信頼
アーネットはウィリアム伯爵の助けもあって、内密にではあるが、王家から保護されることになった。王宮に住むことはできないが、帝都ロンドンの中流家庭の娘として生活する保障をされたのだ。とはいえ王室にとってはアーネットの存在は絶対に秘密にしたいところなので、大富豪ではなく、街の裕福層といった感じの葡萄酒商(ワインの製造・販売)を経営するホワイトダウンズ家に預けられることになる。
アーネットの養父になる夫妻には、アーネットのことは、さる没落貴族の子としか説明されていないのだが、それでも一生涯の生活費として振り込まれた金額をみて、この子はただならぬ存在なのだろうことは予測された。だが、それらを詮索しないことも暗黙の了解である。つとめて夫妻はアーネットに自然な感じで接しようとしてくれた。
この夫妻には二人の男児がいて、3歳と7歳で、丁度アーネットが5歳と二人の中間に位置し、3兄弟に見える。だが長男からすると急に現れた彼女に違和感を隠し切れない、両親も彼女のことを気遣い、何かと彼女の心配をするのが面白くない。義兄はアーネットに対し反抗的な態度をとってしまう。
「お前の髪はなんでそんなに真っ白なんだよ」
と外見の違和感を責めてくるのは子供の特徴である。それに対してアーネットは義兄の憎悪の感情を感じとって
「ごめんなさい。ごめんなさい」
と謝り、ついには台所に置いてあったハサミで肩まであった髪をバッサリとショートにカットしてしまう。これを見つけた母親が慌てて
「どうしたのアン? その髪は」
とびっくりしてかけつけると、すぐに原因を察知して義兄の手を取ると「またあなたでしょ?」と言って納屋まで引っ張っていき中に閉じ込めると
「晩御飯は抜きよ。お父様が帰ってきたら、お説教ですからね」
ときつく言いつけるのだった。そんな理由も聞かずに、すぐにアーネットを第一に気遣うところが気にくわない義兄は、ますますアーネットに反抗的な態度をとってしまうのだった。
そんな義兄の気持ちと、両親の自分への気遣いを感じることができるアーネットは、自分がこの家に来たことによって生まれてしまった軋轢を申し訳なく思って、義兄のどんなイタズラにも、ひたすらお詫びの姿勢を貫いていた。
養父母はそんなこともあり、ことあるごとに
「何か欲しいものはないか?」とか
「寂しくはないか」とか
「不満はないか」と聞いてくるのだった。
そんな養父母の気遣いを嬉しいと感じるアーネットだが、その後ろから恨めしそうな視線をおくる義兄を感じると、この養父母の気遣いが一番辞めて欲しいことなのだが、それは自分を思って言ってくれてることなので、面と向かって養父母に気をつかわないで欲しいと言うことは、やっぱりアーネットにはできなかった。
だが、義兄の気持ちの半分は親の愛情をとられてしまったことによるものだが、もう半分は実のところは、アーネットの容姿に恋心を覚えてしまったことにあるのだった。彼女の髪の色を責めたのも、その美しすぎる銀髪が気になってしまったせいなのだ。そんな訳で、親からアーネットにちょっかいをだすなと叱責されても、興味があって、自分に好きな子を振り向かせたいという歪んだ感情は止められない。
こうしてホワイトダウンズ家の小さな感情の堂々巡りは、いつまでもループし続けるのだった。
そんなホワイトダウンズ家の状況を一切理解しない能天気な訪問者が月に何度か屋敷を訪れる。それはウィルという名で庶民に化けたウィリアム伯爵だった。伯爵はアーネットがお城に突撃して以来、彼女のことを気にかけていた。いや正確には興味をもったと言った方が正しい。そして今日もまたズカズカと屋敷にはいって家人に挨拶をした後、アーネットを見つけると
「よーアン、元気だったか?」と陽気に声を掛けるのだった。ちなみに義兄はウィルの訪問を最初は、またアーネットの心配をする人物が増えたのか、と心よく思わなかったが、ウィルが海外冒険話をするようになると、それに憧れるようになり、彼も訪問を楽しみするよに変化していく。
