5、賑やかな街の夕暮れ
「……ありがとうございました」
ユリアは服飾店の入り口で、仕立ての終わった商品を受け取った客が、通りの向こうへ歩き去るまでを見送った。店の主人が不在だったのだが、商品の受け取りだけなので助かった。そんな事を考えながらドアベルの軽やかな音色を鳴らして中へ戻ると、たまたま奥に設置してある鏡の中の自分と目が合う。母親譲りの鳶色の髪と暗緑色の瞳の色は、街で一番お洒落な店の制服姿のおかげか、少しばかり明るく見えた。
ユリアは今年で十七になり、王都のすぐ近くにある街の服飾店で働いていた。店内の掃除や接客の補助等の雑務をこなしつつ、主な仕事は売り上げの集計等の経理作業である。この調子であと三軒、同じ仕事を掛け持ちして収入を得ていた。母親のイサベルと合わせれば、親子二人慎ましく暮らせるだけの額にはなっている。
「ただいま、何か変わりはあったかしら?」
「おかえりなさい。いえ、受け取りだけでしたので」
奥へ戻って請求書の類をまとめていると、店の女主人が戻って来た。黒髪の、三十前半の洒落た雰囲気の女性である。もし明日、急に意中のお相手と会う事になったとして、この店に駆け込めばとりあえず服装に関しては心配ご無用。そんな評判が立つほど、特に若い層に男女問わず人気がある。
「そう、じゃあ今日はもう終わりかしらね。そろそろ春の新作の支度が始まるから、また手伝ってもらう事も多くなると思うけど、よろしくね」
外の扉を一旦開けて店じまい、という札を掲げ、女主人は壁の時計を見ながら今後の計画をさらりと説明した。はい、とユリアも頷いて見せる。冬はあっという間に日が暮れて、店の外は徐々に暗くなりつつあった。服飾店は特に季節の先取りが早く、春先は外出が増えて稼ぎ時でもあるので、重要な時期となる。
「あーあ、とりあえずあの灰色のコートを、来年用とでも言い包めて買ってもらわないと。ユリア、どこかにあれが似合いそうな紳士の知り合いはいない?」
「……あの上着ですか」
女主人が言うのは、秋口からずっとショーウインドウにある男物の上着の事だ。それとなく勧めてはいるのだが、あんなに気取ったデザインは似合わないと辞退されてしまう。試着すらされた事はない。
「いない事もないんですが、……忙しい方なので、ここへ連れて来られないでしょう。おそらく」
ユリアは冗談めかして笑って見せたものの、女主人の反応は想像と少し違った。内緒にするから続けて、とカウンター越しに興味津々な目で見つめられても困ってしまう。
「……母親同士が知り合いなんです。子供の頃は天使みたいだって有名で、……今はそこまで親交があるわけじゃないんですよ」
「え、でもだってユリアの口から男性の話題が出るなんて、今までなかったじゃない?」
これは嵌められたな、とユリアは少しばかり口の軽さを苦々しく思いながら、どこまで話をするべきか悩む。この店を含め、働いている同年代の少女達からその手の話題を振られたり、一緒にパーティに行かないかと誘われても、一切断っていた。そんな事にうつつを抜かすより親子二人、この先暮らしていくだけの金策の方がずっと大切だ。
しかしどうしても、みんなして各々の恋愛事情の情報を共有したくて仕方がないらしい。誰もかっこいいと思った事がないなんて嘘でしょう、と詰め寄られるのもいい加減辟易しつつあったのだ。今のところ結婚に興味がない、ときっぱり否定してみたものの、あまり効果は芳しくない。
「ユリアが初めてのデートへ行く時の、服の見立ては必ず相談してよ。ちゃんと季節ごとのお洒落はしっかり案があるんだから」
「……季節ごとですか」
頭の中がどうなっているのやら、とユリアは感心するやら呆れるやらである。往来ですれ違う女の子達に、こんな服が似合うに違いないだろう、と服を見繕っていると豪語する位なので、良い意味で完全な職業病と言える。この女主人は信頼できるとしても、話が広がってからかわれるのが居心地が悪いだろうな、とやはり気は進まない。
「大体ね、事情はともかくその若さで『結婚はするつもりない』なんて吹聴する事ないじゃない。いつか良い人が現れるかも、というか……。もしかしてその母親同士のお知り合いの方、というのが本命なのかしら」
「……黙秘でお願いします。内緒にして置いて下さい、本当に」
もうそれでいいや、とユリアは頬が赤くなるのを自覚しつつ、投げやりな結論を出した。あながち的外れ、というわけでもない。ユリアの中での一番格好いい男性というのは、あのカミル以降、誰も更新されていないのである。
「……すみません」
店の入り口から声がして、近い場所に移動していたユリアは反射的に振り返って、聞き覚えのある声に固まった。噂をすれば影、という子供の頃に、他ならぬ彼自身に教えてもらった昔のことわざを思い出す。
「か、カミルさん?」
「やあ、ユリア」
