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6、夜のとばりをおろすのは①

 

 ユリアは、仕事があっても休みの日でも、起きる時間に変更はない。一階のパン屋からは夜明け前から作業の音が聞こえて来るので、それで早く目が覚めるのだ。バターをたっぷり使った生地の焼ける香ばしい匂いが、二階にまでかすかに漂って来ている。


 ベッドから抜け出して暖炉に火を入れ、昨日カミルが持って来たリンゴを一つ剥き二つ剥き、朝食代わりの分は塩水を汲んだボウルに入れた。これから調理する分は、てきぱきと砂糖やワインと一緒に弱火にかけてから外へ出て、まだ夜の明けきらない薄暗い街の通りを横目に、まだ球根を植えたばかりの鉢植えに水をあげた。これはエイレム一家に無事に嫁入りした友人、モニカが分けてくれた物で、色は春に咲くまでのお楽しみ、という品種らしい。



「ああ、ごめんねユリア。後はお母さんがやるから」

「いいよ、お母さんはせっかくの休みだから、ゆっくりしてて」


 朝の弱いイサベルがよろよろと起きて来る頃にはすっかり陽も出て、部屋中に階下に負けないくらい、リンゴの美味しそうな匂いがしている。お皿におすそ分けをよそって持って行くと、お返しとばかりにパン屋からも焼きたてをもらってしまったので、それを二人で座って頂いた。



 家事は協力して、という取り決めだが、ユリアの方がエイレムの家で基本を教えてもらう時間がたっぷりあったので、腕前には自信がある。なるべく請け負って、母親に楽をさせてあげたいと思っていた。


 お父さんにもあげるね、と言うのでユリアはイサベルが、窓際の日当たりの良いところに飾ってある小さな四角い額縁の前に、何か話し掛けながら甘く煮たリンゴとパンを供えるのを眺めた。卓上に置ける小さな額縁には、古い肖像画が入っている。ユリアそっくりの若い頃の母の横に、見るからに生真面目な雰囲気の男性が、やや緊張した面持ちで描かれていた。


 彼がユリアの父親だが、随分前に亡くなってしまっている。忙しい仕事の合間に随分遊んでくれたそうだが、それも記憶にないのは我ながら薄情な娘かもしれない。美味しく作れたから許してね、とユリアも母親の隣に並んで手を合わせ、心の中で謝罪しておいた。



 さて、休みのうちに、じっくりとやってしまいたい掃除や家事があったのだが、カミルと出かけるという、急な予定が入ってしまったので致し方ない。せっせと洗濯を終わらせたが、今頃になって雲が出てきたので、部屋の中に干すしかなさそうだった。


「ユリア、そろそろ支度した方が良いんじゃない?」

「……まだ大丈夫だと思うけど」

「だめ。準備し過ぎて悪い事なんてないんだから、後はお母さんにやらせて」

 

  


 ユリアはイサベルに押し切られ、壁の時計を睨みつつも出かける準備を始める事にした。ユリアは積極的に話の輪には加わらないが、街で暮らしていれば自然と、若い男女がどこで遊ぶのかは情報が入って来る。一日退屈しない程度であれば、多分案内できるだろう。


 カミルの暇つぶしに付き合うだけだから、と何度か心の中で呟く。昨日だって普通に楽しく話せたじゃないか、と思い返しながら、仕事先で安く手に入れた、よそ行きの服を一揃い身に着けた。仕立ての良いブラウスとモスグリーンのスカートの上からコートを羽織る。

 

 どうかな、と朝食の残りのパンを齧っている母親に確認すると、完璧、すごくかわいいと親の欲目が隠しきれていない感想が飛んで来たので、恥ずかしくなって足早に退散した。ちょうどお昼前で、混雑しているパン屋の裏口から外へ出ると、やはり曇り空である。陽が出ていないので、日中とはいえやはり寒い日だった。



 約束の時間より少し早めに待ち合わせの場所へ行くと、先にカミルが噴水に腰かけて待っているのが見えた。近くにいるユリアより少し年下らしい少女の集団が、彼にちらちらと視線を投げかけながら、抑えめの黄色いささやきを交しているので少々気まずい。そちらの声や視線をあまり気にしないようにしながら、目当ての人物に声を掛けた。


