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空気の匂いが変わっていた。混沌の気配が感じられぬ。
目を覚ましてみれば、そこは見知らぬ土地であった。
迫る混沌より遠く離れたる地へ。
いかにして逃れたかは、セレナにも分からない。
いずれにせよ、己が身が千里の彼方にあると気づかされるのは随分、後になっての事であった。
アウナン王がお呼びだ、ついてまいれ。
石造りの砦、聞きなれぬ言葉。
粗末な小屋の寝床で目を覚まし、手足萎えたセレナが案内されたるは砦の一角。
もはや国も滅びた王を前に、いずこの兵か。些か簡素に一礼の後、早足にて持ち場へ戻っていった。
王の御前。
鋭き眼で射抜くがごとくセレナを見つめるは、まぎれもなく塔でまみえた彼の仁で、
セレナを見るなり、一言告げた。
混沌が巣食ったか。
一言に背筋が凍るも、卓に指輪が投げ出された。
混沌を封じる力を持つ。汝に伝言託した翁の置き土産よ。
手を振り、下がれと、簡潔な命。拙き礼をし、セレナは下がった。
それが最初で最後の邂逅。
混沌の戦役にてセレナの果たせし役目は終わりを告げて、乞食と王の再び見えし時は、千年後の昨日であった。
イシュタリアとアウナン。
言葉と風俗習慣異なる地なれど、奉じる神々共に等しく、文法とてさしたる違いもない。
故に程なく言葉は覚えた。
道を歩き、最初に気づいたるは、空気の軽さ。
ケイオスの気配が遠く薄れて感じられぬ。影も消えた。
行き交う人々の顔は明るく、家畜の類も怯えておらぬ。
指には布切れ。金の指輪は目立つに過ぎる。
熱は冷めた。頭痛も消えた。
脳髄刻んだカオスの記憶。
混沌潜んだ記憶も忘れて、此処はいずこと呟きを漏らした。
ふらつく足で迷い出れば、街路は入り組み、狭き路地にも糞尿、残飯、死骸の悪臭立ち込める。
砦を出たセレナは、そのまま天を仰いで吐息を漏らす。
財を無くし、家族を亡くし、故郷を失い、かろうじて命は拾ったものの、裸一貫で途方に暮れる。
異国の地にて、如何に生業を立てるべきか。思案しつつ、セレナは襤褸を纏いて歩き出した。