混沌の戦役
生まれ落ちたのは、絶望の時代だった。
灰の匂いがした。
焼け焦げた土地の残滓だ。
漆黒の荒野が広がっていた。
何もかもが焼き払われて、文字通りに骨一つ残っていない。
混沌への恐れが残された死体までも人々に砕かせた。
緒戦であったが故の余力であろう。今はもはや、そのような力はどの国にも残っていない。
死と恐怖が大地を覆い尽くしつつあった。
闇の勢力が大陸を席巻し、人々の嘆きと絶望が地を満たしている。
今度こそ、救いはない。文明は打ち砕かれ、歴史は闇の中に消え去るだろう。
混沌が勝利を収めつつあるのは、誰の眼にも明白であった。
そこまで考えて、セレナはすすり泣いた。
死にたくない。死にたくない。と嘆きの声を上げる。
だが、竜屠りし勇者でさえおびただしい混沌の軍勢の前には無力だったのだ。
寄る辺なき難民の娘になにが出来よう。
力が抜けて地にへたり込みそうになるも、歯を食いしばって立ち上がり、萎えた足を動かす。
逃げてどうなる、と絶望が背後から囁いた。
ほれ、彼らは、もう、すぐ其処にまで迫ってきておる。
股を開け。媚びるがいい。そうすれば、混沌の雑兵の性奴隷としてほんの僅かの間、生かされるかもしれんぞ。
影の囁きが聞こえる。本当に耳に響いている。悪意と嘲弄に満ちた、おぞましい声で語りかけてくる。
多くの人々が狂った。絶望に支配され、殺し、死に、稀には醜い魔物と成り果てた。
難民の群れから、煌く鎧の軍勢から、寺院に籠る僧の列から、壁に守られし城から。
抱かれた赤子が、古強者が、祝詞唱える徳高い僧侶が、絹纏った美し姫が。
一瞬にして、腐り、粘液に成り果て、増殖し、無数の手足や目を生やし、人々を食らい。
西方に名高き中央王国は、混沌の出現より、数刻で滅亡した。
隣国は数日。祖と文化を共にする近隣七か国が滅びるまでひと月。
そしてほんの一年で文明と宗教を同じくする西方諸国の過半が滅びようとしていた。
何処へ逃げようというのか。残余の諸王国が如何に死に物狂いとなろうとも、到底、持ちこたえられるとは思えぬ。
混沌の力は、およそ人の立ち向かえるものではない。
漆黒の鎧纏ったケイオスの戦士たちは、西方諸国の華とうたわれし騎士たちを藁人形のように切り裂いた。
出来れば、楽に死にたい。だが、その為には混沌の領域からもっと遠ざからないと。
混沌に魂を食われるのは嫌だった。
混沌の領域や戦場で死んだ者共より、蒼白い燐光が混沌の生じた土地へと吸い込まれるように飛んでいく。
そこに苦悶の表情を浮かべた人の顔を見て以来、セレナの夜から安眠は消えていた。