「あ、ウィルさん。いらっしゃいませ」
とアーネットは丁寧にお辞儀をして挨拶をする。
伯爵からすると、もっとフランクに話して欲しいのだが、アーネットのこれまでの境遇を知ると、それは無理からぬところだと思うのだった。3歳の時から辛い労働をさせられ、つねに罵声の中で育ってきて、母と死別とくれば天涯孤独、人に対して臆病になってしまうのは仕方がない。
貴族と庶民、会社に置き換えれば雇用する側と雇用される側というのは、この時代、(今の時代でも同じかもしれないが)生まれながらにそれは決定されていて、なかなか覆ることはない。そもそも覆そうとも思わない。それが当たり前のこととして定着してしまっている。それは支配する側からすると都合がよく、身分制度は上の者は下の者を見て、不満を解消する。なので下から上へは反発されない。最下層の貧民は酷使され、嘲られ、疲弊して反発する余力さえ残っていない。それを救うのが宗教であったりする、そんな構図ができあがっている。
ともあれ、アーネットは今や王女なのだ。実際はその位は与えられないが、誰にも束縛されることがない地位にいることは事実なのだ。そして何より、あのお城で見せた行為が伯爵の脳裏には焼き付いている。国務大臣を前に5歳の女の子が、あれだけの大立ち回りをしたのだ、しかもあの不思議な能力。絶対、彼女は只物ではない。そう思うと、身分の呪縛をといて、彼女にはもっと自由に生きて欲しい。そう思う伯爵だった。
伯爵は何度か足を運ぶうちに、ア―ネットが心を開いてくれてるような気がした。
アーネットにとって伯爵は恩人であり、とてもお国のお偉いさんであることはわかっていた。だがそれ以上にどうして自分に優しくしてくれるのかはわからなかった。それでも、時々彼が家に来てくれて、「元気か?」と気軽に声を掛けてくれて、大きな手で頭を撫でられるのを、いつしか心地よいと感じるようになっていた。
「寂しくないかい?」
とは、皆がアーネットに聞いてくる言葉だった。アーネットのそれに対する答えは常に「大丈夫です」だった。それは自分を心配してくれる人に救いを求めることが我儘なような気がしたからだ、お腹が減った時は、食事を要求しなければ死んでしまうので仕方がない、でも寂しいからといって、死んでしまうことはない。だから寂しいと思ってもアーネットは誰かに救いを求めようとは思わなかった。それは母を失った時も同じだった。とても悲しくて辛い。でも誰かに救いを求めても母は帰ってこない。これは我慢するしかないことなんだと思った。だが伯爵だけは違って見えた。この人には心を開いてもいい。頼るではなく、ただ自分を理解してもらえるなら、それだけでも心が軽くなれる気がした。そんな彼女が伯爵に答えたのは
「寂しいといえば寂しいけど、我慢できなくもない・・・
よくわからないんです」
とアーネットは心境を吐露した。伯爵はアーネットのいつもと違う、優等生でもなく臆病でもない言葉に、
「そうか、そうか、わからないか。なら考えても仕方がないな」ガハハっと笑った。
伯爵は能天気だが、勿論バカではない。アーネットの心情の変化に気づかなかったわけではなかった。だがそれはどちらにしても悪いことには感じられなかった。だからその感情で笑っただけだ。
アーネットは人の心を察知するのに長けた子だ。だから無用に心配したり、あれこれ世話をやいても逆に彼女に気遣いされてしまう。まづは彼女に信用してもらう。そのためには自分から心を開いて、彼女に接する。それが一番の近道に思えたのだ。あとは彼女が勝手に判断する。
そしてその姿勢はアーネットの心を開いた。
「伯爵の心には曇りがない。この人には自分の本心を伝えても大丈夫なんだ」
アーネットがそう思えたのは、母以外の人で初めてだった。