*9* 大切な人と歩む心得。
八月の日差しを遮る涼しげなレースのカーテンからは、あまりジリジリとした熱気を感じない。そんな日差しを反射させるのは、目の前のクリス様に送る分厚いレポート用紙の白さ。
『学園内の窓ガラスは、全て冷気や熱気を遮断出来るようになっているのですよ。ですから、学園の外に出る時はきちんとその季節に合わせた格好をして出かけなさい。風邪をひいてしまいますからね』
日差しが照らし出す机の上をなぞっていたら、不意に前回の訪問でクリス様が教えて下さった記憶が蘇る。結局お忙しいクリス様が学園に会いに来て下さったのはあの一度きりで、あれ以来お顔を見ていない。
三通目のレポートを送った頃まではそのことを寂しく思ったけれど、今となってはむしろその方が良かったのだと思えてしまう。毎日昨日とは違ったことに目を向ける日々の中で、こちらに来てからというもの、あまり一日の中で時間を持て余して刺繍をすることもなくなった。
そのせいか、以前よりもずっと一つの刺繍を刺す時間に集中出来るようになったことで、伸び悩んでいた腕前もグンと上がりましたもの。以前のように指を刺すことも少なくなったから、怪我の巧妙でないのは確かですわ。
怪我をせずとも上達することもある……というよりも、結局のところはわたくしの集中力が足りていなかっただけでしたのね……。
そんなことを考えながら、手許に用意しておいた学園の校章の入った封筒を引き寄せて、そうっと、そうっと、分厚い紙束の四隅が封筒の端に引っかかって裂いてしまわないように、細心の注意を払う。
学園で販売されている封筒はこのサイズが一番大きいから、これに入らない分厚さとなると分量を減らさないといけないから難しいのです。しっかりと、けれど強く引っ張りすぎないように重ねた封筒の蓋に、屋敷から持ってきた自分用の封蝋を捺して――。
「これで……完成、です……わ」
その言葉を言い終えた直後、ペシャッと潰れるようにして、女子寮の自室の机に頬を預けたわたくしの横から「お疲れ様です、お嬢様。レポートもこれで五回目、随分と仕上げるまでのお時間も短くなりましたね。素晴らしいですわ」と、リンダが優しく褒めてくれるけれど……。
「そのことなのですけれど……わたくしもリンダやレティーナのように、物事の要点だけを押さえて人に伝えられるような推敲能力が欲しいですわ」
毎日学園で面白かったことや、興味深かったことなどを授業の合間にコツコツと書き貯めて、こうして休日に誤字と脱字のチェックをして仕上げる。
以前までは書くことがなかったものの、気心の知れた友人が出来てからは、はしゃぎすぎて余計な文章まで添えてしまうことの方が多いくらいで。
お忙しいクリス様にレポートを出すことにもようやく慣れ始めたものの、どうしても伝えたいことが多すぎて、毎回一向に書く枚数を減らせないのには困りましたわ。どうしたものかと毎月月末になれば頭を悩ませているのに、翌月にはすっかり忘れてしまうのですもの……。
「あのねリンダ。このままだと、クリス様にせっかく学園に編入させたのに、いつまで経っても成長しない婚約者だと呆れられてしまうと思う?」
溜息を吐いて真剣に訊ねたわたくしを見たリンダが、クスクスと笑う。思わず「もう、笑うなんて酷いわリンダ。わたくしは真剣ですのに」と言ってみるけれど、本当はそんなに怒っていない。
リンダもそれが分かっているから「申し訳ありません。真剣にお悩みになっていらっしゃるお嬢様が、あまりに可愛らしくて」と笑う。彼女のその笑顔とわたくしに向けられる優しい言葉は大好きだけれど、この優しさにいつまでも頼っているから成長が出来ないのだと薄々気付いてはいる。
いるのだけれど、その状況を心地良く受け入れてしまう自分が情けないと感じられるようになったのは、ささやかな成長……ですわよね? 駄目かしら。
クリス様はお仕事でお忙しいのに、毎月きちんとレポートへの返事を下さるから、これが届けば次のお返事で五通目です。
これも、出来た婚約者の方でしたら“ご多忙な中での返信は不要ですので、お身体をご自愛下さい”とでも書いて、負担にならないようにするのでしょうが――……わたくしは出来の悪い婚約者だから、そんなことは書けない。
内容はいつも『こちらは常と変わりなく』から始まる短い手紙。綴られた文字の流れるような筆跡が、クリス様と良く似ていて優雅なのは勿論のことだけれど、お仕事で書類にするサインとは少しだけ違って崩してある。
クリス様にしてみたら“レイチェル相手だからこれで良いだろう”程度のことなのかもしれませんが、わたくしにはたったそれだけのことが、とても特別なことに思えるのです。
