*3* 本当の本当はね?
今日は孤児院への訪問も仕事もお休みの完全自由時間が出来たこともあり、わたしはお昼からメリッサ様の新居にお邪魔することにした。
一人でずっと考えてても駄目なことは他の人に知恵を借りた方が楽だし、多角的に物事を見られるからね。
ちなみに一番最初に相談したのは当然“家族”である義父さんと義母さんだったんだけど、あの二人にかかれば大抵の物事が小さく思えてしまうのであえなく却下となった。
だってあの二人ときたら、
『オホホホ、そういう有言実行出来ない甘いところも可愛いわね~。あたし達のビスキュイちゃんは。そう思わないリック?』
『おいおい、そうからかってやるものじゃないよエディ。だがまぁ、無理はいかんな。うちのビスキュイちゃんの良いようにおやり。嫁に行くも行かんも好きに選んで構わんさ』
『あら、そんな物分かりの良いようなこと言っちゃって。どうせハロルド様に取られちゃうのが寂しいんでしょう?』
『ハッハッハ、そんなことはないさエディ。出来れば後もう十年くらい家にいたって構わんというだけだよ』
とか言うんだもんなぁ。
二人の気持ちはすっごく嬉しいけど、わたしとしては一応まだ結婚自体を諦めた訳じゃないから。
その場合相手がハロルド様じゃなければ誰でも――……じゃなくて、誰とでもそれなりに幸せな家庭が望めるだろうしね。
メリッサ様とアルバート様の新居(?)は城の中にある離れとでもいうのかな? ちょっとした屋敷の敷地面積くらいはありそうな広さなんだけど、そこまで華美過ぎず地味すぎずといった、丁度良い感じの部屋が居住区としてあてがわれている。
何でも王族は命を狙われることも多いからわざわざ単体で邸宅を建てたりしないで、もしも現在の王様や第一王子が暗殺された場合言い方が悪いけれど、スペアであるアルバート様が近くにいた方が都合が良いみたい。
本来なら平民のわたしが入ってこられる場所じゃないところなんだけど、前回メリッサ様に会った時に『今度わたくしに内密の用事があれば、これを城門の衛兵に見せて下さいませ』と手渡されたメダリオンを、言われた通りに見せたらあっさり……というか、かなり丁重に奥まで通されてしまった。
そんな訳で綺麗なメイドさんに案内された応接室で、わたしの突然の来訪に驚いているだろうメリッサ様の支度を待つこと十五分。
現れたメリッサ様はあの内側の情熱が溢れ出したような見事な赤髪を、やや緩く纏めただけの寛いだ装いで出迎えてくれた。
学園を卒業してからというもの特に線引きをされた訳ではないけれど、第二王子夫人ともなれば何となく以前より“恐れ多い人”のような気分になってしまう。
でも勿論実際は思うだけでそんなこともなく「いらっしゃい、アリスさん。ここ最近少し暇をしていたから遊びに来てくれて嬉しいわ」と朗らかに話しかけてくれるメリッサ様。
この間はわたしが愛読している乙女小説の新刊が出た日に、城下まで同じ物目当てにお忍びで来ていたメリッサ様に偶然会えただけだから、そう長く話せなかったんだよね。
そもそもお喋りするためだけに人を訪ねたことって、わたしの人生の中で考えてみたらあんまりなかったことかも。
メリッサ様は相変わらずの迫力美人だし、爵位という鍍金をなくしたわたし相手に以前と変わらない対応をしてくれるとか女神なの?
そう思わず聞いてしまったら「友人なのは当然、加えてアリスさんはわたくしの恋の手解きをして下さる先生ですもの。失礼なことは出来ませんわ」と両手を握って力説された。
……何だろう、こう、お育ちの良いお嬢様相手にわたしはとんでもないことを教えてしまったのでは……?
あ、いやでも、好きな子に迫られる――それも特別美人な女の子だもんね。嬉しくない野郎はいないんじゃない?
