南東王国との辺境戦 胸騒ぎ
兄王子が帝国駐屯地から逃亡し、敵砦に戻って弟王子と話をしたであろう、最初の会談から1週間たった日。
アーネットと外面大佐が前回同様に敵の砦を訪れると、弟王子が1週間前と同様に迎えてくれた。だがどこか態度にぎこちなさを感じる。すぐにアーネットは気が付いた。兄王子が壁裏で聞き耳をたてているのだろう。実権は兄王子のものであることを確認してアーネットは内心ほくそ笑んだ。これでこちらの計画は9割がた成功したようなものである。そんな内情は一切表情に出さずに、
「王子殿下、先週お話した内容について、判断はでましたでしょうか?」
と切り出した。
「はい、検討した結果、そちらの提案を受け入れることにしました」
と弟王子は前回の逡巡した面持ちから一遍し、すんなりと提案を受け入れることに同意した。もうこれは兄王子の影響があったことは間違いない。
「では、今後帝国領内を侵さないかわりに、毎日一人ずつ捕虜を釈放するという条件で約束は成立ということでいいですね」
とアーネットが確認すると
「はい、その通りです」
とよどみなく答えた。弟王子は根が優しく思慮深いが、臆病でリーダーとしては不適格なのだろう、兄王子が帰って来た今、実権は彼にもどり、弟王子は兄王子の決定を口にするだけの操り人形になっていた。すこしだけ弟王子の真意を探ってみようと意地悪な質問をしてみる
「ありがとうございます。これで帝国軍は北東に兵を集中させることができます。しかし、王子は先週はあんなに苦慮されていたのに、何か決定に及ぼす変化があったのでしょうか?」
と聞いた途端、弟王子の目が宙を泳いだ。
「いや、その、我が国にとっては捕虜の返還を最優先に考えたということです」
とあらかじめ用意されていたであろうセリフを棒読みした。アーネットにはわかる。目は口ほどにモノを言う。まさにこれだ、上辺の言葉以上に弟王子の目は彼のおかれている現状を表していた。
「(根が良い人なだけに、可哀そうに)」
そうアーネットは感じるのだった。その後適当な会話を交わして会談は円満解決して終わりになった。
アーネット達を送り出したあと、話の内容を盗み聞きしていた兄王子は、アーネットのことを初めて見て、「(あの子供は何なのだ?)」と思ったが、「(口約束など甘い考えはやはり子供の発想だ)」とあざ笑うのだった。
「あんな小娘を使者に送るなど、帝国はよほど人手が足りぬとみえるな」
と弟王子に声をかける。
「そうでしょうか、お兄様、私にはあの女性が使者として送られたのは特別の理由があると思います」
と慎重な弟王子は私見を述べた。これが正解なのだが、脳筋兄王子には、そんな細かいことに気づかない
「特別とはどんな特別だ? おおかた女性が懇願すれば聞いてもらいやすいといった安易な発想だろう」
と兄王子は浅はかな発想で止まっている。兄王子の頭の中には捕虜生活での過酷な仕打ちに対する復讐が渦巻いている。一刻も早くあいつら(帝国)に仕返しすることでいっぱいなのだ、帝国のことは全て蔑まずにはいられない。兄にはさからえない気弱な弟は、もうそれ以上兄に意見を言わなかった。
◇◇◇
駐屯地に戻ったアーネットは仕込みは終わったと思った。作戦会議を開き、これまでのいきさつを明かした。
「以上のような状況です」
とアーネットが話し終えると、居並ぶ士官達は誰も反対や不安を口にするものはいなかった。これまでの会談や、捕虜の扱い、その脱走等、全てがアーネットの手のひらの上で踊らされていることに驚きを隠せない。
「(そこまで策を弄するか)」
とはいわない。力攻めができない状況だからこその策なのだ。
「(まっとうな戦場ならアーネットの小賢しい策など必要ない)」
と考える士官は多いいが、その自分がこの地では何の役にもたたなかったのは事実で、それを策だけで状況を変え、敵はすでに崖の上にたたされ、指先で押せば谷底に落ちてしまいそうになっている。見事と感心するしかない。
