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「ミリアム。あたしの名前」
名乗りと共に女は笑顔になった。
何処か食えない、その癖、人懐こそうな印象を与えてくる笑みだった。
やっぱり猫っぽいな。それも都市の下層でふてぶてしく生きている野良猫だ。
そんなことを思いつつ、セレナは椀を胡坐をかいた足の狭間に置いた。
自らの名を明かすべきか。一瞬だけ躊躇するが、何者でもないのだ。
名乗って悪い事もあるまいと判断してうなずいた。
「……セレナ。見ての通りの根無し草。文無し」
「見りゃ分かるよ」
再び笑ったミリアム。最初に会った時、惜しげもなく扇情的な裸身を晒し、肌からは男女の情交特有の饐えた甘酸っぱい匂いを漂わながら、刃のように鋭い目でセレナを射抜いてきた。
昼食を振るまってくれたのは、子供への食事の礼なのだろう。
それにしても、腹一杯になるまで馳走してくれたのにはセレナも驚いた。
野菜くずと肉が浮かんだスープは、貧民にしては贅沢な食事に思えたが、兎も角、久しぶりに塩分を取れた。掌に温まった息を吹きかけながら、セレナはミリアムやその他の女たちを観察した。
三十路の年増女から、十を幾つか出たかという少女が輪になって客の値踏みやら、景気やらを歓談していた。
女の一人は、赤子を胸に抱いている。毛布の上でごろごろしている幼い子供は、ミリアムの子ではなく仲間の一人の忘れ形見なのだと聞かされた。
久しぶりに腹がくちくなった為か、セレナを眠気が襲ってきた。
「なんで飯食わせてくれたん?」
欠伸を噛み殺しつつ直截に尋ねてみると、ミリアムは眼だけで笑った。
それなりに稼げているとしても、ミリアムたちも漂泊の民。
拠って立つ土地を持たない根無し草であることに違いはないのだ。
見ず知らずの娘に振舞う食事にしては、いささか気前が良すぎるような気がした。
が、それは元々、土地に拠って生きる定住民であったセレナの考え方に過ぎないのかもしれない。
「あんたさ、ジールに食い物やっただろう?」
ミリアムがつぶやいたのは、幼子の名前か。
眠気に襲われたのだろう、今は毛布の上でこくこくと舟をこいでいた。
言葉を続けながら、ミリアムは鍋に薪を足した。
「見ず知らずの子供に、さ。あんたにとって、あの豆は軽いもんじゃなかっただろ?
それがなんか嬉しくなってね。若いし、綺麗な顔してるしで、礼をしようと引っ張り込んだら、女の子だった」
ミリアムが照れたように笑っていた。透明な笑みの邪気の無さに、驚きと共になぜか泣きたい気分に襲われたセレナは、慌ててそっぽを向いた。
石造りの橋の彼方で、夕日が大地を赤く染めていた。
吹いた風に草原が揺れている。
橋の下で、静かに寄り添った老いた盲目の乞食たちの傍ら、手作りの楽器を鳴らす見習い吟遊詩人の下手糞な歌が河原に響いていた。
眠気が襲ってくる。
腹の底では、ミリアムが自分を売り飛すつもりではないかと警戒していた。
今は、どうでもいい。無防備に天幕で眠ってしまっても、許されるような気がした。
世界は残酷だけれども、少しくらいは優しさも転がっているのかもしれない。