*1* 王子様はいらない。
引き続きアリス視点です。
\(´ω`*)<次回からはハロルド視点と交互でお送りします。
「言ってるじゃないよぉ!?」
ガバァッ!! と飛び起きた反動でベッドが軋んだ音を立てて抗議する。心臓はバクバクと走った後みたいに大きく鳴った。カーテンの隙間から早朝の静かで柔らかな光が差し込んできて、現実に押し戻されるように夢がまだ部屋の四隅に息づく闇へと逃げ込んでいく。
「うぅぅ……また、あの夢かぁ」
そう“また”と言うからには、毎日のように見るこの夢は、現実的に生きたいわたしの目下最大の悩み事な訳で――。
「二度寝しようにも目が覚めちゃったし……顔、洗おっかな……」
現実逃避の為に前夜に用意しておいた水挿しからボウルに水を注いで、それを掌に掬って顔を洗う。もう季節的にそんなに冷たくない水でも、それなりに寝起きの頭をシャキッとさせるには役に立つ。
今でもたまにうっかり朝目を覚ましたら、ベッドマットをめくって前日に寝押ししておいた制服のスカートとか探しちゃう位だしね。
それでそこに制服のスカートがなくて、部屋も狭い数人で相部屋だった寮から、広くはないけど慎ましくて落ち着いた趣味の個室になっていることに気付く……みたいな。
年代物だけど作りの良い鏡台に映ったわたしの輪郭を、短くなった髪が縁取る。切ったばかりの頃より幾分落ち着いた髪にブラシをかけ、パパッと整えてから毛先をボウルの水で少し纏めた。
「――よし、今日のわたしもなかなか良い面構えしてるじゃない? これで今日こそちゃんと返事が出来る! ……はず」
あの日の真剣で、怖いくらい誠実な顔をした“男性”と対面するのは生まれて初めてのことだったから、今まで恋愛の場数を踏んだわたしでも、正直よろめいてあっさりその場で了承してしまいそうな破壊力があった。
……でもさ、やっぱり駄目でしょう?
ただでさえ身分の問題もあるし“父親”の犯した罪から匿ってくれた恩人を誑かしちゃ。きっと素直な人だから、周辺の友人達が垂れ流していた幸せな雰囲気に当てられちゃっただけだと思う。
そもそもイザベラとメリッサ様の二人が卒業式直後に挙げた結婚式の場で、何でか全力でブーケをぶつけられたけどさ……いやいや、違うでしょ。
ブーケってもっと夢見がちにふわっと可愛らしく投げる物であって、断じて他の出席者そっちのけで叩きつけるみたいに投げ付ける物じゃないよね? それにイザベラのブーケ物凄く固かったんだけど何あれ、武器かな?
――とか思った日からもう早いもので、イザベラが故郷に戻ってしまってから二月が経ったなんてまだ信じられない。
ただ、元々手紙を書くのが好きなのか、イザベラは故郷に帰る前に『これからは学園のように頻繁に会うことは出来ませんし、住所の交換でもしませんこと?』と言って来たので、わたしとメリッサ様はその素直でない申し出を喜んで受けた。
一週間に一度のペースで送られてくる手紙の内容は、今の幸せな生活を満喫していることや、学生生活を送る間に衰えていた体力を嘆くものだったけど、大半はこれから婚約者と領地を大きくしていくという決意と幸福感に満ちたものだ。
ただしまだまだ夜のことはからっきしみたいで、この間は幸せのお裾分け(押し売り?)のお礼も兼ねて本人は真剣な質問のつもりらしい惚気に、多少不真面目な返事を書いたっけ。あの手紙の内容、実践したのか是非次の手紙を送るときに聞いてみよう。
……アルバート様がメリッサ様に迫るのとどっちが早いか楽しみかも。
さて、あの都合良く“父親”を名乗っていた男が捕まってからは、唯一学園生活を送るステータスとして使えた“男爵令嬢”の肩書きもなくなって、これで一緒に捕まってお終いかと思っていたら何故かお咎めなし。
肩透かしにあったような、おかしな話、手駒としても見捨てられた気分になったんだけど……ハロルド様の騎士団の元・同僚であるロング夫婦から、まさかの養女に迎えたいというがあったりして――。
今のわたしの義父に当たるリッキー・ロングさんは、平民からの叩き上げ。その腕前は騎士団でも屈指の遣い手だったらしいけど、流石に歳には勝てず一昨年退団したのだと聞いた。
確かに初老の男性にしては、細身の身体のどこにそんな力があるの? と思ってしまうこともしばしばある六十三歳。
銀髪なのか白髪なのか判断しかねる綺麗な髪を、オールバックにしている涼しげなイケメンの”義父さん”。オマケに超が付くほどの愛妻家でちょっと微笑ましい。
その奥さんのエディー・ロングさんは、元々荒くれ者の多い下町の酒屋の看板娘だったそうで、お店に通う常連の義父さんに猛アタックされて家庭に入ったんだとか。
焦げ茶色の柔らかい髪を太い三つ編みにして垂らしている後ろ姿は、今でも若いお嬢さんって感じかな?