この時代、まだ政治と戦争は分かれている。一度戦争が始まればそれは力の攻防で決着するまで政治に出番はない。政治でどれだけ有利に戦争を始めるかは重要だが、軍事力を背景とした威圧が政治であり、政治で軍事的劣勢を挽回させるといった思考はない、せいぜい責められないように相手のご機嫌を取るぐらいだ。
アーネットのそれは政治的駆け引きを戦闘の駆け引きと同等に、そして同時におこない、軍事的劣勢さえも政治で変えてしまえることだった。彼女が王女でありながらも少尉であるからこそ成しえる技で、この時代斬新すぎて、多くの将校にとって理解の範疇を越えていた。
「では、今後の方策を述べます。まずは軍を完全に引き上げます。敵の砦からも見える形で帝都に向けて出発させます。その兵は半日進んだあと、10個の中隊にわかれて、ここから3時間以内に到着できる地点でなるべく隊を隠せる岩場や森林等の地で野営してください。
待機する機関は短ければ1週間ほどですみますが、長いと1か月かかるかもしれません。敵軍が出発したらその情報は直ちにこちらに届きます。その合図を各隊にも送りますので、隊にはいつでも出発できるよう態勢の維持をお願いします」
とのべた、各小隊は2000人規模で、各指揮は左官に任された。アーネットは500名の小隊で敵の囮になるべく駐屯地に残った。
晴天の日を選んで帝国南東軍の移動が始まった。次々に帝都へ向けて帰還していく。もちろんこれは敵に見せるためのパレードなのだ、派手に空砲を打ち鳴らし注意をひきつけた。それを敵の砦から眺める兄王子は不敵な笑みで笑っていた。
「ふふふ、我が身に与えた屈辱、決して忘れない。同じ、いや数倍の苦痛を味合わせてやる」
そう恨みの念をこめるのだった。
アーネットには、あの兄王子が復讐のために、捕虜奪還にくることはわかっていた。それは確実だが、それがいつになるのかまではわからない。毎日1人ずつはだまっていても返還されるのだ、それを待てば平和時に両軍の恨みはなくなるのである。
だが兄王子の恨みはそれを黙って受け入れるほどに小さくない、そうなるようしむけたのがアーネットだった。いずれにしても、敵が攻めてこなければ毎日返還している捕虜の釈放を止めるだけだ。とアーネットは考えていた。それだけで、敵はこちらを約束違反だと思うだろう、そもそも口約束なのだ、そちらが約束を守らぬなら、攻めるまでだと考えるのも普通だろう。
アーネットは返還を10日目を最後に辞めた。だがそれでも敵は責めてこなかった。アーネットは兄王子の性格から3日もすれば攻めてくるだろうと思っていたのだが、その期待は裏切られ、その後10日たっても南東王国軍に動きはなかった。
最後の手段を使うか・・・アーネットは気は進まなかったが、最後の煽りを与えるべく、捕虜の十人を表に連れ出し、十字架刑に処した。だが、これは一種のフェイクで、実際には十字架に張り付けられてはいるが、それはベルトで吊るされているだけで、命には別条ないものなのだが、遠目にはまさに張り付けられ絶命しているように見えた。
そして南東王国軍砦へ使者を遣わし
「南東王国軍が今も帝国領内を侵している。約束を破ったその代償として、やむなく、こちらも捕虜に十字架の刑を施行した」
と伝えた。さすがにこの知らせを受けた兄王子は烈火のごとく怒り、体を震わせたという。
だが、それでも南東軍は攻めてこなかった。アーネットはここで初めて自分が感じた兄王子の人となりが、間違っていたかもと疑いを覚えた。兄王子は見た目以上に冷静な判断ができるということだ。南東王国軍5000名をもってすれば駐屯地に残る500の兵を叩くのはたやすい、そうして虐げられる捕虜を救おうとするのは、彼の性格からすれば当然と思われた。今でもそう思っている。だが実際に敵は攻めてこないのだ、それを認めざるを得なかった。
そろそろこの作戦を仕掛けて1か月が経とうとしていた。中隊にばらして伏せさせている隊が限界にきている。軍需品が足りなくなったのだ、補給がばらけているとそれだけ手間がかかる。それを1か月続けるのに無理がでてくるのだ。作戦も限界に思われた。まさか敵はアーネットのこの伏兵のことを勘づいていたのだろうか。