久しぶりに顔を合わせる相手は、相変わらず佇んでいるだけで、その場が一気に明るくなったような華やかさである。店内を興味深そうに一瞥し、埃除けの布巾の下からは何故だか籠いっぱいにリンゴが入っていた。埃除けに被せられた布巾に、エイレムのおば様ことアリサか末娘のルーチェ、もしくはモニカの仕事と思われる可愛い刺繍が施されている。その隙間から覗く、目を引く独特の赤色に、今度は子供の頃のおまじないが頭を過った。
「あら、もしかしてカミルさん!?」
「……こんばんは」
どうして名乗る前からわかるのか、等の余計な質問はせずに、カミルは愛想よく女主人に挨拶をした。いきなり姿を現した美形を目の前に、目を輝かせる女主人の頭の中では、カミルは既に着せ替え人形にされているに違いない。
「母さんが、リンゴがたくさんあるから届けて来いって、使い走り」
「……ユリア、今日はもう良いから上がって、カミルさんに送ってもらいなさいよ。後の片づけはやっておくから。今日はありがとうね」
にこにこと、何やら含みのある女主人に見送られ、ユリアの一日の仕事は唐突に終わった。
「……収穫祭が終わってさ、みんなで交代で休みをとっているところ。新人だからこんな時期まで延ばされて、やれやれだよ」
「お祭り中はどんな仕事をしたんですか? やっぱり警備?」
「それは別の部署が担当。田舎の偉い人が出て来るから、その対応で忙しかったんだ」
収穫祭が終わったのは秋のはじめで、今は既に冬の半ばなのだが、それだけ忙しいという事なのだろう。前に会ったのが、一年近く前の話である。さっきのやり取りの直後に二人きり、というのはなかなか複雑な心境だった。会うのが久しぶりで、お互いの近況を報告しあうだけで話題が途切れないのはありがたいが。
まさか、話は聞こえていませんように、と祈るしかない。扉は閉まっていたが、ユリアがカミルに好意を抱いていたのを、カミル自身は知らないはずだ。何せ、家にほとんどいなかったのだから。
「でも、何か話をしている最中だったみたいだけど」
「大した話じゃないですよ」
「……それにしてもあんなに小さかったユリアが、こんなに大きくなって。もう働いているとはね」
ちなみにあんなに、とは豆粒を指で挟んだ程度の大きさに開いている。完全にふざけているらしい。しみじみとした口調の小芝居に付き合いながら、二人は往来を歩いた。夕暮れの街は家路を急ぐ人で混雑している。
しかし、カミルがさりげなく人とぶつからないような配慮をしてくれているらしいので、いつもより楽に歩く事ができた。それから一旦は受け取ったリンゴの籠も、重いから家まで持って行くよと再び手に持ってしまった。彼はすれ違う、主に女性からの視線を浴びているが、あまり気にしていない様子である。
カミルはあの、倍率の高い優秀な学校を卒業して、今は王都の配属になったらしい。主な仕事は政府と軍の折衝、とユリアには何をするのかもよくわからない。監査と予算取りの時に大活躍、と言われて何となくわかった。
「あのお店も明日から数日は休業なんです。最新の流行を仕入れに行くんですって」
「お店をやるのも楽じゃないね」
ユリアはカミルに、イサベルとは先に仕事が終われそうな方が買い物を担当する決まりになっている事を伝えた。今日のような、お互い仕事のある日は食事を簡単に済ませ、そうではない日には凝った料理に挑戦するのだ。
結局リンゴは店を出る前に女主人にも少し分けて、それから親子で間借りしているパン屋にも分ける事にした。そうでないと、親子二人ではとても食べきれない。生で食べる他、ジャムやアップルパイ、ワインで甘く煮こんで、と休みの合間に作る事になるだろう。
「いいな、作るなら味見させて。職場にそんな洒落た物出て来ないんだよね、男ばっかりで。基本的に質より量の面もあるしさ」
「残念だけど作り方はエイレムのおうちに暮らしている時に、アリサおば様達から教えてもらったの。だから味は一緒」
モニカとルーチェの三人娘で、アリサとエイレム一家の乳母から家事仕事の多くを習った。なかなか筋が良いと褒めてくれただけの事はあって、元々はそこそこのお嬢様だったらしいイサベルより得意である。
「下のお店、パン屋なのか。朝起きたらすぐお腹が空きそう。あ、……イサベルさんも全然昔と変わらないな」
ちょうどタイミングよく、通りの向こうからイサベルが歩いて来るところだった。ユリアが誰かと連れ立っているのに気が付いて目を丸くした後、カミルだと知って表情がぱっと明るくなった。
「あら、カミル君。おひさしぶり。立派になっちゃって」
「イサベルさんも、お元気そうですね」
半ば強引にイサベルがカミルを引き止めて、結局夕食に招く事になった。三人は二階へ上がって各々荷物を下ろし、手持ち無沙汰らしいカミルに、来客用のお皿を渡して並べてもらって準備に取り掛かる。と言っても一階のパン屋の惣菜の残りを鍋で温めただけの簡単な食卓だ。親子は二階を間借りしていて、この家の幼い子供に読み書きを教える代わりに、家賃を安くしてもらったり、店の残り物を分けてもらえるのである。イサベルは台所の棚からワインボトルを取り出してきて、気前よく開けた。