それにそれに、もともと結婚間違いなしの二人の間を燃え上がらせたって何の問題もないよね。異論は認めない。
でもそうだとしたらアルバート様にもっと恩を売れたりしたのかな、なんてね。
そういった汚い内心に蓋をして、メリッサ様と手を取り合ったまま、ひとしきりキャッキャウフフと久し振りの再会を喜び合う。
そしてわたし達の再会の熱が治まったところで、ここまで案内してくれたメイドさんとは違うメイドさんが、わざわざお茶の用意をしてくれた。
長くて舌を噛みそうな名前のふくよかな紅茶の香りが趣味の良い室内を満たす中で、わたしは四日前の晩に自分で取ってしまった謎行動の顛末をメリッサ様に相談したんだけど――。
「まぁ……では結局まだ何のお返事もしていらっしゃらないのね?」
わたしの目の前で話に耳を傾けながら紅茶を口にしていたメリッサ様は、少しだけ驚いた様子でその深緑の目を瞬かせる。
そう言われることを予想していたとはいえ、わたしは何となくメリッサ様から次に来るだろうな~という言葉に対して身構えた。
次いで“カチャリ”と上等な薄い陶器の出す音と共に、薔薇の描かれたティーカップを葉を描いた対のソーサーに戻したメリッサ様が、悩ましげに吐息を吐いた。
「あの、わたくしが軽々しく口を挟んで良いことではないですけれど……アリスさんはどうしてそこまで頑なにハロルド様からの結婚の申込みをお断りしたのかしら?」
――あぁ、やっぱり。メリッサ様はわたしの知っている上級貴族の中では、かなり身分の違いにこだわらないで気安く接してくれる人だけど、それは元になる“生まれ”があってこそだと思うんだよ。
本人に悪気はないし、わたしもメリッサ様のことは好きだから……ううん、むしろ好きだからこそ、ちょっとだけ引け目を感じちゃうというか。
「いやぁ……だってさメリッサ様。次期騎士団長のハロルド様とわたしだと、誰がどう考えたって身分が釣り合わないじゃない? 養子に迎え入れてくれたロングさんは元・騎士団員だけど、それだって若い頃から頑張ってようやくの思いでその地位まで上り詰めた。いわば平民の憧れでしょう?」
歯切れ悪くそう口にしながら、赤みの強い紅茶の残るティーカップを覗き込むと、その表面に情けない表情を浮かべた自分の顔が映り込んだ。
「ロングさん達に養子にしてもらったからって“わたし”が頑張って得た物なんて、あそこには何もない。わたしは“父親”であるあの男が、何らかの悪事に手を染めていると知っていながら止めなかった。あの“罪人”の血を引いた、本来なら平民よりもさらに下の階級にいるべき人間なの」
頭の片隅で“馬鹿みたい、今さら懺悔のつもり? それとも悲劇のヒロインぶってるの?”と嘲る自分の声がする。けれどその声に“そうだよ。文句ある?”と強がるもう一人の自分の声も聞こえた。
「だからわたしは――「ハロルド様からの結婚の申し込みを受けられない」」
不意に自分の声ではない声が見事に重なったせいで、わたしは自分が知らない間に新たな人格でも生み出してしまったのかと思った。
だけど勿論そんな愉快なことはなくて――、
「とでも仰るおつもりなのかしらね?」
“ガチャン”と、わざととしか思えないような大きな音を立てて、メリッサ様がティーカップをソーサーの上に戻した。その普段のメリッサ様ならあるまじきマナー違反に、わたしは一瞬ポカンとしてしまう。
「あぁ、急に横から口を挟むようなはしたない真似をしてごめんなさい。ですけれど、あまりに湿っぽい御託ばかり並べられるものだから、つい」
そう言ってニッコリと微笑んだメリッサ様からは、心なしかか以前より口が悪くなっているような印象を受けるんだけど……これってわたしの英才教育の賜物だったりするのかなぁ。嬉しくも名誉でもないけど。
むしろメリッサ様のお世話係の皆さん、お宅の箱入りお嬢様を下町風に味付けしてしまってゴメンナサイ。
「アリスさんはご自分のこととなると、急に意気地がなくなるというか……意外と下らないことを気になさるのね。それともそれが本当に今のアナタの本心なのかしら?」
あまりの衝撃に心の中で床に頭を擦り付ける描写を思い描いていたわたしに向かい、メリッサ様はそう妖艶に微笑んだ。
流石に元が破格な美人な上に生粋のお嬢様。少し口角を上げて人差し指で唇を撫でる仕草だけで、色気が半端ではありませんね!
