リアリズム
アーネットの目覚めた知識欲は、伯爵が家を訪れる度に増していく。現代では子供の「なぜ、なに」は当たり前の光景だが、中世にあってはそんなことにとりあってくれる大人はいない、人々にゆとりも知識もないからだ。
だが伯爵はそんなアーネットに教師をつけることにした。最初は教会の修道院学校を勧めたのだが、通って1週間目には「つまらない」と不満をもらした。曰く先生は質問には答えてくれず、神の言葉を暗唱させることしかしない、ということだった。
教会の学校では彼女の知識欲を満たしてくれない。そう考えた伯爵は新進気鋭の教育学者に彼女の教育を任せてみることにした。その学者とは、リアリズム派と呼ばれる学者で、当時、急速に発展していた科学から、自然の法則性を見出し、それを人々の生活に結び付けて考える教育法のことで、現代では当たり前の教育方法なのだが、当時の宗教=神の教え、が一般的な世界では常識を覆す考え方だった。
その教育とは、物理学や天文学、地理や医学といったものから物事の真理を探ることから始まる。例えばピザの斜塔から重い球と軽い球を落下させて、どちらが地面につくかを計測したガリレオ・ガリレイの実験だったり、振り子の法則だったりする。もっとわかりやすい例を示せば、子供の
「どうして空は青いの?」
といった質問にも、プリズムによる光の分散を見せて、光はその波長から色が変わる仕組みを説明し、結果、空の色が青くなる理由を導き出すといった感じだ。
同様にして、天文学からは地動説を教えて、この世界が中心ではないことや、人体解剖学から人の体の構造を説明し、身分や人種、男女によって何ら差がないことを学んだりした。これらは、アーネットに当時の宗教的妄信を抜け出し、世の中の公平性や客観的事実に基づく判断の重要性を理解させるものだった。
当時の王族や貴族といった支配者階級の子供は宗教や戒律といった既存のしきたりの学習が欠かせない。なぜならそれらこそが、支配者が支配者たる理由の源であり、それらを学び、継承し、次代の支配者になる必要があるからだった。
一方平民の子は、親の仕事の手伝いに駆り出されて勉強などしている暇がない。良くてマイスター制度で、家業をついで、職人になるための技術を習得するといったことになる。
アーネットは、平民ではあるが、親の仕事を手伝う必要もなく、また貴族のようにしきたりに囚われる必要もなかった。だからこそ彼女は自由な意志により、学ぶことができたのだ、この時代の女性として大変、貴重な子供時代を過ごせたといえる。このことから彼女は宗教の伝統や慣習に縛られることなく、自由な発想で考えることができるようになっていった。
彼女が8歳の誕生日に、伯爵は彼女からお祝いに剣術を教えて欲しいと懇願された。実はそれまでにも、何度かお願いされたことはあったのだが、これだけは彼女の希望とはいえ、容易に応じることはできないと思い、はぐらかしてきたのだ。だが、今回は誕生日のお祝いという無下に断ることのできない状況な上に、彼女の目つきも必死なのを見て、伯爵もさて、困ったと腕組みをした。
いくら彼女が聡明で学業に秀でているとはいえ、彼女は女だ、しかも町娘なのだ、武術が必要になることなどないだろう、何より刃物は危険が伴う、武術は身を守ることができるが、同時に人を傷つけることもできるのだ。それが彼女の人生にとってプラスかマイナスかと問われれば、プラスよりマイナスの方が多いいように思えて仕方ない。
なんとかうまい断り方はないかと悩んでいると、彼女は伯爵に、試験をして欲しいといってきた。男女平等を学んでいるアーネットには、伯爵が自分が女だから必要ないといういう理由に納得がいかない。そこで、男に良くて、女にダメというのなら、男女にどんな差があるのか、それを試験で試すよう提案してきたのだ。
「どんな試験だろうと、伯爵が決めたものであるのなら、それに不合格なら武技の勉強は諦める」
とアーネットは言うのだった。アーネットは伯爵の言い分には納得がいかないが、伯爵の判断や存在を日頃から尊敬している。その伯爵が試す試験に落ちるのなら、自分に適性がないのだからあきらめようと思っていた。
一方の伯爵としては、彼女の真剣な眼差しから安易に否とはいえず、仕方ないと、試験の課題を考えはじめた。もちろん彼女を諦めさすためだ。武の道を究めている彼としては、どんなに必死に願われても、自分の歩んだ道を、彼女に辿らせることなど、到底できない選択だった。それは彼女への愛情が深ければ深いほど、受け入れられない希望だった。
とはいっても8歳の女の子に、到底ムリな難題を押し付けて、まったく受かる見込みもないのでは、あまりに大人げないし、彼女も納得しないだろう。一見彼女にもできそうに見えて、実際に行うと難しいものを選ぶ必要があった。
こうして、悩んだあげく、伯爵が選んだ課題は「あっち向いてホイ」だった。
あまりにも滑稽というかお遊びと思われるかもしれないが、実は剣術と似たところがあるのだ、反射神経はもちろん、相手の行動を予想する観察眼と自分の行動を相手に悟らせない演技力も必要になる
「これを10回戦して、私に勝ち越し(6勝)したら教えよう」
といった。実は伯爵からしたら、彼女に1敗でもする気はないのだが、最初から彼女が1勝でもしたら合格といっては簡単に聞こえてしまう、ここは勝ち越すという、勝負の厳しさを印象づけつつ、最終的には、彼女に1勝もさせずに完敗を味合わせることで、自分の才能の無さを実感して、再び願い出る芽を摘もうと考えたのだった。
では勝負ということになり、二人が向かい合いに座り、いざ始めようとした時、伯爵はアーネットの目つきが変わるのを見て一瞬戸惑った、目つきだけではなく、形相まで一遍したように感じられた、けっして怒っているわけでもなく、目がつりあがってるわけでもない、ただ彼女から感じる雰囲気が、それまでから一瞬にしてかわったように感じたのだった。その威圧ともとれる雰囲気に気を取られたのか、
「最初はグー、じゃんけん、ポン!」と出した手でまず敗北、続いて
「あっち向いて、ホイ!」と、アーネットの小さな人差指が「ビシッ」と上を指すと、伯爵の首は暗示をかけられたの如く、上を向いてしまう。
あっさりの1敗目に、伯爵は唖然とした。彼女の気配をまったく読むことができなかった。いやそれ以上に、自分の意志に反して、強制的に彼女の指に引きつけられるように、上を向かされてしまったように感じられたからだ。
たかがお遊び。しかも8歳の子供相手だ。だがそれが故に、言いたくはないが、自分はこの大英帝国の伯爵であり、10万の大軍を動かす将軍なのだというプライドが、「負けるわけにはいかぬ」というメラメラと燃え上がる勝利への欲求を呼び起こしてしまう。
「あー、はっはっは、これはやられてしまったな」と余裕をみせた笑いを演じつつも、目は笑っていない。これ以上は私のプライドに掛けて「勝たせはしない!」と、渾身のじゃんけんを右手に込めるのだった。
5分後、全敗したのは伯爵だった、無邪気にぴょんぴょん跳ねて喜ぶアーネットに、伯爵は苦虫を100匹くらいかみつぶした形相で、睨みながら剣術の稽古をつける約束をしたのだった。
「くっそーこんなことなら、もっと体力勝負の問題にすべきだった」
と思ったがあとの祭りだった。