17 私鋳銭
知己の娼婦ミリアムの天幕を訪れたセレナは、木の実に香草、コケモモなどのベリーの類が入った籠を手渡した。
満たされた籠を受け取ったミリアムは、頷いてカバンから財布から取り出した。
「4……5……6枚と」
一枚一枚数えてから薄い錫製の貨幣をセレナへと手渡すと、手を掴んで引っ張った。
「まだ昼飯が残ってるよ。食べていきな」
ミリアムとの取引は正直、割が良い訳ではない。
籠一杯の食糧に対して、セレナが受け取ったのは私鋳銭が6枚。
王国が鋳造している銅貨に比して私鋳銭の価値は4分の1に過ぎず、しかも、町の近隣だけでしか通用しないと来てる。
酒場でエールの一杯も頼めば、それでお終い。早朝から昼まで働いた対価としては微々たるもので、農場の娘であった頃のセレナであれば到底、取引しようとは思えない条件だったが、実際のところ、定住民が住まう都市区画と、貧民や流浪民が集う公界ではかなり物価が異なっている。
町での生活には貨幣が不可欠だが、農民や放浪民の暮らしには物々交換が根差している。
混沌によって滅びた中央諸国のように貨幣で税を納める土地であれば都市の力が強くなるが、イシュタリアの農村では未だ物納が主流であって、町の外で暮らすのであれば貨幣を持たずとも生きて行くことはできるのだ。
農村では多少割安となるが、町の食堂などでたらふく食べれば銅貨2枚でもとても足りない。
これが貧民窟ならば、爪先ほどの大きさの錫貨が二、三枚あれば、取りあえずは腹を満たすことができる。
それが例え、何の動物か分からない肉と屑野菜が浮かんだスープや雑穀を煮た粥であっても、食べ物であることに変わりはないのだ。
(……お先真っ暗だな)
天幕から出たセレナは嘆息した。
振舞われた料理は旨かった。ミリアムはいい奴だ。感謝もしている。
セレナにとってまともに物々交換してくれる伝手がミリアム以外いないのが実情であるけれども、幾らかは足元を見つつも、食っていけるだけの支払いをしてくれる。
無宿人に転落してから出会った中で、もっとも公正で誠実な人物なのが娼婦なのは笑うべきか。
(……生かさず殺さずかもしれないけれどさ。それでもいい奴だよね)
懐にしまい込んだ皮財布の、黒く汚れた十枚足らずの私鋳銭がセレナの持ち金全てだった。
(金は全て無くしても食べ物はある。隠した食べ物を全て盗まれても2、3日は大丈夫。両方取られたらお終いだね)
今のセレナはただ生きるのに必死で、将来の展望など考える余地もなかった。
家族と過ごした過去の幸せな日々も遠い記憶となりつつある。町の人間から向けられる苦い蔑みの眼差しと、抗う術も這い上がる道も持たない己の非力さが日々心を削り取っていく。
心のうちに苦痛と恐怖だけが少しずつ注ぎ込まれ、彼女の器を毒のように満たそうとしていた。
(ああ、【これ】か。【これ】なんだ)
天幕の周囲に屯している社会からの追放者の中でも選りすぐりの悪党たちを、セレナは静かな表情で眺めた。
武装した放浪者の集団は、火を囲みながら過去の悪行について自慢していた。
落ちくぼんだ眼をした痩せた浮浪者たちは、卑しい笑みを口元に張り付けて、老いた旅人や貧しげな巡礼たちを眺めている。
揉め事禁止の公界だが、町から離れた途端に盗賊に襲われる旅人の例は後を絶たない。
恐らくは不用心な犠牲者を値踏みしているのだろう。
(……この境地を何と言えばいいのかな。私には、よく分からないや)
胸にぽっかりと穴が開いて、そこを冷たい風が吹き抜けていくような感覚をセレナは覚えていた。
暗く深い穴を何処までも落ちていく錯覚にセレナは蹲り、目を閉じて何かに必死に耐えた。
自暴自棄な気持ちが湧いてくることが多くなってきている。少しずつ心が荒んでくるのが分かる。
過去の自分が恐れ、憎み、蔑んでいた残虐無比な匪賊の気持ちが初めて分かった。命には価値がない。殺して奪い取るのは当たり前の生き方で、良心なんてものは捨て去れるのだと内なる獣が囁いていた。
(もしかしたら、いつか、私も盗賊になるかも知れないな)
生まれつき良心の少ない人間もいるのだろうし、絶対にならない人間もいるに違いない。
だが、世の大半の者は、良くも悪くも凡人なのだろう。
悪党として生きる他に道が見つからない時、いったい、どれだけの人が抗えるだろうか。
(このままだと、そう遠からずに私も荒むだろうな。
でも、それはまだ先だ。盗賊になるとしても、もう少し……ギリギリまで粘ってみよう)
幸いというべきか、小柄で非力なセレナだから、強盗にだけはなれないだろう。
「……手遅れになって、野垂れ死にするかも知れないけれどさ」
ふひっと自嘲気味に笑いながら、セレナは河原を歩きだした。
【メモ】
眼帯 左眼
中央諸国 ファラディアス
イゼルダ 町の名前
フォル 青銅貨 4リルガムの価値
リルガム 小さな私鋳銭 token 町で鋳造されてる地方貨幣 1/4フォルの価値
イシュタリア 中央諸国より南西の半島