3、楽しいお出かけ①
昼食が終わってエイレム家の末娘がお昼寝を始めると、ユリアは夕食の支度が始まるまで自由時間だ。母親のイサベルが近くの大きな街の商会で働いている間、末娘の遊び相手を兼ねてこの家に預けられていた。収入が安定して親子で暮らせるようになるまでの特別な措置と聞いていたので、あまり寂しいとは思っていない。月末の休みの一日をユリアのために必ず使っていてくれたし、エイレムの家の人達は皆、とても親切だったからだ。
それでも、早く母親と一緒に暮らせるようになりたいものである。任された仕事をがんばれるのも、その訓練だと思えば少しも大変ではなかった。
それでも、どうしても寂しい時はこっそり、エイレムの家の裏手にある木立へ行く。そこには木々の緑と、小さな可愛らしい色とりどりの花が咲いていた。ユリアはそこで、教えてもらったおまじないの七色を探すのである。他にも見つけたお花を刺繍の図案に取り入れたり、押し花の材料として採集したりして、気持ちを紛らわせるのだ。
「早く、月の終わりが来たらいいのに」
母親を困らせるような事を言ってはいけないけれど、誰も聞いていない時なら大丈夫、と遠くに学校に通っているカミルが慰めてくれた。ユリアの呟いた声は、木々の奥へ消えて、他の人達に届く事は無い。
カミルも学校の授業が大変で、彼もなかなかこの家には帰ってくる事ができない。それでもここへ来ると、日が暮れるまで気晴らしの散歩に付き合ってくれた時の、優しい声を思い出せる。
夜のとばり、と空の境界線の名前を教えてくれた。あれが下りたら美味しいご飯を食べてベッドに入って、明日はきっと良い日なのだと。
「カミルさんは学校にいる時、寂しくないの?」
「……どうかな」
カミルお兄ちゃん、ともう少し小さい頃は呼んでいたのだが、ちょっと子供っぽいな、と思ってさん付けに変えた。そのカミルが綺麗な花が咲いているよ、と教えてくれたので、ユリアの問いかけは有耶無耶になってしまっていた。そんなやり取りを思い出す事も、ここへ足を運ぶ理由なのだ。
さて、この家で乳母として働いているマルチナは横でうとうとと目を閉じ、今日はエイレムのおば様こと、アリサは外出している。父方本家の当主夫人に、アリサが責任者を務めている刺繍の会の活動報告や今後の方針を相談しに行くらしい。趣味が高じたのと、息子同士が学校の同級生という縁で、慈善活動の一角を任される立場になっていた。主に、裁縫で作った服や生活用品を孤児院や救貧院に寄付するのである。刺繍の会は領地内の裕福な女性を中心に、年々活動の幅を広げていた。
子供達の衣服だけでなく、部屋のカーテンやベッドカバーが綺麗な物に変わると、施設の雰囲気も良くなる、と評判が良いのだそうだ。
ユリアは末娘のルーチェが寝たふりではなく、ちゃんと寝息をたてているのを確認してから、その場を離れた。そうでもしないとお目付け役の目を盗んで、また木の上に登ったりしかねない。そのお転婆ぶりは一体誰に似たのやら、と毎回アリサが嘆いている。カミルの関与が真っ先に疑われたが、不在の時間が長すぎるため、おそらく無関係だろうという結論が出されたのは最近になってからだ。
そのルーチェはどうやら今日に限っては午前中に庭を走り回って満足したのか、ぐっすり寝ているらしい。アリサや彼女の兄弟によく似たきらきらした髪をそっと撫でてから、彼女を起こさないように部屋を抜け出した。意識して階段を静かに上がりつつ、しかし足取りはいつもより軽くて、思わず鼻歌まで口ずさんでしまいそうだ。女性陣の寝室から読み終わった児童書を抱えて、目的の一室へ向かう。
ユリアは二階にあるカミルの部屋の前で主がいてもいなくても、ノックしてから足を踏み入れる。一度エイレム家の長兄、アレックスに見られてからかわれたが、一応の礼儀として続けていた。不在の場合でも許可は取ってあるので、本棚へ読み終わった本を戻し、代わりに次の巻をもらって、少しずつ読み進めるのだ。
