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8、夜のとばりをおろすのは③


 カミルは宿泊施設に借りた部屋で、先ほどユリアに髪飾りのお礼として買ってもらった、ワインの小さなボトルを早々に空にしたところである。寝台のヘッドボードに背中を預けて、香りや味や程よい酩酊感に集中するように目を閉じた。



 流石に喋り過ぎた、という自覚はあった。まだ若いのに、自分の母親に恩返しがしたいのだと健気な事を言っていたユリアが、馬鹿な自分と似たような失敗を繰り返す事なく、幸せに穏やかに暮らしていて欲しい。それは子供の頃からの願い事の中で、まだこの先どうなって行くのか、どう転ぶのか想像がしにくい話だった。

 

 自分の実家に関しては父がいて兄がいて、今の本家の当主やその妻から気に入られているようなので、余程の事がなければしばらくは安泰であると楽観視していた。自分の方はこれまで通り、与えられた場所と仕事をこなしていくだけの生活に戻るだけだ。


 それは悲しいわけでもなく、自分の見通しが甘かっただけの話である。思えば母親を困らせてばかりの子供だったし、兄と父はそんなカミルの事をいつも心配していた。他の子が受からなかった学校に合格して、自分は出来の良い子供かもしれないと錯覚しただけで、実際のところはそうではなかった。


 ユリアの前で、彼女が反応に困るような話までしてしまったのは、まだ子供だった頃にあれこれと使いどころの難しい知識を得意になってに披露していた頃の感覚がまだ抜けないのかもしれない。


「職場のお土産に買って帰ろうかな。それとも、……追加で買って飲むか」


 お酒というのは、嫌な事を忘れるために丁度いいのだと、これは確か親戚の誰かが言っていたような気がする。それなのにやはり思考は同じ事をぐるぐると、もうどうしようもない手遅れだと、自分に言い聞かせるのは何回目だろうか、とカミルはため息をついた。




「お客様、お休みのところを申し訳ありません」


 そこへ、外から部屋の扉が軽くノックされた。カミルの借りた宿泊所は軍の割引が効くのと、一階が食堂を兼任していて食事の心配をしなくて済むという理由で選んでいた。泊り客は事前に取り決めた所定の時間に降りて行き、食事をとる仕組みである。部屋に備え付けの時計を見る限りは、まだ余裕はあるはずだった。


「はい、何か」 

「お客様の知り合いだとおっしゃる方が外にお見えですが……」

 

 扉を開くとカミルや、下手をするとユリアより若い、従業員の見習いと言った雰囲気の初々しい少年が立っていた。どんな相手なのか聞いてみると、大人しそうな女性の二人連れだと返答した。泊まっていないと誤魔化す事も可能ですけど、と彼はカミルの顔に若干、野次馬根性の見え隠れする視線を送って来た。


「……」

 

 カミルが階段を降りて下へ行き、賑わう食堂をよそに窓の外へ目をやると、やはり推測通りの相手と完全に目が合う。慌てて外へ出ると、やや思い詰めた表情のユリアがいた。後ろから付いて来た若い従業員はトラブルの気配を察してか、そそくさと中へ戻って行った。もっと偉い立場の人間を連れて来るためかもしれない。


「まだ、時間は大丈夫ですよね」


 急いでやって来たのかユリアは少々息を整えつつ、寒いせいか頬を赤く上気させながら言う。後ろの少し離れた場所に、イサベルもいるのが見えた。ユリアの母親から受け継いだ鳶色の髪を、カミルがさっき贈ったばかりの髪留めが飾っている。静かな森の奥のような緑を称える瞳にちらりと昔のおまじないを、そしていつもとは違う雰囲気を感じ取った。


「いやちょっと……。お酒飲んじゃったから」


 軍関係者が安く使える宿泊施設に未婚の一般女性を連れ込むのは色々まずい、とカミルは一応説明する。当たり前の話をしているのに何故か後ろ暗い言い訳をしているような感覚である。ユリアはわかっています、と短く返答して、カミルに持っていた布の袋を押し付けた。










 カミルは上着を羽織っただけの簡単な恰好で、お酒でも口にしたのか微かに顔が赤い。それから、さっき別れたばかりのユリアが再度尋ねてきた理由にも心当たりがないようで、目を瞬いている。