「……兄の結婚式の時には随分と手を貸して頂いたと聞いて。そのお礼も言わなければと、と思っていたところです」
開始早々にカミルが頭を下げたので、二人は慌てて制止するところから食事が始まった。すっかり仲良くなったモニカは無事にエイレム一家に嫁ぎ、ユリアとイサベルも、その時だけはお休みをもらって結婚式の準備に参加した。天気も良く、花嫁本人が大好きな花と素敵な衣装に囲まれた素敵な式だった。
そのエイレム一家にとっては重要な行事において、本来ならば主役の弟であるカミルは残念な事に、隣国で研修を兼ねた視察があると不在だった。カミルが欠席という事に関しては、モニカとアレックスが向こうの親族達に上手に説明したらしく、悪く言われるような事はなかった。むしろ、あちらにも何名かいた軍属の方達が口を揃えて擁護に回ったので、かえって株は上がっているのだ。
そんな話を、カミルはワインを傾けながらじっと聞いていた。仕方ない事情があったとは言え、仲の良い兄の大事な式に出られなかったのは複雑な思いがあるのだろう。
「でも、じゃあカミル君が王都にいるという事は、少しは落ち着いた職場に入れたという事? アリサも喜ぶでしょうね」
「いや、もう兄貴が結婚して落ち着いたので、次男は家を出るだけですよ」
少ししんみりとした雰囲気を察したのか、イサベルが話題を変えた。これが美味しいわ、とグラタンを二人に勧めてきた。
世の中には、家の財産を継ぐのは長男、という厳しいルールがある。カミルの言う通り、次男以下は商人や軍で地位を作らなければならず、女性も嫁ぎ先を早めに見つけなければならない。
カミルの同級生の、本家の三男坊は堅実に家格の釣り合った相手の家に婿入りする予定だと侯爵夫人が言っていた。他にも、あの優秀な学校に通った事で良い話を持って来てもらえた例が他にも幾つもあるらしい。カミルもそのうちに、とアリサが期待と寂しさ半分と言った様子で話していたのを覚えている。
「ユリアはね、アリサがやっている刺繍の会で作った小物もお店に置かせてもらって売っているのよね」
「……あのお店に来る人はそもそもお洒落な物を求めているから、財布の紐が緩くて良いの」
「ユリアが有能な商人みたいな事を言い出したんだけど」
何が可笑しいのか、少ししんみりとした様子だったカミルはひとしきり笑ってから、もっと詳しくと先を促した。
「刺繍の会の主催の当主夫人がね、せっかくだから作った物を無料で寄付だけじゃなくて、買ってもらって収入にできないかって、言い出して」
ユリアはアリサを通して、刺繍の会のお上品な奥様、お嬢様方に、自分達が欲しいと思えるような小物を作って、とお願いしてあった。元々が裕福な階級の女性達が質の良い品物を丁寧に作るので、それはそれは素敵な商品ができ上がるのだ。
仕事場である洋品店のカウンターに並べて、利益の一部はユリアの懐にも入っている。会計の合間に、これがおそらくは一点物で明日あるかどうかわからない、上品な貴族女性達が作っているので品質は保証できるとか、それとなく褒めている間に、一つ二つ買ってもらえるのである。
今、ユリアが任されているのは市場調査の段階なので、利益が出る判断されて本腰が入れられれば出る幕ではなくなるが、今のところは細々と、しかし確実な収入源として重宝している。
「つまりは会の営業担当なわけだ、すごいね」
「そうそう、そんな感じ」
カミルが褒めてくれたので、ユリアも良い気分でパンを齧る。いつまで休みなの、とイサベルがカミルに尋ねると、今日を含めて三日間という返事があった。
「そう言えば、ユリアも休みって言っていたよね。なら付き合ってよ。一人でふらふらするのも寂しいからさ。好きな物をお兄ちゃんが買ってあげる」
昔と同じくらい当たり前のように誘われると、明日はお休みと言ってしまった手前もあって断れる雰囲気でもなく、ユリアは了承した。食卓を片づけた後、カミルは宿をとってあるから、と一旦引き上げて行った。明日の正午に集合ね、と玄関先で約束をした。
「ねえ、ユリアって小さい頃、カミル君の事好きだったんでしょう」
階段を上って戻って来て、就寝のための準備をしていると、お酒が入って既に眠たそうなイサベルが言ったので、ユリアは思わず返事に詰まった。
母親は、ユリアが周囲に結婚しないと吹聴しているのは、流石に知らないはずだ。一般論としては早めに結婚して安定した暮らしを、と望まれている事はわかるので、どう返答したものかわからない。
「さすが趣味が良いわ。その感覚は大事よ、すごく」
何か言われるのではないか、とユリアが身構えるよりも早く、イサベルはそう笑って、着替えてくると部屋を出て行った。