44.73 性癖で迷惑をかけてはいけない
海に浮かぶ神奈は「しかし……」と呟き、ご機嫌で泳いでいる泉を眺める。
泉沙羅は泳ぐことが出来なかった。どこぞの海に嫌われる果実でも食ったのかとつっこむくらいに泳げなかった。そんな彼女の指導を斎藤へ押しつけ……ではなく任せた結果は成功だった。
今、泉は仰向けで水面に浮かび、綺麗な円を描くように両腕を動かして海を進んでいる。つまり、彼女が習得した水泳方法というのは背泳ぎである。
「まさか背泳ぎとはな」
「腕の力が強いことを活かしたんでしょう。そもそも少し前の泉さんの泳ぎ方では進めるものも進めなかったでしょうが。斎藤さんに感謝した方がいいかもしれませんね」
右手首についている白黒の腕輪が解説したので納得し、神奈は功労者である斎藤に目を移す。
普段狐の耳のようになっている狐色の髪は濡れたことでストレートになっており、一瞬誰か分からないモブのような彼は悟りを開いたかのような表情で泉を見ている。
「何であんな修行終えた僧侶みたいな顔してんのあいつ」
「さあ、そこまでは……」
万能と自分を評す腕輪にも分からないらしい。
不思議そうな顔をする神奈だが、その背後で突然「獲ったどおおお!」と叫んで水中から飛び出した夢咲に「うおっ!?」と驚愕する。
「大漁大漁! 夜は豪勢な魚介料理が待っている!」
「そりゃ凄い。それで? 何が獲れたって?」
問いかける神奈に「ふっふっふ」と笑った夢咲は捕獲したものを見せつける。
「てれててってれー。ウツボおおお」
「ウツボ!?」
「てれててってれー。タラバガニいいい」
「タラバガニ!?」
「てれててってれー。何か変な魚あああ」
最後に見せつけられたのは黄色い魚。
新種かと疑うような魚だが、記憶に引っかかった気がした神奈は「去年見たかも!?」と叫んだ。
「いやここらの海域ほんとどうなってんの!? 昼もウニだのアワビだの食べたけど、いくらなんでもおかしすぎない!?」
あまりのおかしさに叫ぶ神奈へ才華が近付く。
「うーん、藤原家の土地ではこれが普通なんだけど」
「普通の概念が壊れる……!」
尚、藤原家の土地に面する海が特殊なだけである。これが普通と言われては他が可哀想になってしまう。しかしそんな土地を普通と言い張る才華はしまいにこんなことを言いだした。
「使用人の話では巨大なイカがいたなんて話もあるわよ。何でも体長二十メートルを超える巨大イカだったとか」
いくら何でもそれはないだろうと思い神奈は笑い飛ばす。
「あはははは、そんなのいるわけないって」
イカなんて精々大きくて二メートル程度だろう。一般的なサイズは一メートルもないというのに、いったいどこにそんな巨大なイカが存在しているというのか。
ボケかホラだと思い込む神奈が笑っていると、夢咲が震えた声を出しながら神奈達の後方へ人差し指を向ける。
「……いや……いるんだけど」
神奈と才華が「え?」と振り返る。
後ろには海が広がっているだけのはずだ。先程まで異常などなかった静かな海にそんな怪物がいるなど誰が信じられようか。……だが現実が非情なのは誰もが生涯の内に経験すること。後方へ顔を向けてみればそこには海の怪物がしっかり存在していた。
横幅、推定十メートル。縦幅、推定二十メートル以上。
長い十本の腕も、その上にある外套膜も、その上にある菱形のヒレも体に比例して太い。丸々と太ったようにすら見えるそのイカの存在感は街に出現した怪獣か何かのようだ。
「えええええええええええ!? イカでっかああ!?」
泉は泳ぐのを止め、斎藤も泉を眺めるのを止め、霧雨もパソコンから視線を巨大イカに移している。そんな中、巨大イカのことを唯一知っていた腕輪が説明する。
「あれは巨大イカですね。神奈さんが去年出会った巨大蟻と同じようなものです」
「何でイカだけ日本語!? もう巨大烏賊とかでよくない!?」
ただただ巨大なイカが神奈達を観察している。
