タブラ・ラサ
会談は合意でまとまり、妹と姪はその日のうちに船へ招待された。
数ヶ月ぶりに会っためぐみは、少しやつれて見えた。世間はあんなありさまだし、すり減るような生活を送っていたのだろう。しかし姪のほうは相変わらずだ。あまり感情を表に出さず、じっと世界を見つめている。
「あの、お兄ちゃん、ちょっと説明して欲しいんだけど……」
胸元に抱えた姪をあやしながら、めぐみは複雑そうな表情を見せた。
夕食後の待機所だ。
俺たちはテレビを観ていた。
「説明って?」
「まず、この船の人たちが何者で、お兄ちゃんがどう関わってるのかの説明」
「あー、それな……」
あらためてイチから説明するのは難しい。
俺は天井の蛍光灯を見つめ、さぐりさぐり答えた。
「この船はだな、うー、いわゆる文化事業をしている民間の……まあ、そのー」
「合法なの?」
ド直球で来た。
これをかわすのは至難の業だ。
「そう言ったって、どの国の法が適用されてるかも分からないんだぜ。合法かどうかなんて判断できんだろ」
「えっ? 日本じゃないの? それかアメリカかと思ってたけど」
「いや、アメリカではない。日本でもない」
「でも日本語話してたよ?」
「まあ、日本を中心に活動してるから、日本語は共通言語になってるらしいけど……。ともかく国籍不明の不審船なんだよ」
「その不審船に、お兄ちゃんはどう関わってるの?」
「俺はそのー、いわゆるひとつの……うー、アレだよ。うん。アレ。協力者みたいな」
これに妹は眉をひそめた。俺を責めるときの母親の顔にそっくりだ。
「だから、ここの人たちがなにをやっていて、お兄ちゃんはなにを協力してるの? さっきからぜんぜん答えになってないんだけど」
この執拗な責めの間も、姪はおとなしく虚空を見つめていた。じつに泰然としている。この子は将来、大物になるかもしれない。あるいは、単に思考を完全に放棄しているだけかもしれないが。俺に似てるなら後者だな。
「いやまあ、世界の謎を探求してるんだよ。歴史学? 考古学? まあ、そんな感じの営利団体で」
するとめぐみはきょとんとした表情になった。
「え、そうだったの? なんか、ごめん、悪いことしてるんじゃないかって誤解してた……。でもそうならそうって言ってよ! 心配するじゃん? まあお兄ちゃん、歴史好きだったしね。合ってると思う」
「分かってくれればいいよ」
妹の中では、俺は歴史好きって設定なのか。中一のころだったか、飯のとき「いざキャバクラ」とか言って父親にひっぱたかれた記憶しかないんだが。しかしなにも叩くことはねーよな。あのときは母親も妹も一緒になって俺を非難してきやがった。この世界に味方はいないと思った瞬間だった。
「お前の家族なのか?」
スジャータがやってきた。
全身を布で覆い、足音もなくやってくるから、急に現れるとびっくりする。
めぐみもびくっと体をこわばらせ、その拍子に姪も我に返った。泣きはしなかったものの、スジャータの姿に困惑しているようだった。
俺は姪が泣き出す前に、できるだけ穏やかな態度でこう応じた。
「妹と姪だよ」
「メイ? 名前?」
「いや、こっちが俺の妹で、妹の娘のことを姪って言うんだ」
俺が指をさしながら教えてやると、スジャータはこくりとうなずいた。
それからなぜか、スジャータは姪と見つめ合った。互いに、謎の生き物を観察するように。姪がなにかを求めるように短い手をのばすと、スジャータはその手にひとさし指を握らせてやった。二人とも、ほほえんでいた。
言葉なんて通じなくても、人は分かり合えるのかもしれない。いや、いっそ言葉なんて通じないほうがいいのだ。俺たち人類は、あまりに複雑になりすぎた。
めぐみもいつの間にか笑顔になっていた。
「この子はりおちゃんっていうの。私はめぐみ。あなたのお名前は?」
「スジャータ」
「珍しいお名前ね。どこから来たの?」
「どこ?」
スジャータは質問の意味を理解できなかったのか、首をかしげてしまった。
名前から推測するに、ルーツはインドだろう。スジャータと言えば、修行中の釈迦に粥を与えた少女の名だからな。
しかしおそらく、彼女の出身は東アジア支部の船上だ。インド人ではあるまい。
俺はめぐみに言った。
「彼女は別の船から来たんだ。まあ、ここの人たちはいろんなところから集まってるから。あまり詮索しないようにな」
「ごめんごめん」
しかしこの謝罪の意味もまた、スジャータには理解しがたいようだった。
彼女は姪に指を握られたまま、小さく上下にゆすって遊んだ。
「リオ・チャン……」
うーん、なんか中国人の名前と勘違いしてそうな気もするが。
*
妹と姪にはゲスト用の部屋が割り当てられた。めぐみたちの居住区は、俺たちのいるエリアからはだいぶ遠い。会おうと思えば会えなくもないが、そうそう毎日顔を合わせることもなさそうだ。
