*8* 正攻法ばかりでは……。
「嘆かわしいですねぇ、アルバート。貴男はどこまでヘタレなんですか。先日ようやくハロルドが片付いたと思ったのに、本来ならとっくに片付いていなければならない貴男が残るとは、意外も意外ですね」
「…………」
最近毎日のように先日のデートでの失態をつつかれては、あからさまな冷笑を受けるという地味にきつい職場で、俺は今日も今日とて民達からの嘆願や街の治安改善策などを考えて書類をめくる。
クリスの発言にいちいち耳を傾けていては、心が穴だらけになって仕事が手につかなくなる可能性しかない。
「――おや、無視ですか? まぁ、良いでしょう。しかし、でしたらこの言葉も耳に届かないかもしれませんが……もうこのまま正攻法で行っても時間の無駄でしょう。ここは一つハロルドの成功談でも聞いてみませんか?」
その体温の籠もらない声音から出された提案に、思わず無視をして書類をめくっていた手が止まる。
「……結構。では、今晩そのように手配をしておきましょうか」
涼しい顔でいつの間にそんなに片付けたのか“トントン”というよりは“ドンドン”と表した方が良さそうな分厚さになった書類の束を抱えたクリスは、俺の返事を聞かずに席を立った。
それ以上は何も言わないつもりなのか、扉の方へと歩いていこうとするクリスの背に「待ってくれ」と声をかける。すると背中を向けたままのクリスがほんの僅かに笑ったのか、周囲の空気が震えた。
「その、子供っぽい真似をした。すまん」
「いいえ、構いませんよ。子供の扱いでしたら婚約者で慣れていますし……それにどうせ今夜は“大人っぽい”悪巧みを一緒にするのですから。それでチャラにして差し上げます」
そう言い残したクリスはこちらを振り返ることなく執務室を出て行く。残されたのは、手付かずの書類の山を抱えた情けない男だけだった。
***
一日の仕事を終え夕闇が漆黒にその濃さを変える頃、俺達は以前にも来たことのあるクリスご用達の酒場へと足を運んだ。前回同様に個室に通されたお陰で、これからどれだけ情けない会話をしようが邪魔が入らないことにホッとする。
「さて、今日はアルバートの奢りだそうですから、ボク達は精々高いお酒をご馳走になりましょうかハロルド」
言うが早いかさっさと席についたクリスは、早々と本日のお薦めワインのメニューに目を通している。ハロルドの方も「そうか、何か悪ぃな」と言いつつエールのメニューを手に取った。
そんな現金極まる幼馴染み二人の反応に苦笑しながらも注文を済ませる。注文をした物が出てくるまでは真面目に仕事の話をいくらか交わしていたが、酒が運ばれてくると一気に気心の知れた者同士の食事が始まった。
ハロルドは女性関係の奔放な同僚が、色街でやらかした修羅場話を楽しげに披露し、俺とクリスは複雑な表情で相槌を打つ。
会話の選択に失敗したと感じたハロルドは、下町の見回りで得た若い女性に人気の焼き菓子の情報などを提供してくれた。
俺が知る露店の情報よりも格段にひきだしの多い内容に感心しながら聞き入っていると、意外なことに隣に座るクリスも真剣に聞いている。
おそらくは会話中にレイチェル嬢の好みそうな内容を聞きつけたのだろうが、こちらはこちらでメリッサの好みそうな場所や店の情報を聞いていたので、クリスがどの部分に反応したのかは分からない。
しかし何だかんだでクリスもあの歳の離れた婚約者のことを、憎からず想っているのだろう。
「それで結局今日は何の集まりなんだ?」
立て続けに喋って喉が渇いたのか、ジョッキのエールを一気に飲み干すハロルドの為に呼び鈴を鳴らして新しい物を注文する。その横でクリスはボトルからワインをゴブレットに並々と注いであおった。
この顔の綺麗な男は、品良くグラスで飲むよりも本来はこうして飲む方が好きだったりする。せっかくの高い酒もこうして飲むと、下町の飲み屋で呑む安酒と変わらない。それを横目で見ていたら「心配せずとも屋敷ではやりませんよ」とワインで濡れた唇の端を持ち上げた。
「そうですねぇ、ハロルドの脱・童○祝いでしょうか」
「な、んでんなこと知ってんだよ!?」
「いえ、あれだけ貴男のお父様が各所で“これで跡取りの心配がなくなった”と言って回れば、誰だって予想がつきますよ」
「あぁ……そう言えば最近クライスラー殿はやけに上機嫌だったな。息子のお前の将来を余程悲観していたのだろうか」
酒には人の会話を滑らかにする魔力のようなものがある。つい追い討ちをかける気はなかったのに、ハロルドの父親の話題を補足してしまった。
そのせいで今までご機嫌で飲んでいたハロルドが「マジかよ、あのクソ親子……」とテーブルに突っ伏して呻くが、俺もクリスもハロルドがどれだけ溺愛されているのか知っているので、微笑ましいと感じてしまう。
「残念ながら本当ですよ。こんなガタイに成長しても、あの方達には可愛い息子なんでしょうねぇ。しかし、それよりもボクは気になっていることがあるんですよ、ハロルド」
突っ伏したハロルドの旋毛をクリスが人差し指でグリグリと押さえた。見た目では分かり難いが、どうにも少し酔っているようだ。しかしそれを言うのであれば、この場にいる三人共が普段よりも明らかに飲むスピードが早いので同罪か。