初めてその話を聞いたときは、メリッサ様と一緒にちょっとしたロマンス小説みたいだと盛り上がったのに、イザベラはいまいちわたし達の高尚な楽しみが分からなかったみたい。
最初はその反応の薄さに“ないわー”とか思ったけど、よくよく考えたら田舎に本屋さんってないもんね……仕方ないよ。
ソバカスの残る顔に幾つもある幸せな笑い皺が、いつもわたしを和ませ落ち着かせてくれるけど、そこは元荒くれ酒場の看板娘。腕っ節もなかなかのものがあるらしい“義母さん”は義父さんと同じ六十三歳。
……“ちょっと特殊”なところを除けば二人はとても“良い人”達だ。
この二人との出会いは、てっきりまた孤児院に戻ってチビ達の相手をしながら一生下町で生きるものだと思っていたし、それが嫌だとも思わなかったわたしにとっては驚きだった。
寝耳に水の申し出だったけど、どちらかと言えば学園内での肩身の狭い生活よりも、身の丈にあった生活に戻れることへの安堵の方が大きかったとはいえ、罪人の血縁者を養女にとは失礼だけどかなりの変わり者。
けどいつの間にかハロルド様に対して“遊び”では誤魔化せなくなってきた“気持ち”が確かにあったから、わたしは断るつもりがつい魔が差して頷いちゃったんだよね。失敗したわ。
勿論届くはずのないものに手を伸ばすほど、わたしは馬鹿じゃない。幼い頃に見ていた母さんのような失敗は絶対にしたくなかった。
ハロルド様の目を覚まさせようと思って、貴族の令嬢っぽく伸ばしていた髪を短く切ったのも全く効果なし。被っていた猫も脱ぎ捨てて下町にいた頃のような乱暴な物言いに戻し、イザベラに対して陰険な嫌がらせをしていたことも話した。
でもそれでも『オレは馬鹿だから、変に自分を取り繕わない女が好きだ』と言ってくれる真摯な眼差しにいよいよ万策尽きて、わたしと母さんの生活を滅茶苦茶にした“あの男”との関係も、そのせいで気の病に罹った母さんが死んでからは下町の孤児院で生活していたことも全部包み隠さず。
正直ここまで話せば諦めてくれるだろうし、そうすることが最善なんだと分かってくれるものだと思っていた。
――――でも……。
『悪い。実は知ってた。というか、オレはその時にアリスに一目惚れしたんだ。何となく訊かれたくないんだろうと思って後出しみたいになっちまったが……オレは“アリスだけ”が欲しかったんだ。あのままアリスが孤児院にいたとしたら、オレは間違いなく求婚しに行った。でもそれをあのクズ男がしゃしゃり出て来て、アリスを利用する為だけに連れて行っただろ?』
自分のことを馬鹿だ何だと言いながら、ハロルド様はその実、人の心に対して“愚か”ではなかったのか――言い当てられた内容は正にその通りだった。
そこまで分かっているのに何故? 本格的に意味が分からない。あの頃のわたしの一体どこに一目惚れする要素があるの?