 ユリアも、わざわざ宿まで押しかけて自分は一体何をしているんだろう、と思わなくもない。やっぱり何でもないです、と誤魔化して逃げ帰りたい気持ちを横に追いやって、カミルに持って来た荷物を押し付けた。


「……カミルさんが貸してくれたあの本。面白かったから自分で欲しくて、集めているんです。まだ六巻までですけど」


 ユリアは当惑しているカミルを見上げた。陽の暮れた屋外にいるので、表紙や題字までは見えないかもしれない、と説明する。子供の頃に大好きだった物語で、まだエイレム一家に預けられていた頃にカミルの部屋から借りてずっと読み進めていた。働き始めて少し自由なお金が手に入るようになった時に、足は自然と街の書店へと向かっていたのだ。


 あの本はユリアにとって、子供の頃の幸せな思い出の象徴だった。


「お給金から生活費と貯金を引いた残りで、半年に一冊ずつしか買えないけど、ちゃんと最終巻まで集めるつもり。カミルさんに、貸して差し上げます。……返却は、返却はエイレム一家の誰かに手渡しする以外は受け付けません」


 カミルはユリアが中身を明かしたので、袋に入っている本をわざわざ確認したりはしなかった。ただ黙って、こちらを見下ろしている。どこか冷ややかにも見える眼差しにも、負けるものかともう一度本を押し付けた。


「これで帰って来られるでしょう。何日、何か月かかっても、気にしませんから」


 忙しいかもしれないけど、と言葉を続ける。家はもう居場所がないと諦めるのに、どれほど寂しい思いをしたのか、帰りたかったのか、ユリアにはきっとわかりはしない。彼が家族と離れて一人きりでいる頃、自分は親切なエイレム一家に囲まれて、イサベルは必ず約束通りに会いに来てくれた。


 しかし、もし余計なお世話だと振り払われても、伝えなければいけない話があった。ユリアはエイレム一家の居候に過ぎなかったが、それでもカミルの代わりにその場にいたのだから。


「私は、カミルさんが帰って来るのが楽しみでした。それはエイレムの家の人達も一緒で、それは嘘じゃないの。風邪引いてないか、友達はできただろうかって、夕食の度にみんなで心配していたのも本当。寂しいね、いないとつまらないね、っていつも言ってて。おじさんが、それをカミルが聞いたら学校に帰りにくくなるからって、内緒にしていましたけど」


 カミルが、ユリアに本を押し付けられているのではなく、受け取ったのを確認して手を離した。それから、と今までとは別の意味で手先が震えるのを感じる。


「それから、私は昼間に、まるで自分が母親想いの優しい娘であるような言い方をしました。でもそれは理由の半分とか、それよりちょっと多いくらいの割合で実際は、本当は、カミルお兄ちゃんが」


 ちゃんとイサベルには相談した方がいい、と真剣にユリアの幸福を願って助言をしてくれたカミルである。だから、本当の事を白状しなければならない。言葉にしなければ伝わらない、と教えてくれたのだから。


「カミルさんの事がずっと好きでした。初めて会った時からずっと明るくて優しくて、本当は寂しがりやな貴方の幸せを、私もずっと祈っています」









「え? ねえ、もう終わりなのユリア?」 


 ユリアはお返事もらってないじゃない、とまだ困惑している母親を引きずって帰り道を急いだ。後ろでカミル君またいつでも遊びに来てね、とイサベルの申し訳なさそうな声がした。カミルは寒いのか顔を赤くしながらありがとう、とぼそぼそ呟いているのだけが聞こえた。


「お酒飲んでいたし、あの格好じゃ風邪引いちゃうし、もういいの。この話はお終い。だけど、お母さんにはまだちゃんと言う事があるから、後でご飯食べながら聞いてね」



 街はこれから夜を迎えて、仕事を終えた人々が往来を行き交い、酒場へ繰り出したり、家路を急いだりと賑やかだった。ユリアが初恋の相手に想いを伝えた事も、大勢の人々の営みの前ではほんの些細な出来事に過ぎない。


 いつかカミルも、あんな事を考えていた時期もあったのだと、穏やかに懐かしむような日が訪れるのを、ユリアには祈る事しかできないのだった。


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