「次でクリス様からのお手紙も五通目ですね。まさかここまでしっかり返信を寄越して下さる方だとは思って……いえ、何でもございませんわ。それよりも、あと四日で夏期休暇ですもの。もしかしたらお嬢様の休暇中に、お屋敷の方にお顔を見せに来て下さるかもしれませんわ」
リンダは言葉を濁してにっこりと微笑んでそう言ってくれたけれど、今までわたくしが知らなかっただけで、クリス様は屋敷の使用人の皆からあまり良く思われていなかったみたい。あんなにお優しい方なのに、わたくしがぼんやりと頼りないなせいで、皆が思い違いをしているのだわ。
「そ、それもそうですわね。でしたらその時は、わたくしがおもてなしをしてみせますわ。でも……、」
「お嬢様、何か気になることがおありなのですか?」
「えっと、あのね、呆れないでいてくれる?」
「それは理由をお聞かせ願えないことには何とも言えませんが、お話して頂いたところで、わたしがお嬢様に呆れることなど万に一つもありえません。ご安心下さいませ」
トン、とそのふくよかな胸部を拳で叩いたリンダの言葉にホッとしつつも、同性としてはほんの少しだけ揺れるその部分に嫉妬してしまいますわ。だけど今はそんなことを気にしている場合ではないのよレイチェル!
「……ずっと傍にいてくれるリンダから見て、わたくしは学園に来てからちゃんと成長しているかしら?」
学園に来てから初めての帰宅を前にした不安から、思わず彼女にそう訊ねてしまった。でも、リンダの表情が一瞬だけ曇ったことに気付いて、かなり答えづらいことを訊いてしまったのだと理解する。
そこで「やっぱり何でもないですわ!」と慌てて訂正したものの、リンダは「ああ……お嬢様ったら、こんなに成長をしているご自分にお気付きになられないだなんて。謙虚で素晴らしいです」とわざとらしく目頭を押さえた。
けれどそんな心強いリンダの言葉を聞けてホッとしたのも束の間で、やや困った様子で「ですがお嬢様? 本日のレティーナ様とのお約束のお時間まで、もう一時間を切っておりますが」と机の隅に置かれた時計を指差す。
その細くしなやかな指先を追って見つめた時計の針が指している、現在時刻は十一時十分。それを目にした途端、スッと頭の奥が冷えた。
前日に教室でレティーナと夏期休暇を前に、最後の休日をすごそうと約束していたことを思い出したわたくしが、大慌てで身支度を整えようと席を立った直後に「ご安心下さいお嬢様、こんなこともあろうかと――」と、リンダが背後にある今日の装い一式を広げたベッドを指差す。
そこまで有能なのに、何故もっと早く時間についての言及をしてくれなかったのかしら……と、自分の迂闊さを棚上げしていたら「お嬢様の驚くお顔を見たかったのですわ」と悪戯っぽく笑みを浮かべた彼女に苦笑しつつ、用意してくれた服に袖を通した。
***
「あははっ! リンダさんも人が悪いなぁ。そやけど、アタシもその気持ち分かるわ。レイチェルの困っとる顔は可愛らしいもん」
「まあそやなぁ。レイチェルちゃんは確かにリンダさんやのうてもからかいたくなるわ。肉食獣系なうちのお嬢と違うて小動物っぽいからかなぁ?」
「ああ? 何か言うたかキース?」
「いえいえ、なーんも。うちのお嬢も、レイチェルちゃんに負けず劣らず可愛らしいて言うただけですぅ」
約束していた校門で無事時間通りに合流出来たレティーナ達と、クラスメイトの女の子達が話していた可愛い喫茶店を見つけだして、四人でのティータイムを楽しんでいた時に、ふとさっきのリンダの反応を二人に話して「ね、酷いでしょう?」と賛同を求めたのに――……結果はご覧の通り。
リンダがゆるりと芝居がかった動きで「お褒めに預かり光栄で御座います」と胸を反らすものだから、二人はさらに手を叩いて「「良い性格してるわ!」」と彼女の方に賛同してしまった。
思わず「レティーナとキースさんまで酷いわ」と呻けば、二人は顔を見合わせた後に、ニヤリとよく似た笑みを浮かべる。初めて会話を交わした日にも思ったけれど、この二人は主従というよりもうんと仲の良い兄妹みたい。恨めしい気持ちで見つめるわたくしの前で、今もまた「「そやかて、なぁ?」」と声をはもらせて笑いあっているのだもの。
けれどこの話はすぐにレティーナから発せられた、二学期からの授業内容にその座を取って代わられてしまいました。あまりにスムーズに気になる話題へと移ったものだから、会話の途中でレティーナに「話題のすり替えされたことにも気ぃつかへんとか……可愛いけど素直すぎて心配になるわ」と笑われる。
最近になって“素直”という言葉は、表面上の意味のまま受け取ってはいけない気がしてきました……。確かに過去のクリス様からかけて頂いた『レイチェルは本当に素直ですね』という言葉を思い出すと、決まってセットで浮かべられていた苦笑もついてきます。
これは――……周囲の方々に迷惑をかける前に、もう少し賢い受け答えを憶えないといけませんわ。目指せ、受け答えの向上、です!
