*8* 騎士に必要なもの。
予定よりもかなり遅く王都の屋敷に戻ったオレは、馬を馬丁に預けて旅衣も脱がずにそのままアリスの働く店に向かったが、着いた時にはすでにその姿がなく『アリスならさっき仕事を上がったところだよ』と聞かされた。
店主はさらに『本当はもっと早く上がることになってたんだが……誰か待ってる風だったから、アンタを待ってたんだろう。お互い最近見なかったけど、喧嘩かい?』と苦笑する。その思いがけない言葉にオレは短く礼を述べ、慌てて店を飛び出した。
アリスがオレを待ってくれていた。こんな深夜まで、今夜中に戻るとも知れないオレを。
これは少しくらい期待しても良いってことなのか? しかし湧き上がる喜びと共に不安も膨らむ。
この辺りは酒場街だ。店同士が目を光らせて自警団を持っている場所も多いが、中には度の過ぎた飲み方をした酔っ払いもいる。アリスみてぇな可愛い娘がそんな中で一人歩きして絡まれたりしたら大変だと、いつもの道を探したもののその姿は見つからなかった。
――何となく嫌な予感じがした。
店主は“さっき”と言ったのだ。
もしもアリスが走って帰ったのならこの通りに姿がないのは分かる。けれど深夜と言ってもそれなりに人のいる通りの中を、酔っ払いを避けて走るとは考えにくい。
それに帰りの道はここだけじゃねぇ。人目が少なくて危ないが、アリスの家の道に早く出られる路地がある。巡回の途中で偶然見つけた道だが、案外使い勝手が良いし、オレは男だから結構良く使う。
恐らく下町育ちのアリスなら職場の最短ルートを探しただろうから、きっとあの道も見つけているだろう。けど賢いアリスなら、あの道が夜間に使うことに適さないくらい分かるはずだ。
ただ、帰りが遅くなった女が急いで帰るとしたなら――?
それにここ最近オレと帰ることに慣れたアリスが、以前まで持っていた警戒心を少しでも引き下げていたらどうだ――?
その中で最悪の想定が頭を過ぎった瞬間、背中に冷たいものが流れた。オレはその感覚から少しでも遠ざかろうと、地面を蹴って路地に駆け出す。
お袋の上着がガチャガチャと身体に負荷をかけるから捨てていこうかと思ったが、只でさえ重くて脱ぐのにも手間取る。それならそのまま着込んで若干体力が減った方がまだマシだ。
この通りは店からアリスの家まで遠回りのルート。オレが少しでもアリスと長くいたいからと“人通りがあって安全”だと思い込ませた結果が、あの路地を選ばせた一端になったとしたら死んでも自分が許せねぇ。
頭の中で通りから路地までの最短ルートを割り出し、路地から路地へと直走る。すると不意にあの甘い残り香を鼻先に感じて、やっぱりこの道を通ったのかという焦りと、残り香がまだ香る距離にいることに安堵を感じた。
――――……悲鳴が聞こえたのは、その直後のことだった。
女の悲鳴に差があるとは思えない。どっちにしても助けるからだ。けどその悲鳴が自分の名前を呼んだとしたら……。
***
「オイ、コラ、まだ終わりじゃねぇぞ? 立てよこのクソ野郎」
アリスの上に馬乗りになっていたクソ野郎を散々殴りつけた拳は、歯に当たったのか切れて血塗れだ。
だがそんなことは関係ねぇぐらいの殺意が腹の底からどんどん湧き上がって、このクソ野郎をいくら殴っても、身体中の骨を砕いても、それこそ殺しても足りることがねぇのは自明の理だった。
ここでコイツを殺して騎士の称号を剥奪されたとしても、コイツをこの場で殺せるなら本望だ。
今日の昼頃、エッフェンヒルド領から馬で戻る途中の街道で、ボロい荷馬車の車輪が外れて立ち往生してるところに出くわしたオレは、早く王都に帰ってアリスに会いたかったこともあり一度はその場を素通りしかけた。
――騎士とはいえ、たまには一般人のフリをしたい時もある。
ただその馬車に乗っていたのが若者だったら良かったんだが、運悪くすれ違いざまに見た荷馬車に乗っていたのは初老の夫婦という、何とも見捨て辛い顔ぶれだった。
だからこそ馬を止め、逸る気持ちを抑えて車輪を車軸にはめることに手を貸したのに、それがどうだ? こうして好きな女の危険な目に会わせておいて、何が騎士だ……!