「やあユリア。今日は急なお誘いでごめんね」

「いえ、まあ、家に居るだけですからね」


 カミルの服装は、軍の支給品と思われる渋いデザインの防寒具一式で、しかしカミルのきらきらとした金の色の髪や華やかな容姿がかえって引き立つようだった。どこへ行こうか、という問いかけには、寒いからとりあえずどこかへ入ろう、という意見で一致して、歩き出す。


  

「ルーチェがさ、髪飾りを買って欲しいって頼んできたんだけど、若い子の趣味はよくわからないから手伝って欲しいな」


 ユリアが子供の頃に遊び相手を務めていたルーチェは今、カミルの母親のアリサが通っていた寄宿舎学校に通っていた。お嬢様が多く通う学校なので、気が合う人がいないかもしれない、と本人はあまり乗り気ではなかったようだが、どうにか過ごしているようだ。たまに、ユリア宛で手紙が送られてくる。窓には鉄格子が嵌っているらしい。


 二人は細工物の工房が立ち並ぶ一画を目指して歩いていた。あそこの一帯には屋根がついているので、万が一天気が崩れても、歩き回るのに支障がない。


「お、ユリアちゃんじゃないか」

「あ、こんにちは」


 往来を歩いていた二人は、本屋の主人がちょうどお客を見送ったところに行き会った。ユリアと、横にいるカミルとをしげしげと見比べて、今日はご入用じゃなさそうですね、と会釈と共に店の奥へと戻って行った。


「いつもはどんな本読むの?」

「……秘密」

「恋愛小説とかかな」

「……そういう事にしておいてください。女の子同士でたまに貸し借りはしますけどね、恋愛小説。雑誌とかも」


 カミルなら見当がつくかと思いきや、心当たりはないようだ。もう何年も前の事なので当たり前か、とそれ以上話題になる事もなく、二人は街を歩いた。


「ユリアは、母さん達と一緒に刺繍やっているイメージだったな。ハンカチをくれた事があったよね、テントウムシがくっついていたやつ」


 そう、ユリアが初めて完成させたハンカチは今思うと拙い出来なのだが、カミルはお世辞込みとはいえ大袈裟に喜んでくれたのをよく覚えている。

 

「……昨日のお店と、他に手伝いで入っているのもほとんど服のお店なんです。それはアリサさんの影響が強いですね、やっぱり」


母親のイサベルの収入が安定して、一緒に暮らせるようになったのはユリアが十二歳くらいになった時の事だった。預けられていた間にたくさん教えてもらえたので裁縫が好きになり、炊事や洗濯の家事を覚えておく事ができたので、エイレムの家での生活には感謝している。



「そういえばユリアは、お昼ご飯は食べた?」

「……リンゴをつまみながら洗濯をしていたので、正直あんまりお腹が空いていなくて」


 そんなやり取りをした後で二人が向かったのは、お洒落なカフェである。食事でもお茶でも、どちらの要件にも対応できるという評判だった。平日なためか、あまり混んではいなかった。すんなりと窓際の席へと案内される。

 

「……こういう場所はいつも行かないの?」

「お母さんが一緒だと、もう少し落ち着いた場所で飲むので。それか、家ですませてしまうから」


 カミルが開いたお品書きを覗き込むと、若い女性が連れ立って出かける場所なので、少々値が張るメニューである。これなら家でお茶を淹れた方が安上がりだ。働いているお店の常連さんにお茶の葉を扱うお店の人がいて、安く購入させてもらえるのである。


 サイドメニューの小さなサラダに至るまでお上品な名前の書かれたメニューを眺めて、カミルが渋い顔をしている。


「ユリア、どれが美味しそうかわかる?」

「いや、私も初めて来たので」

「……この中で一番食べ応えのある甘い物を下さい」

「……店員さん笑ってたよ」


 いくらも待たずに、カミルの要望通りの数人がかりで食べる用のデザートが運ばれて来た。色とりどりのフルーツとミルクアイス、それからたまご色のスポンジケーキが塔の形に綺麗に盛り付けられている。


「ユリア、好きなのとって」

「……ありがとうございます。イチゴがおいしそう」


 一番目立つ位置のイチゴをもらおうかと試しに呟いてみると、カミルのしまった、という面白い顔が見られたので、結局その下のケーキとホイップクリームに狙いを定めた。


「こういうのって、果物を先に食べた方が美味しいよね、なんとなくもったいないけど」

「……口直しに、飲み物を挟んだら良いじゃないですか」

「ユリアはコーヒー飲めるの?」

「ここはコーヒーが美味しいって聞いたので。ちゃんと飲めます」

「……そうなんだ」


 カミルは小さい頃は兄と、美味しい物は奪い合いの勢いで食べていたそうなので、好きな物は先に食べてしまう人間らしい。実はコーヒーは苦手なのだそうだ。ユリアはルーチェと半分こ、が基本だったので最後まで残しておく習慣がついている。