そんな普通の方々なら出来て当然な目標を胸中で掲げている間にも、会話はレティーナを中心に広がりを持ち、キースさんとリンダがその会話の内容からわたくしにも答えられそうな話題を投げかけてくれる。
これがご令嬢達の開く華やかなお茶会の席であれば、わたくしはあっという間に会話の輪から弾き出されて、次回からは呼ばれないことになるでしょう。それではあまりにもクリス様の婚約者として情けなさすぎます!
初めて会った人の顔と名前を憶えられないわたくしは、外出する際は常に持ち歩いているメモ用具を一式取り出して、レティーナ達の会話運びを勉強用にと思い、書き取りを始めたところ……三人は屋敷で勉強を教えて下さっていた家庭教師の先生さながらに、色々なことを教えてくれた。
相槌を打つポイント、相手に警戒心を持たせない微笑の浮かべ方、話の腰を折らないでお手洗いに立つ方法に、相手の名前を思い出せない時の対処法などなど。どれも実に役立つ実践向けのことばかりで、外出用の小さなメモ帳はすぐに文字で埋まってしまいました。
メモ帳に書くことが出来なくなった後は、ようやく普通に会話を楽しみながらのお茶になり、わたくしは熱心に指導してくれた三人にお礼とお詫びを述べて、その会話運びに身を委ねることに。
三人が言うには、それも有効な手段であるとのことなので、気になったことは質問しつつ、向けられた質問には出来うる限り端的に、それでいて詳しく情報が伝えられるように気をつけた。これで次回からはレポートの質も向上しますわ……よね?
「あらら、そしたらレイチェルちゃんは二学期からの専攻授業は商業のAやのうて、外交の方にするんかぁ。うちのお嬢は当たり前やけど商業を中心に学ぶし、外交と商業は教室がある棟が別やから、なんやちょっと寂しいな」
スルスルとこちらの情報を引き出していくキースさんの話術の巧みさに、どんどん暴かれていくわたくしの二学期の予定。
「ええ、本当に。でも他の授業は全部同じですし、専攻授業が本格的になるのは二年生からだそうですわ。それに一週間の中でも四枠しかないから、教室ではその分ずっとレティーナと一緒にいますもの。ね?」
「そ、そうやな~! レイチェルは寂しがりやから、教室ではアタシがずっと傍におったるわ」
「あら、レティーナ様にそうして頂けると頼もしいですわ。お嬢様お一人では学園内の小娘共に何をされるか分かりませんもの」
「うわ、リンダさん心の黒い声がダダ漏れてますよ~? しかも、それとは真逆にうちのお嬢は素直やないわぁ」
「キース、アンタあんまり余計なことばっかり言いなや? シバくで?」
「嫌やわ、冗談やんか。なんもそんな笑顔で凄みなや。堪忍なぁレイチェルちゃん。うちのお嬢は“大好き”が“シバくぞ”に誤変換される子やねん」
そんなキースさんの軽口に対し、見る人の目を釘付けにして離さないような、華やかな微笑みを浮かべたレティーナ。彼女は「ん、やっぱアカンわこのポンコツ。覚悟しいや」と拳を握りしめると、ガタリと椅子から立ち上がった。
それを見て笑うわたくしとリンダに「ちょ、お二人さん、笑てへんで助けて!?」とキースさんがレティーナの拳から頭を庇うように抱える。
休日の喫茶店は他のお客さんの声も多くて、小さすぎる声では聞こえない。だからそれに負けないように、続けざまにポンポンと交わされる親しい人達との会話に心まで弾む。
――けれど。
「ああ、そうや。何やったら、お嬢もレイチェルちゃんと一緒に外交の方にしたら良いんとちゃう?」