胸だってまだ偏平だったし、髪の毛だって今みたいに艶がなかった。何よりがさつで女らしいとは真逆だったと思うんだけど。
わたしはどうしてもハロルド様に諦めて欲しかったんだよ。そんな風に想ってもらえるような純粋さも殊勝さもわたしにはなかったからね。
母さんを踏みにじった“父親”を足掛かりにして、金持ちと結婚するという野望の為に“娘”としてあの屋敷に転がり込んだことも、言わなくても別に良いことだったけど、その過程で“綺麗な”身体ではなくなったことも仄めかしもした。
『ほらな、やっぱりアリスはオレが今まで見てきた中で、一番素直で良い女だ。あのクズ男に関しては端からいらねぇと思ってたから、ずっと騎士団の仕事をこなす中で尻尾を出さないか嗅ぎ回ってたんだ。とは言っても、汚職の一件を掴んでからはアルバートとクリスに頼りっきりで、オレは大したことは出来なかったんだけどな?』
あの言葉を聞いた時、それは違うと咄嗟に口に出しそうになった。“父親”は気が小さかった分、とんでもなく用意周到で小狡い人間だ。あの男の裏をかくことが、口で言えるほど簡単なはずがなかった。
陰湿で陰険で醜悪で狡猾で――……どこから突っ込めばいいのか分からない小悪党。そしてそんな唾棄すべき男の血を半分も引いている“汚いわたし”はハロルド様に相応しくない。
絶対に不良債権にしかなれないから“そんなに言うなら、わたしとは愛人契約にすれば良いよ”と言ったら、とんでもなく眉を顰められた。
でも冷静になったら絶対そっちの方が良かったって後から思うはずだよ。あの男が……“父親”が母さんにそう言ったみたいに。
所詮は豪華な食事に飽きて一瞬よろめく家庭の味。貴族にとっては一般人なんてそんなもんでしょう?
一度メリッサ様とお茶を出来る機会があったからその時にそう言ったら『アリスさんたら……この辺りで素直にならないと、得られるものも得られなくなりますわよ?』と呆れられちゃったけど。
やっぱり欲しくても手を出しちゃ駄目なものってあると思うんだよね?
「もう何が何でも、今日こそちゃんと、決着をつけないと」
鏡台を見つめながらここ最近ずっとそう呟き続けていた言葉は、自分の声ではないみたいに弱々しくて。
「――わたしは絶対に間違わない」
年を経るごとに母さんに似てくる顔。わたしは鏡の中で不安な表情を浮かべている自分の頬を一撫でしてから、義母さんと義父さんのいる階下へと降りる。武人の家の朝は早いのだ。
***
「はぁい、おはよう、あたし達のハニーちゃん。今朝も爆裂元気な寝言だったわね。ついにハロルド様にお返事する準備でも出来たの?」
「ハハハ、そう急かしてやるものじゃないエディ。うちのハニーちゃんにハロルド様はちと役不足だろう。それにあんな小童に我が家のお姫様はまだやらんぞ」
三人で一杯になってしまう狭い食堂に入った途端、そんな恒例のやり取りが飛んできて、わたしは「二人ともおはよう」と答えながら自分に割り当てられたピンク色の席につく。
因みにわたしの座る“お姫様席”がピンク色、義母さんの座る“お妃様席”は高貴な赤色で、義父さんの座る“王様席”は勿論金色。
騎士団を辞めてから始めた木工にハマった義父さんの独特な感性が活かされたこの異空間は、最初に目にした人は大抵驚く。わたしは慣れたけど。
最初の頃は食事の支度も手伝っていたんだけど、義母さんが『手伝う暇があるなら、少しでも多くご飯をかき込みなさい』と告げられてからは毎食座って先に食べる。
今朝の朝食はジャガイモのポタージュと温野菜のサラダ。それに焼きたてのパンと、搾りたてのオレンジジュース。うーん、豪華。