 ユリアの方はもらったケーキ部分を食べながらコーヒーを一口飲んで、なるほど、勧めて来るだけのことはあるな、と思う。酸味が控えめなので飲みやすかった。物足りない人もいるのかもしれないが。


「カミルさんこそ、こういうお店に女の子と行ったりするんでしょう?」


 新しい勤務地は王都だと聞いているので、ここよりずっと人も多く栄えている場所だ。流行が作られる場所でもある。ユリアの仕事している服飾店の主人も、わざわざ服の傾向を偵察に向かうくらいだ。


「それがさっぱりなんだよね、そういう雰囲気の職場じゃない。上司の人が真面目だからかな」

 

 嘘だ、とユリアは渋い顔でコーヒーを飲んでいるカミルを見たが、冗談を言っている雰囲気ではない。カミルが本気を出せば、こんなところでユリアにカフェを御馳走している場合ではないような気がするのだが。


「軍は女性が限られた部署にしかいないから、そもそも出会いがないんだよ。完全に男が余っている。そこに女性を紹介する職業があれば儲かるかもしれない」

「……アリサさんが嘆きそう」

「そうなんだよ、結婚はどうするんだ良いお嬢さんはいないのかって、ちょっとうるさくてさ」


 心配しているんですよ、とフォローしておいたが、根本的に信用されていないって事だとカミルは苦笑している。あの子はおそらく将来性のある息子だから、良い家に婿にもらってもらえたら、と彼の母親は刺繍をしながら、そんな話をしていた。


「……分家の下っ端じゃなくて、もし本家に養子に入ったら、うちの娘と結婚させてやるって言って来たおじさんがいてさ、少し前だけど」

「……初耳なんですけど」


 しかしユリアがその先を訊ねる前に、怖いから断った、とカミルが返答した。なので結局、彼が将来どうするのかという疑問が解消される事はなかった。


「ユリアはどうなのさ。もし次に帰って来たら、ユリアに男の人を紹介されたりして」

「……それは、多分ないです」 


 どうして、とカミルがデザートの塊から顔を上げた。そんなに怪訝そうな顔をしなくてもいいのに、と思いながらコーヒーに口をつけて、ケーキを摘んでようやく、ユリアは先を続けた。


「私の母が父と、……結局は駆け落ちのような形で家を出て行ったって、……知っていましたか?」

「なんとなく、昔聞いた事があるような気がする」


 イサベルは、現在は生まれた頃から平民であるかのような顔で暮らしているが、元々は貴族のお嬢様だったそうだ。父も似たような育ちで、二人は子供の頃から婚約者同士で仲良くしていたものの、イサベルの実家の資金繰りが苦しくなり婚約解消されてしまったのを良しとせず、二人は家を捨ててしまったらしい。そして、ユリアが生まれたものの、父は不慣れな仕事に加えて心労が祟ったのか、病をこじらせて亡くなってしまった。


「お母さん、本当は家に戻れたかもしれなかったんですって。ただし、私はどこかへ捨てて来いって言われたみたいだけど」

「……」


 ユリアの好きだった児童書の冒頭は、教会の前に置き去りしていた一人の赤子から始まる。ユリアもあの主人公と同じように、家族の顔を知らないまま育った可能性もあったのに、イサベルはなるべく自分の手で育てる決意を捨てなかった。


「それでも、私のお母さんでいてくれたから。ちゃんと会いに帰って来てくれたし。その分を返せた、と思うまでは、私は頑張って仕事優先でお金を貯めて、それが夢なの。見通しが甘いって言われるかもしれないけど」


 早く結婚して、という事をイサベルは言わない。もう少し別の親戚の人達と繋がりがあれば、急かす人も出てくるかもしれないが、ユリアとイサベル親子にはいない。その代わりに父親、という家族において重要な人間が欠けたままでもある。その役割は、もう大人になったユリアも埋めて行かなければならない。


 エイレム一家のように主がきちんとしている上、跡継ぎのアレックスがちゃんと控えているような環境が羨ましくないと言えば嘘になる。ユリアとイサベルには頼れる親戚はおらず、二人で生きていくしかない。