「本心は違うのでしょう?」
「うっ!」
「その証拠にわざわざ餌付……あら、失礼。ハロルド様の好物であるマドレーヌを差し上げてまで足止めをなさったのでしょう?」
「うぅっ!!」
「それにもっと言うのであれば、もしかして孤児院の子供たちの分とは別に用意した物だったりして――……」
「うぅぅっ!?」
こちらが怯むような痛いところをビシビシ、ズバズバと切り込んでくるメリッサ様。あれ、おかしいな。何だかメリッサ様の背後にここにはいないイザベラの影までちらつき始めたような気がする。
――教わった分だけ吸収するとは恐るべしメリッサ様。
「うぅぅ、そうだよ。その日は孤児院でクッキー焼いたの。マドレーヌはわざわざ別に焼いて……。でもあの日は本当に、本気で、それを渡したらハロルド様にお別れを言うはずだったの。でもさ、その決意を胸に振り返ったらハロルド様が空のジョッキを見てるから……そうしたらもう帰っちゃうかと思って焦ったんだよ」
呻くように喉の奥から込み上げた言葉は、酷くか細くて格好悪い。まるで自分の声じゃないみたいなその声に、情けなさも相まって鼻の奥がツンとした。
こんなのはわたしじゃない。
こんな風に誰かに固執する自分をわたしは知らない。
「だってさぁ、」
あぁ、そうだ。
止めて、違う。
身体の中で暴れる相反する感情に、厳重に鎖をかけて心の奥底に沈めていた箱の蓋がズルリとずれる。
「怖いんだよ――……」
ポツンと言葉にしてみてどうしてこんなにハロルド様に諦めて欲しかったのか、どうして自分がこんなに“諦めたかった”のかが、ようやく分かった。
「また誰か心の柔らかい部分に居座るような大切な人が出来た時に、母さんみたいに“わたし”が必要としてるのに“わたし”を見ないで、ある日“わたし”を独りにしてまたいなくなっちゃったら……どうすれば良いの?」
わたしは母さんを哀れむことで、その実ずっと自分の中に巣くっていた“孤独”という恐怖から逃げていたんだ。
母さんを哀れで、愚かで、馬鹿な女だと思うことで、自分を必要としない弱い母親を許している気になっていた。
わたしが今までやってきたことは、その存在を貶めて戒めに使うことで、自分にその過ちを犯さないように呪いをかけたようなもの。ただしこの呪いには“人に心惹かれてはならない”というオマケが付いて来た。
この呪いを解かなければ、心の鎧は剥がれない。
実際に孤児院ではちゃんと鎧を着込んで小さい子達から頼れるお姉ちゃんだと思ってもらえたし、あの男に引き取られて学園に潜り込んでからは身に着けた猫を存分に発揮して学年を問わずに男子生徒を虜にした。
でも誰もわたしの“心”に触れない。
だけどそれで当たり前なの。
呪いで得た鎧を望んで纏ったのは、誰でもない、わたし自身。
一口、二口とカップの紅茶で喉を潤して語る間、メリッサ様は一言も話さない。呆れているのかもしれないし、膿んだわたしを穢らしいと軽蔑しているのかもしれないと思うと、その美しい顔を見ることが躊躇われた。
けれどそれでも鎧の隙間から入り込んでくる“孤独”は痛くて苦しくて、その苦痛から逃れる為に、わたしは自分の身体を使って他者から温もりを得ようとしたから呆れたもので。
呪いは時間を置いてわたしを狂わせる。
触らないで、近寄らないで、だけど触れて。
さびしい、サビシイ、寂しい、哀しい――。
時折自分という人格を忘れてしまいそうになる“孤独”から逃れる為に、わたしは鎧の上から穢れを纏い続けて。そうして母さんみたいになりたくなかった“わたし”は、結果としてあれだけ嫌だった母さんよりも汚くなった。
「……誰か“わたし”を見つけてよぅ……」
だけどさ、駄目だよ。今この呪いが解けて鎧が脱げてしまったら、ハロルド様が捕まっちゃう。
「でもその誰かは、ハロルド様以外の人じゃなきゃ駄目なの。だってあの人は、わたしなんかに捕まって良い人じゃないの……」
ヒュウヒュウと虚しくなる喉が、泣き声を堪えているせいだと気付くより早く。空になったティーカップを抱え込むみたいに椅子の上で背中を丸めたわたしの身体を、ふと優しく包み込むように抱きしめる人がいる。
それはわたしの欲した“母さん”の温もりじゃないけれど。
とても近しいその温もりにしがみついて、わたしは“わたし”と一緒になって実に十年ぶりくらいに声を上げて泣いた。