18 セレナ・バルネは気持ちが弱い
暖かな食事をとった後、ミリアムの天幕を後にしたセレナは僅かな貨幣を懐に河原を歩きだした。
澱んだ眼差しで公界を行きかう悪党や浮浪児たちの、誰も彼もが自分の一挙一動に注視しているように思えて酷く落ち着かない。
食料と銭のやり取りは天幕で済ませたし、女乞食が持ってるとしても僅かな銭を目当てに公界でもめ事を起こす者がいるとも思えない。
錯覚だと自分に言い聞かせるも、歩くうちに背中を嫌な汗がじっとりと濡らしていた。
市街地との境界にある土手を進みながら時折、食べられそうな野草を見つけてはそっと摘んでいく。
その振りをして後を尾けてくる者がいないか。ちらちらと確認する。
頬の肉が削げ落ちた禿頭の浮浪者が、背後から細い目でセレナを見つめていた。
大きな拳が印象的だった。勝てる気がしない。が、体が勝手に怯えて竦んだセレナを見た浮浪者は、鼻で笑ってから立ち去っていった。
偶々、目が合っただけか。ホッとして額から噴き出た汗を拭いさる。
通りすがっただけの浮浪者が、天幕内のやり取りまで熟知しているように思えて、頭がおかしくなりそうだった。
数日前にも、街道で若い巡礼の骸を見かけた。懐は荒らされ、衣服は奪い取られていた。
巡礼用の杖だけが、墓標のように傍らに突き刺さっていた。残されていたのはそれだけだ。
僅かな金を奪う為に殺されたか、飢えと寒さに行き倒れたのか。
死ぬ。人は死ぬ。あまりにもあっさりといなくなる。貧者にとっては、銅貨の一枚が生死を分ける境となりえる。金があっても盗賊に襲われ、或いは病に倒れて死ぬ。この世界には余りにも死が溢れている。
数日前まで公界で見かけた老乞食が朝に冷たくなっているなんてのは、珍しくもない光景だった。
セレナは恐くて泣きたくなった。今までは用心深く避けてきた。
大丈夫だ。金を使ったこともないから、金を持っているとも思われないだろう。
だけど、それは飢えても下手に金を使えないということを意味していた。
薄汚れた物乞いが買い物をできるのは、それこそ公界か、貧民窟くらいのものだろう。
下町でも出来るかも知れないが、試す気にはなれない。
イゼルダ市の衛兵たちは、怪しげな浮浪者やよそ者に対しての容赦のなさで知られているのだ。
そして貧民窟も危うい。貧民窟に屯する悪漢どもにとって、弱そうな乞食なんて絶好の餌でしかない。
例え、得るものが数枚の小銭であっても人殺しを躊躇う連中ではない。
人相の悪い小男とすれ違った。こちらの様子を窺っていた気がする。
もし襲われたら、どうしようか?
追いかけてきたら、杖で応戦しよう。
飛び掛かってきたら、組み付かれる前に躱せるだろうか?
頭の中で試行錯誤したセレナは、髪の毛を掻きむしって低いうめき声を漏らした。
(ああ、駄目だ。妄想の中でまで喧嘩に負けてるよ。どんだけ弱いんだ。わたし)
近くにいた悪人面の小男が完全に狂人を見る目つきで脅えながら離れていくのにも気が付かずに、セレナはぶつぶつと呟きながらイゼルダ市の城門へと向かった。
本来のイゼルダ市は防壁に囲まれた山の手であり、後から拡張した下町や貧民窟は防壁の外に広がっていた。
故に下町への出入りは自由であったが、近年は、木製の壁に空堀ではあるが、拡張した新市街も守るように第二の防壁が築かれつつあり、門兵が配置された為、いずれは下町も今のように気ままに出入りできなくなる日が来るだろう。
それでも人の出入りは工房、店舗や寺院が多く集まった山の手ほどには厳重に見張られている訳でもない。
城門の向こう側。イゼルダ市の下町にある風の女神の寺院前広場には、今日も無数の屋台が店を開いていた。
黒い鎧兜を着込んだ長身の衛兵が斧槍を掲げて下町への来訪者たちを見張っている。
厳めしい兜には恐ろしげな装飾が施されており、傍らで門に鎖で吊るされた鉄の籠には、浮浪罪で捕まった乞食が閉じ込められていた。
鈍い光を放っている斧槍の鎧武者の目の前を、俯いて通り過ぎる。
衛兵の目を盗んで下町に入ろうとしなければ捕まることはないし、危険な貧民窟に敢えて入ろうとも思わない。
此の侭、イゼルダ市の下町と貧民窟、そして公界の境界である門前町から街道へと歩を進めようとしたとき、香ばしい匂いがセレナの尾行をくすぐった。
好物だった豆を焼いた香ばしい匂いが城門の向こう側、寺院前広場にある屋台から漂ってきていた。
腹がぐううと大きく音を立てて鳴った。
思わず、ふらふらと歩きだして門に入ろうとする。
懐から財布を取り出し、小銭を取り出した。私鋳銭でも6枚あれば、焼き豆程度は買えるだろう。
掌に小さな貨幣を握りしめて門に入ろうとした時、衛兵が斧槍の柄で強く地面を打った。
びくりと体を震わせて、衛兵を仰ぎ見る。
「あ……お、お金あります……ちゃんと」
おずおずと見せるが、衛兵は無反応だった。微動だにせず、フルフェイスの為に表情も見えない。
ただセレナを凝視しているのだけは、恐ろしい兜の向こうの視線から感じられた。
強い風が吹いて、逮捕された乞食を閉じ込めた鉄の檻が不気味にぎいぎいと揺れた。
ぽろぽろと涙が零れ落ちた。一歩、下がり、二歩下がり、三歩目には駆け足になっていた。
(あぁ、もう、私は何歳だ!十八だぞ!次の誕生日で!馬鹿じゃないのか!
子供みたいに泣きべそかいて。何度も惨めな目にはあったじゃないか!)
だが、どうしてか涙が止まらなかった。小銭を握りしめ、地面を駆けながら、理由も分からずに熱い涙がセレナの頬を滴り落ちていった。