「仕事もようやく安定してきて、今はすごく楽しいから、……そういう、結婚とかはとりあえずはいいかなって」

「……なるほどね、やっぱりしっかりしているよね」


 今まで誰にもちゃんと話した事はなかったが、カミルが肯定してくれると、とりあえずほっとした。


「他の人には言わないで、心配するってわかっているから」

「うん、言わない。……ただ、心配はするのがわかっているなら、ユリアなら大丈夫だろう」


 そんな事を話している間に、いつの間にかユリアのカップも、カミルの頼んだ巨大なデザートも空になっている。店は午後の繁盛する時間帯になってきたようで、席も埋まって来たため、二人は会計を済ませて外へ出た。



「……この辺に割引の効く店があるって聞いたんだけど」


 二人はカミルの妹への手土産を買うために、通りのあちこちに点在している細工物の店を何軒か見て回った。軍に所属していると安くしてもらえる店があるとの事だが、なかなか見つからなかった。店先に並べてある商品も幾つか手に取ってみたが、ぴんと来る物もないらしい。



 最後に訪れたのは一番隅にあったお店だが、入ってみるとどうやら、カミルの探していた店だったようだ。奥もカウンターの横に、ユリアもどこか別の店で目にした事がある印が掲げられていた。これがある店では、軍関係者は安く買い物ができる。


「……ルーチェ本人の中身はともかく、お淑やかに見えそうな髪飾りがあるといいけど」

「人の目があるところではちゃんとしてるって、手紙には書いてありましたよ」


 どうだかな、などと妹の心配をしているらしいカミルは、奥にいた女性店員に軽く会釈をしつつ、落ち着いたデザインのバレッタを手に取り始めた。最終的には、黒を基調に、銀のバラの花が品よく配置されている物が気に入ったようだ。



 カミルは満足そうにしばらく眺めてから、さて、とユリアに向き直った。


「ユリアにも一つ進呈するよ、今日のお礼だから。そういう約束だったよね」

「え、私は……」


 ユリアが止める間もなく、カミルは並んでる一つ一つを手にとっては、こちらと自分の手元を見比べて、先ほどより一層、真剣に悩み始めた。


「好きな色は」

「……あまり濃い色でなければ」


 流行はなんですか、とカミルが店員に尋ねた。紫、という返答はたまたまなのか、虹の一つの色と一緒だ。これは、とカミルが手に取ったのは濃淡の違う二つの紫と、それから淡い黄色のガラスがバランス良く配置されている。まるで、野原で小さな花束を作ったかのように可愛らしい。


「……すごくかわいいですね。でも、私には……」

「でしたら付けて差し上げて下さい、きっとお似合いですよ。……まず右の金具を挟んで外して」


 冷やかしではないと判断したのか、意外と近くまで様子を窺いに来ていたらしい店員が、ユリアの傍にあった鏡を案内した。適当なところで躱すつもりだったのに、まんまと逃げ道を塞がれてしまったようだ。

 仕方なく試しだけなら、とその髪飾りを受け取ろうとしたが、その前にカミルがさりげなくユリアの肩を抱いて、鏡がよく見える位置に立たせた。


 それがあまりに自然な動作なので、ユリアはとっさに立ち止まる事もできなかった。


「……頭皮にぐさっとなったらすまない。何せはじめてやるから」

「そんな人は聞いた事がありませんよ、……流石に」


 そんな風に触られた事が今までなかったため、ユリアの声は後半に至ってはぼそぼそと小さくなって、カミルには聞こえたかどうかもわからない。彼は真剣に髪飾りと表情でにらみ合いをしてようやく仕組みがわかったようで、ぱちん、と金具を外した。


 それから、いつもの調子にそぐわないこわごわとした手つきで、ユリアの髪に触れた。ユリアが自分の背後を、鏡を通してじっと見つめているのにも気が付かないらしい。


「最近は斜めに留めるのが流行なんですよ、……そう、その調子です」


 口を挟みつつも手は出さないらしい店員に見守られながら、カミルの実際に奮闘した時間は短かった。小気味よい、金具がきちんと嵌った音がしたが、肩を抱かれたままなので、突っ立っている事しかできない。カミルの手は髪留めに添えられたままで、おそらくユリアにしか聞こえない近い位置から、囁くような祈りの言葉を聞いた。


「……ユリアの夢と幸せが、叶いますように」


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