「……どうぞ」
しかし今日に限っては、いつもと同じ合図に、部屋の中から返事があった。ユリアは咳払いして、失礼しますと礼儀正しく扉を開けた。部屋の中には、九ヶ月ぶりに家に戻って来たカミルがいた。今回の帰省も突然で、下の息子が戻って来るというのに、何の準備もしていなかった、と当たり前だがエイレムのおば様は文句を言っていた。好物を沢山作ってやれたのに、と今日もあまり虫の居所がよろしくないまま出かけて行った。
カミルの説明によればどんな状況でも対応できるように、訓練の日程や内容はぎりぎりまで知らされず、また毎年内容も変わるのだと言う。聞いている分には理不尽だと思いつつも、しかし国内で一番頭の良い学校と言われているだけの事はあるのかもしれない。
そのカミルは勉強机の椅子に座って、何やら書き物の誤字脱字の直しをしているらしい。ユリアが初めて会った時にはまるで王子様か天使様みたいに整った顔立ちは齢を重ねるとともに、女性なら誰にでも異口同音に、随分な美形だと称されている。
「お、かなり進んだね」
「うん、すごく良いところなの。ワクワクしちゃう」
カミルは、ユリアが本棚から十二の番号が振られた一冊を抜き出すのを横目に見ながら言った。この児童書のシリーズは全部で二十巻あって、彼の学校の合格祝いに大叔父が購入してくれたらしい。出生の秘密を知る物語で、事情を知っている老人を無理やり連れ去った海賊船を追いかけるところで、続きは次巻である。
「読書に精を出すという事は、今日の刺繍の会は休み?」
「そうなの。ここで読んでもいい?」
「いいよ、椅子に座りなよ」
カミルはベッドに移動して、課題の文書を学校へ戻って提出するためか、バッグに入っていた分厚い本に挟んで戻した。
「カミルさん、学校の勉強は大変?」
「楽しいよ。退屈しないからね」
ユリアにとって、同じ年頃の少年たちが集まっての集団生活、というのは経験がないので想像がつかない。わいわい賑やかなのかと思いきや、聞くところによると規律の非常に厳しい学校らしい。
「でも、気の合わない人とかいないの? 部屋割りは強制なんでしょう」
「……そこは、上手くやるんだよ」
カミルはウインクしてみせた。いちいち格好いい少年である。女の子のいる学校だったら、みんなこのハンサムな少年に夢中になっていたに違いない。ユリアが今読み進めている本にも、そんな展開があった。女の子ばかりの国に変装して潜入するのだが立ち振る舞いまでは誤魔化せずに、結局正体が露見してしまうのである。捕まった牢屋で兄や仲間達に冗談交じりに責められるシーンのやり取りが面白くて、お気に入りの場面の一つだった。
「ユリアは何か、浮かない顔だね」
「……モニカが来るでしょ」
「ああ、兄貴の婚約者ね。僕も初めて会うから、なんか緊張する。どんな子? でもまだ十歳かそこらだろう?」
「いつもお洒落な女の子だよ」
モニカはユリアの一つ上で、何か月か前から頻繁にこの家に出入りするようになった。実家は商会を経営していて、貴族とも取引のある規模の大きな商会である。なんでも彼女の親御さんの方針で、早いうちから嫁ぎ先に慣れさせるのと、後は刺繍の会への参加である。
「……刺繍の図案を勝手に決められたり、ちょっと苦手なの」
まだ嫌い、まではいかない。このエイレムの家にお世話になっている以上は上手に付き合っていかなければならないし、いまいち距離感がつかめてないと言った方が正しい。それでも何となく後ろめたくて、思わず声が小さくなってしまった。
きっとここまでは来ないだろうから、明日もここで本を読んでいようかな、と思う。刺繍も別に、ユリアのような子供は強制参加ではない。母親のイサベルに定期的に送っている手紙には、あまり心配させたくはないので、無難な事を書いておいた。
「よし、じゃあ明日の作戦会議を始めよう」
「作戦?」