「まぁ、リックったらいやね。あたし達のキャンディーちゃんが嫁き遅れになったらどうするの? とっとと覚悟を決めてビシッと娶りに来てくれないと。リックが結婚式で花嫁と一緒に歩ける内に来てくれないと困るわよ」
「うぅむ、そうか、アリスと一緒に……そうだな。エディがそう言うなら嫌だが仕方な……いや、しかし折角娘が出来たばかりだというのに、もう結婚とはやっぱり猛烈に嫌だ」
「あー、言われてみればそれもそうねぇ。うちのクッキーちゃんにご執心なハロルド様には悪いけど、確かにリックの言う通りもう少し娘が出来たのだから、可愛く着飾らせてキャッキャウフフしたいわね……」
朝食をパクつくわたしの目の前で繰り広げられるハロルド様下げと、よく分からない義母さんの甘いものメインのわたしの呼び名がくすぐったい。
義母さん曰わく“可愛い物は可愛く呼びたい”という謎のこだわりがあるらしくて、義父さんの独特な感性に付き合える女性に相応しい感性だ。さすがにそろそろ慣れてきたとはいえ、毎朝のことながら“ちょっと特殊”な義理の両親の発言に軽く噴き出してしまう。
養女にしてもらって初日から半月は三人共に猫を被っていたから、こんな愉快な人達だとは思わなかったけど、今ではなかなか似た者“親子”みたいで心地良い。
「あ、そうだ義母さん。今日もちょっと仕事で帰りが遅くなるから、夕飯は義父さんと二人で先に済ませちゃってね。お店でまかない食べてくるからわたしの分は良いよ」
まだ少し気恥ずかしい呼び方で呼べば、二人はそれぞれに嬉しそうな顔をしてくれる。
今わたしは義母さんの紹介してくれた酒場で働いているから、時々人手不足な時間帯にかり出されることがあるんだけど……わたしの言葉にそれまで面白おかしく会話していた空気に緊張感が漲った。
「あら、そうなの? まさかとは思うけど労働時間の無理な延長とかされたりしてる? だったらあたしが話をつけてくるけど」
瞬間、グッと拳を握りしめる義母さんに「大丈夫!」と全力で首を横に振った。誤解を解いておかないと店長が仕留められる。
それに未だに下町の酒場で年配者のファンが多い義母さんだから、下手にわたしに仕事を押し付けたらどうなるか分かっているし、義母さんの紹介してくれた酒場は下町としてはかなり品の良い部類だもの。
「遅くなって変質者に絡まれでもしたら大変だ。仕事が終わる頃に私が迎えに行こう。今日は何時までなんだい?」
横から義父さんがやんわりと聞いてくれるけど「リック、馬に蹴られるわよ?」との義母さんの発言に眉根を寄せた。
「えーっと……まぁ、馬に蹴られるかはともかく、変質者対策はハロルド様がいるから平気だと思うよ」
今日こそお別れしないといけない相手の名前が出てきてしまうのが、何とも言えない気分なんだけど。実際ハロルド様はどこで聞きつけてきたのか、騎士団の仕事帰りにはほぼ毎日のようにわたしの勤め先で一杯呑んで帰る。
そしてわたしの仕事上がりと同時に店を出て、毎晩家までの道を他愛のない会話をしながら送り届けてくれるのだ。
「今日こそ結婚云々の話をお断りしてくる。それで、二人との平穏な生活を送るんだから!」
さっきの義母さんみたいにギュウゥと拳を握りしめて、二人を前に決意も新たにそう宣言する。貴重な穏やかで幸福な日常生活に高望みは、駄目、絶対。
だけどその決意表明に水を差すように「それ、三日前にも聞いたわね」と朗らかに笑う義母さんと「一番危険なのは送り狼だからなぁ」とぼやく義父さんの言葉が耳に痛かった。