄狐は理解してしまった。
「何だ……僕のやったことは無意味だったのか?」
「いいや、そんなことないさ。お前が春雨を延命させてくれたから藤原の血は現代まで途切れなかった。家族を作れたし、お前との時間も増えたじゃないか。……それに日記の最後にな、感謝の言葉が綴られていたよ。もしお前がいなければ家族も出来ず、早くに病で死むつまらない人生だった。――ありがとう、だってさ」
決して厄狐のやってきたことは無意味ではなかった。
たった一人しかいない人間の友人が感謝してくれたのだから。その血と遺伝子を次世代へ繋ぐことが出来たのだから。
「そうか……あいつ、そんなことを思っていたのか。僕だって楽しい時間をくれたことに感謝してたってのに。ありがとうは……こっちの台詞だっての」
藤原春雨は裏切っていない。今では証拠となるものなど出て来ないだろうが、厄狐はなぜか少女の言葉を信じられた。
藤原春雨は紛れもなく、かけがえのない大切な友人だったのだ。
「人間、僕は愚かだった。お前の言う通りだ。友達本人に確かめるべきだったよ。そうすればきっと、今までの恨みや憎しみなんて抱く必要なかったんだから」
自分の中で膨れていた恨みなどの負の感情が抜けていく。感覚的には浄化されるという方が正しいかもしれない。
見るのも嫌だったどす黒いオーラは段々薄れていき、重くて不便だと思っていた大きな体は縮んでいく。春雨に出会った頃の、人間の手のひらサイズへと戻った。禍々しい色や模様も完全に消えて今ではただの子狐だ。
「お前にも礼を言う。――気付かせてくれてありがとう」
陽光が差し込んだかのように、薄暗かった精神世界が明るくなる中。恩人である少女へ向けて厄狐は小さく口角を上げた。