目の前でうずくまる男へ向けた殺意の半分は自分に跳ね返って、オレは怒りと殺意の自家中毒で死ねそうだった。
――だが、背後から聞こえたしゃくりあげるような声に少しだけ冷静になったオレは、男の腹を死なない程度に蹴り上げて気絶させてからゆっくりとアリスに近付いた。
今の今まで男に襲われていたアリスは最初、薄暗がりで近付いてくるオレの顔が認識出来ないのかジリジリと後ずさる。アリスの怯えが当然のことだと理解しつつ、オレはそれを“悲しい”と感じる自分勝手さを恥じた。
けれどアリスに与える威圧感を減らそうとほんの少し身を屈めて近付いた途端、アリスが胸に飛び込んでくる。そのまま顔を押し当てて泣きじゃくるアリスにどう声をかければ良いのか分からねぇオレは、怖がらせないようにソッと小さな背中に手を添えることぐらいしか出来ねぇ。
するとさらにオレの胸に顔を強く押し当てて震えるアリスの華奢な身体が、より自分の不甲斐なさを感じさせる。
「――……アリス、アリス……あぁ、怖い思いをさせてすまん。駆けつけるのが遅れて、本当に――、」
謝ったところで感じた恐怖と絶望感が拭い去れる訳でもねぇのに、オレは無意味にも感じる謝罪を口にしながらアリスを抱きしめた。せめて縋る支えにくらいはなれれば良いと思う。
――この涙が止まった後にどれだけ嫌われて詰られても良い。
――二度と近付くなと言われたらそうする。
そんな覚悟を決めかけたオレの胸に顔を埋めていたアリスが、不意にその顔を上げ、涙と唇の端から流れる血で汚れたまま、言った。
「馬鹿ぁ……王子様は、お姫様の危機に駆けつけてくれたから、こんな時はもう謝らないで、抱きしめてよぅ……!」
そうオレに向かって泣きじゃくったアリスが、狂おしいほど愛おしくて。壊れ物を抱く要領で抱きしめた方が良いと頭では感じるのに、腕に加わる力が徐々に増していくのを自分でも感じる。
「アリス、アリス……もう大丈夫だ、オレの姫様。オレが来たからには、もう誰にもアリスを傷つけさせねぇ」
自然と口から零れた囁きに、アリスがアーモンド型の瞳を見開く。その目からボロボロと零れる涙と腫れ上がった頬が痛ましくて、その涙が止められないことがもどかしい。
何て言えば良いのか分からねぇオレは、ふと見上げたままの姿勢ではアリスが疲れるかと思い立ち、少しだけアリスから身体を離してから、その場で片膝をついた。これで視線の高さはアリスの方がやや高い。
まだ少し驚いた顔で鼻をぐずつかせてしゃくり上げるアリスは、いつものしっかりした姿より幼く見えた。よくよく見て見りゃあ小さいその手も血塗れだ。満身創痍なその姿に胸が締め付けられる。
オレがその腫れ上がった頬に手を伸ばすと、アリスが一瞬だけ身構えた。そこでオレはなるべく優しくその頬に掌を添えて数回、切れた唇の端を親指で拭う。
その渇き切らない血が親指にヌルリと纏わりつけば、収まりかけた自分への殺意が再び沸き上がってくる。思わず歯を食いしばって眉間に力が籠もったオレの表情を見たアリスが、急に血を拭っていたオレの指を咥えた。
温かい口内に誘われ、指先にチロリと這わされるアリスの小さな舌の感触に思わずドキリとする。いや待て待て、離れてから気付いたが胸元の服が、頼む、もう少し隠してくれ……!
邪念に襲われたオレが、必死で胸元を見ないように意識を散らそうとしている間にアリスの口から出てきた指は、纏わりついていた血が綺麗さっぱり舐め取られていた。
「……こういう時はさ、指じゃないと思う、けど……?」
そんなアリスの言葉に頭の回転が一瞬止まる。ついでに呼吸もだ。
オレは思わずジッとアリスの紫色の瞳に魅入る――……が、急にその紫色の目が恐怖に見開かれた。咄嗟にアリスが声を上げるよりも早く、その身体を庇おうと抱きかかえて転がったオレの背中を何かが掠める。
直後に「ひ、ひひ……ぼ、ぼくを無視して、た、ただで済むと、思ったか」と胸糞の悪ぃクソ野郎の声が耳に届いた。
肋骨にひびを入れる程度で済ませねぇで二、三本折る気で蹴り上げりゃ良かったか……いや、むしろやっぱり殺しておけば良かったか? 何にせよアリスのあまりの可愛さに、完璧にこのクソ野郎の存在を忘れかけていた。
チラリと横目で見たクソ野郎の手許には刃渡りこそ短いが、ナイフが握られている。ほぉ……婦女暴行にナイフの所持か。どこまで腐ってやがるんだこのクソ野郎は。
呆れて視線を腕の中で目を見開いたまま震えるアリスに戻すと、クソ野郎への殺意が再燃しやがる。すると不意に「ハロルド様、死なないで……」とアリスが泣き出し、オレの心配をして震えていたのだと分かった。
そんなアリスの優しさに胸が熱くなったオレは、どさくさに紛れてその切れた唇の端に軽く口付けを落としてから身体を起こす。
唇についたアリスの血を舐めとりながら立ち上がったオレの背中、お袋お手製の上着の裂け目から数十枚ほどの金貨が零れ落ちて石畳の上で“チャリリリリ……ン”と間の抜けた音を立てる。
受け取った時は馬鹿げた発明だと思って呆れたオレを許せ、お袋、親父。確かにオレの命、この金額で買えたぜ。とはいえそれも、刃渡りの大したことのないナイフで人を刺すのを怖がった腰抜けが、ちょっと薙いだ程度だからだろうけどな?
ゆらりと立ち上がったオレの背中から零れ落ちる金貨の音がしなくなった時、この路地にいたのはオレの“姫様”と、呆然とオレを見つめて凍り付いていやがるクソ野郎だけだ。
「アリスに求婚の約束を先に取り付けたのはオレだ。それを……割り込みはなしだろ?」
バキバキと血塗れの指を鳴らしながら、クソ野郎の方へと一歩ずつ怒りを込めて踏み出す。
都合良く思い描いていた予想と違ったことに今更気付いたクソ野郎が「ひぃぃ!」と情けない声を上げながら腰を抜かし、それでも往生際悪くジリジリと後ずさるの見ていると何とも愉快な気分になる。
ついに腰を抜かしたまま下がれるところまで下がったクソ野郎の背中に壁がぶち当たり、クソ野郎はその場で蒼白になって漏らしやがった。
オレは意識のあるうちに言っておいてやろうと、クソ野郎を見下ろしたまま宣言することに決める。
「テメェは牢屋で一人寝でもして、オレが騎士団長になるまで震えてろ」
その言葉に細い目を見開いたクソ野郎の顔面に拳を叩き込んで、今度こそ沈黙させたオレは、背後でまたしゃくり上げているアリスを抱きしめる為に踵を返した。