ユリアの反応を待たずに、カミルは机の引き出しから取り出した、チェスの駒を盤上に並べ始めた。この家で一番偉いのがお父さん、それからお母さん、と続く、これが兄さんで妹のルーチェ、と白い駒を並べ始めた。遊び方をまだ知らないので、王冠や馬などの形をしたのが横に四つ揃うのを眺めた。これがユリアね、と十字架のついた駒が追加された。
「カミルさんはどこ?」
「ああ、忘れてた。僕は普段いないから」
カミルは何でも無さそうに、たくさんあるうちから丸い駒を一つ追加した。
「で、この子がモニカで、兄貴の婚約者だね」
カミルが選び出したのはユリアと同じ十字架を掲げた、黒い駒である。意図しているのかどうか定かではないが、何だか仲間外れのような気がした。
「おそらく彼女は親御さんに、相手の家ではお行儀の良いお嬢さんとして振る舞いなさい、と言われて来ているんだろう。で、この家には婚約者の両親と妹がいて。まあ、弟は寮に入っているからしばらくは気にしなくていい」
遠方に出ているという表現のためか、カミルは自分の駒を遠くに離して設置した。本来の遊び方も相まって、黒い駒を迎え撃つのは白の五つ、という構図ができ上がる。
「まあ誰が悪いかと言えば、兄さんだよな」
「そうかな?」
「そうだよ、この家の将来を背負っているのに、適切な管理をせずにこの体たらく。そして、モニカ嬢は混乱している。ユリアとどう接したらいいのか、わからないわけだ。要するに、困っているんだよ」
そうかな、とユリアはもう一度呟いた。モニカはしっかり者の気質らしく、ユリアにも年長者としてあれこれ指示してくる。それを、困っているかもしれないと、と考えた事はなかった。確かにユリアはエイレム家の居候だが使用人というよりは子供の一人に近い扱いで、外からすればややこしい立場である。
「じゃあ、もっと優しくしてくれたらいいのに。カミルさんみたいに」
「それは確かに。年上だからね。ただ、彼女が今まで周囲の人間とどんな風に関わって来たのかも、よくわからないし」
もしかしたら意地悪な上の子がいて、小さくなって過ごしているかもしれない。要領の良い下の子がいて、いつも損な思いをしているかもしれない。はたまた一人っ子で、そもそも兄弟姉妹の付き合い方をよくわかっていないかもしれない。そんな風に、カミルが様々な可能性を挙げた。
「じゃあ、もし私は……」
ユリアは自分の白い駒を、モニカとの駒と隣に並べた。本来のルールは無視して、色は違っても同じ駒が近い場所にあると、本来のルールとは別で、何だか仲間同士のようにも見えた。
翌日の九時過ぎ、ユリアが玄関の支柱にもたれて待っていると、彼女を乗せた馬車が到着した。カミルさんのアドバイス通り、と軽く深呼吸して、モニカが門をくぐって芝生を歩いて来るまでの間に取り決めた内容を暗唱した。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
やって来た相手は、待ち構えるようにしていたユリアに面食らっている。いつも出迎えをするわけではないので、当たり前かもしれない。彼女はよく手入れされていると一目でわかる黒髪を綺麗に結い上げおり、いつも通りのお洒落な恰好でやって来た。針仕事に詳しいアリサが言うには、かなり気合が入っているとの事だ。青い花の髪飾りをしているのを、虹の色の一つ、と何となく幸先の良さを感じながら、ユリアは挨拶をした。
「ちょっと、相談に乗って欲しくて」
「う、うん……?」
「この間は上手に説明できなかったんだけど」
ユリアは居間まで彼女を引っ張って行き、奥にいるアリサや乳母達に挨拶をしているのを聞きながら、机の上に準備しておいた、分厚い刺繍の図案の本をぱらぱらとめくって、ある一ページを開いた。
「ユリア、何を見ているの? あ、モニカさんこんにちは!」
奥から、いつもよりおめかししたこの一家の末娘のルーチェがやって来て、モニカの横から本を覗き込む。
