*6* 堪えられ……堪えろ。
三日前の夜にメリッサと交わした約束を果たす為に、大量にあった仕事を大急ぎで片付けたところクリスに、
『この早さで書類が片付くのなら、もういっそ三日おきくらいにデートしたらどうです?』
――と、嫌味とも本気とも取れる発言をされて挑んだ休日。
天気は申し分のない晴れ。今回は前回と違って朝から丸一日休みを取ってあったので、身支度を整えてから出かけるまでずっと一緒だ。
今日のメリッサの装いは柔らかいオレンジ色のロングスカートに、胸元にフリルをあしらったクリーム色のブラウスと白のショートブーツ。
緩く太い一本の三つ編みに纏めたメリッサの赤い髪の上を陽光が滑ると、飴細工のようにキラキラと眩く輝く。正直に言って、自国民を含めたこの大通りを歩くどの女性よりも美しい。
周囲を歩く恋人達と同じように指を絡めて歩く石畳の感触は、昔一人でやさぐれた気分で歩いていた頃とは別物のように感じる。
「あの……アル、次はあれを見に行きたい、な?」
まだ慣れない平民の口調を懸命に真似ながら、そう小首を傾げるメリッサを見ていると、もう何でも叶えてやりたくなる自分が怖い。
気になる物を指差せば良いだけなのに育ちがそうさせないのか、メリッサはさっきからずっと気になる物を見つけるたびに、俺の服の裾を引っ張り小首を傾げて見上げてくる。これが計算でないとすれば空恐ろしい。
俺が遊んでいた頃はこの顔が曇っていたのだと思うと、自分で自分を殺したくなるほど腹立たしい気分だ。けれどせっかく得られた休日を険しい表情で過ごしては勿体ない。
「メリッサが気になる物なら俺も見てみたい。何が気になるんだ? 俺をそこまで連れて行ってくれ」
繋いでいる手を引き寄せてそう訊ねれば、メリッサは甘くはにかみながら「こちらで……いえ、こっちよ」と手を引いて歩き出す。その耳が度重なる言い間違いを恥じて赤く染まっているのは知っているが、つい可愛らしくていつも通りで構わないと言い出せずにいる。
肩を震わせて笑うのを堪えていた俺に気付いたメリッサは、ほんの少し恨めしそうな表情で睨み付けてきたがむしろ逆効果だ。いつも城内の自宅でどこか気を張っている様子のメリッサは、外に連れ出すごとに柔らかな表情を見せてくれる。
生涯の“伴侶”として最初に出逢った俺達は、ようやく今“恋人”として理解を深めている最中なのだろう。小さな理解を重ね合って、いつか本当の“伴侶”として長い生涯を添えるように。
人混みを縫って歩くことに慣れていないメリッサの足では、なかなか目的の方向へ進めない。俺はその腰に手を添えて「ダンス会場の要領に似ていると思わないか?」とその耳許に囁きかける。
それだけですぐに俺の言わんとすることが分かったのか、メリッサは途端にその足裁きを変えた。滑るように長く踏み出す一歩。身体は頭の上を糸で引っ張られているように真っ直ぐ保ったまま、もう一歩を踏み出す。
下がっていた視線を上げて顎を少しだけ引く。その途端に、それまでのまごついた足取りが嘘のように滑らかに動き、人混みを避けていく。
スルスルとダンスのステップのように軽快に歩を進めるメリッサのリードに合わせて、俺は人混みの中を進んだ。
***
メリッサのリードで辿り着いた広場では週末の手作り雑貨市が立ち並び、多くの女性客や若い恋人達で賑わっていた。食べ物を扱っている店、手芸品を扱っている店、アクセサリー、花、食器、服、鞄など――。
常設されている市場を見ればその時々の情勢を知れるが、こういう趣味を楽しむ場として設けられる市場は、今の統治がそれだけ平和であることを物語っている。
人で賑わう広場内では一度でもはぐれてしまえば合流するのは難しいだろうということで、俺とメリッサは誰憚ることなく腕を組んだまま店を巡ることにした。護衛をつけずに気ままに、仕事に戻る時間を気にすることなく自由に様々な店を覗いては、店主や客達と他愛もない会話を交わす。
人混みの中では時々メリッサの器量にぼうっとする者もいて、そんな時は我ながら独占欲の強さに呆れるものだが、それとなくその視線からメリッサを隠したりもした。
様々な商品を並べる露店の中でも、メリッサの心を捉えるのはやはり可愛らしい小物やアクセサリーを取り揃えた店が多い。こういった場所に立つ市場では、ほとんどの物が一点物だ。たまに王城の人間に見せても通用しそうなデザインの物もあったりして、人の生まれと才能の不思議を感じる。