状況は硬直状態。このまま何もせず去ってくれるのが一番なんだけど、と神奈が内心願うように思っていると腕の一本がザバッと水中から勢いよく上げられた。
「うわあああああああああああ!」
――その上げられた腕には笑里が捕まっていた。
太い腕が右足に巻きついており、宙吊りになっている笑里は叫び声を上げる。左足はだらんと下がって意図せず開脚状態になる彼女はなぜか笑顔である。
「何笑ってんだお前!?」
「あっ、神奈ちゃーん! 何かでっかいイカが遊んでくれてるんだあ。結構面白いよお!」
「遊びってか思いっきり捕獲されてるだけじゃん! 見てるこっちがハラハラするからさっさと抜け出せ!」
笑里は「うーん」と唸りながら空中にもかかわらず上体を起こし、背中を曲げてから両手でイカの腕を押してみたがびくともしない。危機感を持っていない彼女はあっさり諦める。
「がっしり掴まれてて抜けないよー」
「よくそんな状況で笑えてんなお前!? もうちょっと危機感持って!?」
「ええ? 大丈夫大丈夫、そんなに悪いイカさんじゃ――」
巨大イカを擁護しようとした笑里だが何かを言い終える前に、勢いよく振られた腕から解放されて海面へと叩きつけられた。
高くまで水飛沫が上がった後で、神奈の視界には目を回している笑里が水面に浮かんでいるのが映る。
「笑里いいいいいいいいい! 思いっきり悪いイカじゃねえかああ!」
「どうやら気に入らなかったようですね」
「ああ!? 何、気に入らなかったってどういうこと!」
「巨大イカはショタコン。つまり少年好きであり、裸の少年を撫で回してから食べるのが大好きなのです」
「性癖の業が深い!」
少年ではなく少女だから笑里は投げ捨てられたらしい。
案の定というべきか危険生物だったわけだが、危ないのは戦闘力だけではなく性癖もであった。かつてない変態に出会ってしまった神奈は戦慄する。
「神奈さん、私は笑里さんを回収してくるわ。夢咲さんは獲った魚とかを離さないように陸へ避難して」
「魚そんな重要か……?」
捕獲した魚達を失いたくはないため夢咲は「分かった」と頷き、砂浜へと泳ぎ出す。ただ避難してという指示だけなら神奈も疑問視しなかったのだがこればかりは仕方ない。どの道、取った獲物を逃しそうになったら夢咲は自身より優先するだろう。
そんなこんなで夢咲は避難。才華も笑里を担いで避難していく。
神奈は二人が避難し終わるまで自分が何をすべきか考えていた。幸いなことに巨大イカは動きや思考がそこまで速くないため、未だ少年二人を捕捉出来ずに辺りを見渡している。こんなアホらしい敵に本気を出すのもバカらしいのだが色んな意味で危険なのも事実。結局戦う以外の選択肢はないだろうと拳を握る。
「あっ、斎藤さんが」
ようやく巨大イカが斎藤を見つけたのか腕を伸ばす。
このまま被害を出すわけにはいかないので、神奈は「ちっ、させるか!」と泳いで接近しようとする。しかしクロールで距離を詰めていく途中で「足攣ったああああ!」と叫んで動きが止まった。
「ちょっと神奈さん何してるんですか!」
「しょうがないだろ足攣っちゃったんだから泳げないっての!」
斎藤の「うわああああああああああ!?」という悲鳴が響く。
腕輪に叫んでいた神奈が視線を向け直すと、巨大イカの腕に両足が捕まった斎藤が宙吊り状態になっていた。彼なら究極魔法があるから大丈夫……だったら最初から捕まっていない。残念ながら濡れるのを避けたかったため魔導書は別荘の中である。
「た、助けてええ! 誰かあああ!」
その悲鳴を聞いた砂浜にいる者達の中に颯爽と助けられる者はいない。
「魚を見張ってないと……」
「くっ、俺にはさっき壊れたアサリ発見機を投げるくらいしか……。すまない、インドア派なのを許してくれ」
「軟体生物だったっか、な? ちょっと苦手な、の」
「一流の漁師に連絡しましょう。おそらく、たぶん大丈夫だと思うわ。数十人がモリで攻撃すれば何とか仕留められるはず」
唯一颯爽と助けられるはずの神奈は足を攣った痛みで泳げない。