「この、テントウムシの図案を刺繍して、カミルさんにあげたいなって。まだ始めたばっかりだから、上手にいかないんだけど」
ユリアは、テントウムシが菜の花畑にたくさんいる、という春らしい明るい図案を見せた。しかしモニカは女の子は虫の図案は避けるべきだし、流行に乗り遅れるから他のをやった方がいい、と前回少しばかり言い争いになったのである。好きなのを作れば良い、とアリサが仲裁に入ったが、向こうはそれ以降一言も口を聞かなかったし、ユリアもどうすればいいのかよくわからなかったのである。
「カミルさんて、弟さん?」
「そう」
「私ね、カミルさんとダンスを踊った事があるの」
「えっ」
こうやって、とユリアは立ち上がって優雅に一回転してみせた。素敵、とルーチェが上手に合いの手を入れて来る。
「て、手を繋いで?」
「うん、すごく良かった」
「……」
とは言え、ユリアにとっては大切だとしても、他愛のない思い出話なのである。だから何、と一笑されてると思いきや、モニカはこちらの想像以上に愕然としている。私はいつも子供扱いなのに、と小声で呟いているのは、上手に聞き取れなかった。
「こんにちは、モニカ嬢。はじめまして、カミルです」
「……こ、こんにちは」
「話に聞いていたよりずっと可愛らしいお嬢さんじゃないか、ねえ兄さん」
呆然としていたモニカは、示し合わせたようなタイミングで二階からやって来たカミルの登場に目を瞬いている。次男の後ろから、いつもよりやや仏頂面のアレックスも姿を見せた。この兄弟はよく似ているが、物静かなタイプの長兄に対し、次兄は華があって賑やかな気性である。服が可愛い、髪飾りが似合っているとカミルが自然な口調で褒めていると、モニカは顔を真っ赤にして俯いた。そこへ、ごん、と鈍い音が響いた。アレックスが弟の後頭部に拳骨を落としたのだ。理由はよくわからない。
「あ、アレックスさん……」
「今日はうるさいのがいるけど、気にしなくていいよ」
モニカはやって来た自分の婚約者に対して何か期待するような眼差しを向けたが、彼は素っ気ない返事を残して、さっさと外へ出て行ってしまう。
「今日は街に出掛けようと思って。もちろん、モニカ嬢も来るだろう? 兄さんもルーチェもユリアも行くから」
「え、ええ。アレックスさんがいらっしゃるなら」
頭の後ろを抑えながら、カミルがモニカやルーチェからは見えない角度で、ユリアにウインクしてみせた。今のところ計画に変更はないらしい。
行先は、この家の近くにある観光地と保養地を兼ねたほどよく賑わいのある街だ。ユリアの母親も働いている場所なので親子二人、月に一度会える日はそこで遊んで過ごす事も多い。
準備ができたら来てね、とカミルも先に外へ出て行った。
「……モニカ、大丈夫?」
一応、ユリアとルーチェは出かける準備は既にできている。しかし急に外出の予定を告げられた彼女はその場に突っ立ったまま動こうとしないので、ユリアは心配になって覗き込んだ。
「違うの、声がそっくりだから、ちょっとびっくりしただけ!」
「あ、わかる。お兄ちゃん達って声が同じだから、ルーチェもよくからかわれるんだ」
耳まで真っ赤になりながら、誰に向かって言い訳をしているのかよくわからないモニカの動揺は、のんきに相槌を打つ小さなルーチェには伝わらなかったらしい。早く行こうと急かされた。
そう言えばユリアも一度、カミルの部屋をノックした時に、中から不在のはずのカミルの声でどうぞ、と言われてびっくりしたらアレックスだったという話は、今は黙っておく事にした。私にはあんまり話もしてくれないのに、と増々こじれかねない。
女の子達三人が揃って家の外に出ると、カミルが門の入り口では微妙に不貞腐れた様子の長兄を馬車に押し込んでいるのが見えた。モニカとルーチェを先に入らせた後、外に残ったカミルとユリアは小声でよしよしと言葉を交わし、意気揚々と出発した。