たまたま途中で覗いた店に並べてあったペーパーナイフが、書類整理や書状の整理に便利そうだったので、自分の物を購入するついでにクリスの分も買っておいた。二本購入したにも関わらず安い。しかもデザインはくどくなく、王城で使われる品に見劣らないほどに洗練されていた。
ほんの一瞬、こういった場所から見出した職人に仕事を任せる場を作れないものかと仕事のことに意識が飛びかけたが、メリッサが立ち止まった気配を腕に感じて慌てて意識を呼び戻す。
メリッサが立ち止まったのは、色とりどりの鉱石を使ったアクセサリーを扱う露店の前だった。並べてある商品はどれも元の鉱石の歪な形を活かした野趣のある物が多く、王城で見る完璧な美を求めた宝飾品とは全く異なるものの、それはそれで美の形として異彩を放つ。
興奮しているのか頬を上気させているメリッサの視線の先を追うと、そこには波打つ表面をバラの花弁に見立てた赤い鉱石で作られた首飾りが一つ。
自然石特有の濃淡がある赤い石で出来たバラは、最近以前にも増して色々な表情を見せてくれるようになったメリッサのような魅力がある。
“あのバラの首飾りをつけたメリッサを見たい”と、そう思った。
「その赤いバラの首飾りをもらおう。すぐにつけるから値札は切っておいてくれ」
突然俺がそう言ったことに驚いた様子のメリッサが、こちらを見上げてくる。“どうして”とでも言いたげなその表情が愛おしくて、思わず人目がある場所だということも忘れて口付けたくなるのをグッと堪えた。
支払いを済ませて受け取った商品をその場でつけても良かったのだが、そうするとメリッサの白いうなじを人前に晒すことになる。別段見られたところで減る物ではないが、それは何となく面白くない。
この場で首飾りをつけて喜ぶメリッサを見られないのは残念だが、場所を変えてその表情を独り占めしたくもある。そんな自分の意外な執着心と独占欲に内心焦りつつ、メリッサに「疲れただろう? どこかで休憩しないか」と提案すれば、メリッサは微笑んで疑うことなく頷く。
そこでメリッサが友人二人と会う際に利用するという喫茶店に移動してお茶を楽しんだ俺達は、そのまま家に――……帰らなかった。
というのも、お茶を終えて店を出たところでメリッサが「秘密基地に行きたい、な」と辿々しく言うものだから、断れる訳がない。次に仕事が捌ききれるのがいつになるか分からない以上、今日叶えられることは全部叶える。
そう意気込んで前回同様にからかわれながら、あの下町の裏通りを突っ切って逃げ込んだ“秘密基地”。その玄関先に入った瞬間、メリッサは俺を振り返って「もういつもの口調でよろしいですわよね?」と微笑んだ。
無理に砕けた口調で辿々しく話しかけてくるメリッサは可愛いが、やはりその聞き慣れた口調にホッとする自分も確かにいる。
「そうだな……あの話し方も新鮮で良いが、そうするとメリッサの声を聞く機会が減ってしまうからな」
「……まぁ、そのことに気付いていらしたのに、ずっとわたくしに教えて下さらなかったのですか?」
「あぁ、つい舌っ足らずになるのが可愛らしくて黙っていた。妻をからかった夫を許してくれるか?」
デートの最中ずっと指摘せずに黙っていた俺に対して膨れるメリッサにそうおどけて見せれば、メリッサは「ふふ、本当に……狡い旦那様ですわね」と柔らかく笑う。そんなメリッサを抱き寄せて、その先にある狭いリビングに案内する。
ここへメリッサを連れてくるのは二回目なので、まだ一脚しかない椅子にメリッサを座らせ、広場で買ってきたバラの首飾りをその目の前に広げて見せた。濃淡のある首飾りに、外の夕日が差し込んでキラキラと輝く。
「……俺につけさせてくれるか?」
何となく気恥ずかしくて小さくそう言うと、メリッサも頬を赤らめて頷く。椅子の後ろに回り込んだ俺の前で、メリッサが少し乱れた髪を持ち上げて白いうなじを晒す。
触れれば溶けそうな染み一つない白い肌に、赤いバラの首飾りが見惚れるくらいに良く映えた。金色の華奢な金具を留めて「出来たぞ」と囁けば、振り返ったメリッサの潤んだ瞳が間近にあって。
“この瞳を見つめてはいけない”と、頭の中で警鐘が鳴り響く。うっすらと開いた赤い唇が、この幼い関係を崩す言葉を紡ぐその前に――……俺は狡い口付けを落とした。