「斎藤くーん! そのイカは男の子を裸にして撫で回してから食うのが大好きなんだってさあ! なんとか持ち堪えてくれええ!」
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああ! ほんと、ほんっとに誰か助けてええええええええええええええええええええ!?」
必死の度合いが違いすぎる声量で救助要請をする斎藤。しかしそんな彼に更なる悲劇が襲い掛かる。
唐突に巨大イカが液体を吐き出したのだ。通常のイカなら墨なのだろうが、彼にかけられた液体は黒ではなく透明でしかもぬるぬるしていた。明らかに墨ではない別の何かだ。
「何だ……? 今何かかけられたよな?」
「マズいですよ神奈さん。あれは――」
透明な液体を吹きかけられた斎藤に変化が起きる。いや、正確には斎藤自身ではなく下半身に纏っていた水着にだが。
ピチッとしている男性用水着が徐々に溶けだし、最終的には水着一枚のみが完全に消失してしまった。
「衣服のみを溶かす液体です!」
「何そのエロ漫画に高確率で登場しそうな能力!?」
用途がもはやエロ目的しか思いつかない効果の液体だ。そしてもっと厄介なのが浴びせられた本人が今の状態に気付いていないことである。
不幸中の幸いというべきか、砂浜にいる才華達には背が向けられているので尻しか見えていない。まあ神奈は側面にいるので見えてしまっているのだが、一応前世で見慣れていることもあり狼狽えるようなことはない。これが才華達であればとんでもないことになっていただろう。
いつまでも気付いていないのでは、解決した後に気付いてからの精神的ショックが大きい。さすがに可哀想だと思った神奈は素直に教えてあげることにした。
「斎藤くーん! 股間丸見えだぞおお!」
「嘘!? あ、ああ……もう……意味分かんないよ」
羞恥だとか絶望だとかは表れない。代わりに斎藤に生まれたのは無。
心を空っぽにすることで放心して現実をスルーし続ける高等テクニックだ。
「神奈さん〈フライ〉ですよ〈フライ〉! 飛行魔法!」
「えっ、あっ、ああ! 何で私今まで思いつかなかったんだ!」
腕輪に言われて神奈は解決策を思いついた。
実は最初から知識にあったはずなのに、カオスな状況のせいで思考が乱れていたせいで思い出せなかったのである。状況を打破する方法が分かったのならもう後は早い。
神奈は「フライ」と呟くと水中から空中へと浮き上がる。
足は未だに攣ったままだが全身を魔力で動かす飛行魔法なら問題ない。巨大イカまで一直線に飛んで行き、勢いそのままに頭部へ蹴りを叩き込んだ。
「おおおお! 足が攣ったままキイイイイック!」
秘技、足が攣ったままキックを喰らった巨大イカは大きくよろめく。
想像以上のダメージだったようで、斎藤を思わず放した巨大イカは十本ある腕のうち二本で頭部を押さえる。そして実力差を思い知ったのか海中へと潜って姿を消した。
「ふうぅ、一件落着だな」
「……いやあ、それは……どうですかね」
「どういう意味だよ……って、あ、そういう感じの問題か」
腕輪の意味深な答えの意味に神奈は気付く。
確かに敵は倒したがまだ問題は残っているのだ。被害者はどこだどこだと神奈が捜していると、此度の被害者である斎藤が砂浜へ移動していた。
「ああ、もう、災難だったなあ。泉さん、ちょっと邪魔が入っちゃったけどまた背泳ぎの練習しようか。もうだいぶいい感じだったし最終確認みたいなものでさ」
気絶している笑里はいいが目の当たりにした四人は違う。
才華は気まずそうに視線を逸らし、夢咲は軽く開いた口を両手で押さえつつガン見しており、霧雨は取り出したスマホで録画を開始して、泉は真顔で顔を見続ける。各々違う行動をした理由は当然――斎藤が全裸であったから。
返答を待つ斎藤に届いたのは「へんた、い」という罵倒であった。
「……ん? あ……あ……わ……忘れてた」
ゆっくり己の体を見下ろした斎藤は全てを悟り表情が虚無になる。
その日、一人の少年の精神が一時的に死んだ。