レティーナの拳から逃げ切り、再び椅子に腰を下ろしたキースさんがそう口にした瞬間「ふうん……何やのキース。アンタ、ただの使用人のくせにアタシの授業内容にまで口出す気ぃなんか?」と。今までの賑やかなやり取りから一変したレティーナの冷たい声。
この一瞬のうちに何が起こったのか分からず、言葉を失ったわたくしの隣で「キース、店の方で新しい焼き菓子が焼けたみたいだわ。お嬢様、私達で購入して参りますので、少々お待ち下さいね?」と、こちらを安心させるように微笑んだリンダが席を立つ。
様子のおかしいレティーナと取り残されたわたくしは、心配そうな表情を浮かべてリンダについて行ったキースさんから、顔を隠すようにそ俯いてしまった彼女の方へと視線を向ける。
こんな時にどう声をかけたら良いのかさっき訊いておけば……いいえ、違うわね。だってこれは【親友のこと】だもの。きっと誰かに教わることではないはず――。
そう思い、レティーナの肩に触れようと手を伸ばしたわたくしの耳に「さっきはあんなこと教えたけど……レイチェルはそのまんまでおってな」と、レティーナの小さな声が届いた。
反射的に“もっとしっかりしたいわ”と言いかけたけれど、何とかその言葉を喉の奥へと押し戻す。代わりの言葉を探すよりも早く口をついて出たのは「分かったわ」という一言だけ。でもきっと、それで良かった。
周囲の声にレティーナの声がかき消されないように、ギリギリまで椅子を近付けて、その声に耳を澄ませる。そんなわたくしを間近にしたレティーナが、小さく笑ってくれた。
「アタシの家は商売敵には平気で汚い手も使うし、レイチェルみたいな本物のお嬢様には考えつかんような、えげつないこともしてここまでのし上がって来たんよ。そやからようさん人から恨みも買うとるし、いつか誰かに仕返しされても仕方ないと思とる。だからホンマはあの二人が、アタシを家業から遠ざけたがってるのも知ってたんよ」
突然始まったレティーナのご家庭のお話に、それでも何も質問するべきではないと心の中で理解が出来た。だから今は彼女の話したいように、続く会話運びに身を任せる。
「レイチェルは聞いたことあるか知らんけど、昔からよう男は船、女は港とか言うねんよ。でもな……アタシあの言葉大っ嫌いやねん。だって船がどっかで難破したら港なんかどうにもならんへんし、確実に戻ってくる保証なんかあらへんやろ。そしたら港は役立たずや」
レティーナの言葉は、甘ったれに育てられたわたくしには難しくて。でも、いつも勝ち気な彼女の心細さだけはしっかりと伝わって来たから。その声に視線で先を促した。
「おとんが船の本体で、あの糸目が帆やったら、アタシは航海師として船に乗り込んだるねん。家族やねんから、難破する時は一緒やろ。レイチェルもそう思うやんなぁ?」
そう目の前でレティーナが泣き笑いのような表情を浮かべる。わたくしは少しでもその不安に寄り添える答えを求めて、ギュッと目蓋を閉ざす。その闇の中にお父様やリンダ、屋敷の皆が浮かんで、消えた。
最後に現れたのは困ったように微笑むクリス様の姿で。クリス様はわたくしを見つめてこう言うの。
『これはレイチェルにはまだ難しいので、分からなくても問題ありませんよ』と。
そうして再び目蓋を開くと、そこには縋るようにこちらを見つめるレティーナの双眸が揺れて。何だかとても不思議な気持ちです。
いつも自分を大切に包み込んでくれる愛情を、こんなにも煩わしく感じることがあるだなんて。
「本当ね……わたくしも、レティーナと同じ気持ちだわ」
ふと舌先から離れた言葉は、わたくしがクリス様の婚約者に選んで頂いてから初めて抱いた、ほんの小さな反抗心。