「おい止めろクリス。酒飲んでるときにそこ押すな」
「良いじゃないですか別に。精々お手洗いが近くなるだけですよ」
「……それのどこが良いんだ。止めてやれ」
大の男が三人集まってするような会話ではないものの、この気心の知れた関係性が心地良いのも事実だ。クリスは「仕方がありませんねぇ」と人差し指をハロルドの旋毛からどけてやる。
その手でゴブレットにワインを注いで一口飲んだクリスは、うっすら微笑みを浮かべると「さて、冗談はこの辺にして……今夜ハロルドを呼んだのにはちゃんと訳があるんですよ。そうでしたね、アルバート」と言う。
「ああ……そういえば、朝そのようなことを言っていた気もするな」
しかしそう答えはしたものの、こっちは半分飲みに誘う口実程度だろうと思っていたので、急にその話を持ち出されても今一つピンと来なかった。するとすぐさま俺の生返事に気付いたクリスが「誰の為の集まりだと思っていたんですか」と大袈裟に溜息を吐く。
「自分のことだというのにすっかり忘れるとは感心しませんが――。まぁ、それほど現状で追い詰められているのでしょうし、今回は許しましょう。次回からはご自分で何とかして下さいね」
そう言われ素直に頷き返すが、内心高くついたが景気良く酒を飲ませておいて良かったと胸を撫で下ろす。でなければこの後どれほど小言を言われるか分かったものではない。
「何のことか全く話が見えねぇんだが、オレは何を話せば良いんだよ?」
「ああ、いえ、ハロルドそうではなくてですね。これからの話はボクがある事柄について質問というか、仮説を立てますので、貴男はボクの立てた仮説が正しければ頷いて下さるだけで結構です。ご協力願えますか?」
「はあぁ? またオマエは訳の分からねぇことを……って、まあ、いつものことか。良いぜ、付き合ってやる」
あまり物事を深く考えないハロルドの安請け合いに、クリスはとびきり良い微笑みを浮かべて口を開いた。
「では、ハロルドの初夜の話についてなのですが、ことに及んだのは意識がしっかりしている時のことでしたか? それともヘタレが緊張しないように優しい新妻であるアリス嬢が、ベッドに向かう前の貴男に今夜のようにお酒を飲もうと誘ったのではありませんか?」
一瞬その発言にポカンとしていたハロルドはクリスに「どうなんです?」と訊かれて慌てて頷いたが……いくら長い付き合いであっても、無礼だと逆上しても良いと思う内容に素直に頷くなど――……色々と大丈夫なのかこいつは。
「そうですか。ならば実際のところは行為に至った経緯や最中のことは一切記憶になく、翌日ベッドの隣にアリス嬢が一糸纏わない姿で横たわっていたから、昨夜のうちに童○を卒業したのだと結論づけたのですね?」
この問にも素直に頷くハロルド。今度はさっきよりも迷いがない。むしろそこはさっきよりも逡巡すべきではないか? そしてそうは思いつつも、話の流れ着く先が全く読めずにその不思議な光景を見守る俺。
今この瞬間、ここは酒に酔った馬鹿な男共の混沌に満たされている。
しかしここで一つ疑問が生じるとすれば、ハロルドはそこまで酒に弱いわけではない。どちらかと言えば酒豪の部類に足を突っ込む人種だ。アリス嬢がどれだけ酒を嗜むのかは知らんが、ハロルドが正体を無くすくらいに酔うまで付き合えるとは思えない。
そこに「アルバート、ハロルドも。もうお分かりですよね?」とクリスがゴブレットのワインで喉を潤しながら笑う。頷く俺に対して、ハロルドは見当がつかないとばかりに首を捻った。
「……ハロルド、お前はたぶんアリス嬢に一服盛られたんだ。なかなか自分に手を出してこないから、不安になって痺れを切らしたんだろう。そして酔い潰れて眠るお前の隣に服を纏わずに潜り込んだ。朝起きて一番に妻のそんな姿をみれば、女を知らないお前なら確実に勘違いすると踏んで、な」
俺の推測に頷くクリスと対照的に、ハロルドは目を見開いて固まっている。まさか自分を騙したアリス嬢に対して、不信感や不快感を持ったのか?
けれどそう思って慌てた俺と違い、クリスは「健気ですよねぇ」と心からのように聞こえる声音で呟いた。
「健気ですよ、本当に。この件に関してはハロルドでなければ必要のない手間ですが、ハロルドでなければ、バレた時には気分を害する可能性がある。安寧の場所を得た彼女にとっては危険な方法です」
再びワインを注ごうと瓶を持ち上げたクリスは、その中身がすでに空になっていることに気付いて軽く肩をすくめ、続ける。
「そこまでして肌を合わせたい相手に選ばれるだなんて、男冥利に尽きますねぇ色男。そしてそんな健気なアリス嬢は、アルバート。貴男の健気な奥方と大変仲が良い。恐らく自分の使った手を伝授することでしょう。ですが、貴男の奥方はまだその行為を知らない。次にその行為に及ぼうとすればすぐにバレる稚拙な嘘です」
真実を言い当てられ、照れと戸惑いに再びテーブルに突っ伏したハロルドを横目に、クリスは小さく息を吐くついでのように笑ってこう言った。
「……何も追い詰められて八方塞がりなのは貴男ばかりではありません。もしもその手法を用いてまで勇気を出した女性を相手に、いつまでも恥をかかせて逃げるものではありませんよ?」