そう思い始めた翌日、敵砦近くに見張らせている密偵から不思議な情報がもたらされる、それは敵砦に不思議な服装をした一団が入っていったというモノだった。それはおよそ軍隊には似つかわしくない服装で、頭まで含む全身を黒い服で隠していたという。
「宗教関係か?」
とアーネットは思ったが、それが軍事作戦に関係するとは考えなかった、それよりこの作戦をいつ打ち切るかの判断に頭が占められていた。
その日の深夜、アーネットは連絡兵から敵部隊が砦から出発したとの知らせを受け飛び起きた。
「来たか!」
ついに来た。喜びさえ感じつつ、すぐに伏せさせている各隊へ、駐屯地であるビトリスの丘へ戻る合図を送った。駐屯地に残る守備兵500名にも配置につくよう指示する。敵は歩兵、暗闇の中3時間はかかるだろう、こちらの伏兵と同じ距離だ、ちょうど守備兵と敵兵が戦っている間に援軍がきて背後をつくという形だ。ここまでは計画通りだ、とアーネットは思ったが、なぜだか心がざわつく。胸騒ぎ、何か不安めいたものが感じられるのだ。その不安の原因をつきとめられないまま、敵軍が姿をあらわし、守備兵との戦闘になった。5000と500では勝負にならないところだが、簡易的にしてもこの地には防壁が気づかれている、鉄砲もあるし、なによりアーネットの隊がいるのだ
オーランド、軍曹、ロブ、各隊員は最前線で戦った。そしてその活躍は、他の帝国軍兵士にとって驚愕する強さだった。それをもちろん一番感じたのは敵国の南東王国軍兵士だっただろうが、帝国軍兵士も驚いた。アーネット隊がきてから今のいままでバカにし続けてきた部隊である。無駄と思われる訓練を毎日おこない、敵捕虜に残忍なまでの仕打ちをしていた部隊。この異端とも思われる部隊の実践での強さを目の当たりにしたのだ。
5000名の敵兵に攻められ、その10分の1で対抗しなければならない兵の心細さは、いままで惰眠を貪ってきた兵にはより強く感じられた。まともな砦があるのならまだしも、多少の防壁はあるものの同じ平地でたたかへば、その足音や怒号は地面を伝って直接体に響く、それが兵の心に直接、恐怖を植え付けていく。そんな中で、アーネット隊の強さは、守護神に近いものがあった。彼らが動けば、そのあとは正に蹂躙されたように、敵兵の死体が築かれた。これ以上友軍にとって力強いものはなかった。
「少尉殿は建物の中へ」
とアーネットは周囲に気遣われたが、南東王国軍の弱さはこの目で確かめてきている、一人になっても周囲の兵など蹴散らしてやるという自信がある。気遣いに礼をいいつつも、それよりも胸騒ぎが気になる。こんな感覚は生まれ始めてだった。戦いが始まってもその感触が消えない。それは軍事的な心配とは違う感覚に思えた。
帝国防衛側は一度も防衛線を破られることなく、敵を抑え続け、ついに、伏兵としていた部隊が背後に集結し、一斉に押し寄せてきた。2万の兵で5千の兵を逆に取り囲んだのだ、これには敵の兄王子もビックリしているだろう。とアーネットは思った。これでこの作戦も終わる。そう思った時、アーネットの不安は、恐怖の感情へと高まってきた、
「うっ、なんだというのだ この不安感は?」
背筋に悪寒が走り、手が震えた。ひとり、身をかがめるアーネットに、近くの士官が流れ弾にでもあたったかと心配して、
「大丈夫ですか」と駆け寄ってくる。
「うん、大丈夫だ、何でもない」
そうこたえるしかない、実際なにも攻撃が当たっているわけではないのだから、だが不安は極限まで高まり、冷や汗がとまらない、他の兵には何も異常はない、だがアーネットは立っているのがようやくだった。
その不安の原因がゆっくりと姿をあらわす、森だ。いや正確にいうと森の奥、周囲から包囲している帝国軍のさらに奥の闇から、得体のしれないものが這い出てきている。そう感じられた。ハッキリとは視界がみえないその暗闇の境界で、亡者の軍団が帝国軍を背後から襲っていた。