そして俺はといえば、ふたたび研究の実験体へと逆戻りした。
若葉は、亜弥呼に指摘されたのがそうとう悔しかったらしく、ほぼ徹夜でデスクに張り付いているようだった。髪はボサボサで、目の下にはクマもできており、もともと痩せていたのにさらにゲッソリしていた。それでもアンチ・エーテル技術を長距離から飛ばすんだと躍起だ。
俺の体をいじくるのは、もっぱら亜弥呼とダージャーになった。
亜弥呼は、麗子といくつ違うのかは分からないが、だいぶ年上に見えた。麗子が三十前後だとすれば、亜弥呼は四十代後半といったところだろうか。娘のさやかが十六歳なのだから、それなりの年齢なのは間違いない。
俺はベッドに拘束さているあいだ暇だったので、世間話がてらこう尋ねた。
「そういえば黒羽先生、娘さんいましたよね。いま東京にいるんですか? 心配じゃありません?」
するとパソコンのモニターとにらめっこしていた亜弥呼が、ぐっと眉をひそめた。
「あなた、よくもぬけぬけとその話を持ち出せるわね。母を殺そうとしたくせに」
なんで知ってんの……。
俺はごまかすように顔を背けた。
「えっ? ああ、いや、まあ、そういう話もあったようななかったような……。でも受けなかった気がするんだよなぁ……。俺らにも最低限の良心はありますしねぇ」
「私は学者だから、モルモットを趣味で切り刻んだりはしない。たとえ手元の操作ひとつで、あなたのバリアを無効化できるとしてもね」
「物騒なこと言うのやめてくださいよ。そりゃいろいろありましたけど、こっちだって採算度外視して救出に行ったんですから」
「その件だけじゃないわ。東アジア支部の陳禄山を殺すとかなんとか言って、他界にまで飛ばされてしまったのよ? 米軍と一緒に帰ってきたときは何事かと思ったわ」
「あれは事故でしょう?」
すると亜弥呼は、ターンと音を立ててキーを叩いた。かと思うと強烈なアンチ・エーテルが発生し、凄まじい勢いで俺の内臓を抑え込みだした。
「うげ、ちょっと……」
「事故? よくもそんなことが言えたわね。あなたがあのバカげた提案に乗らなければ、事故に巻き込まれることもなかったのよ?」
「バカげた提案ってのは同感ですけどね。けど、彼女が借金までしてああいう行動に出たの、なにか理由があるんじゃないですか? それちゃんと聞いてあげました?」
「このまま出力をあげたら、耐久力のテストにもなるわね」
こいつ鬼かよ。
いや、前にダージャーにやられたときほどの高出力ではないから、怒りながらも調整はしてくれてるんだろうけども。調整しながら責めてくるヤツのほうが悪質かもしれない。生かさず殺さずもてあそべるからな。
亜弥呼は深い溜め息をつき、出力をさげた。
「さやかさんのことは、すべて家の者に任せてあるの。話なんてほとんどしないわ。私のことは親だとも思ってないでしょうね」
「えっ……」
「黒羽を継ぐというのは、そういうこと。人間らしい教育なんて必要ない。人間ではなく、歯車になる。黒羽は、上から下まですべてが噛み合ったひとつの機械よ。そうでなければいまの繁栄もない」
まるで機構のようだ。「いざキャバクラ」でひっぱたかれてるほうが、まだ家庭のあたたかみがある。少なくとも、こっちの言ったことに対してリアクションがあるわけだからな。
だがこれで、さやかが一番破壊したかったものがなんなのかよく理解できた。祖母を殺したかったのは事実だろう。しかしそれよりも、彼女が破壊したかったのは、黒羽という体制そのものだ。
俺は話題を変えた。
「それで、娘さんは、いまどこにいるんです?」
「それを知ってどうするの?」
「いや、東京にいたら危ないなって思っただけですよ。無事ならそれでいいんです」
すると亜弥呼は、複雑そうな表情を見せた。
「お節介にしては度が過ぎるわね。けどいいわ。教えてあげる。さやかさんはいま、長野にいるわ。あなたもよく知ってるあの集落よ。護衛は六原さんに頼んだから安心して」
「そうですか」
黒羽と六原は和解したってことか。あるいはビジネスとして依頼したのか。いずれにせよ、かつての遺恨が解消に向かっているのならよかった。久々にいいニュースかもしれない。
するとそのとき、やや離れて作業をしていた若葉が唐突に発狂した。
「やったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! やりましたっ! やりましたよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
ひどくやつれているのに目だけがギラついているから、狂人にしか見えない。
「黒羽先生っ! 見てくださいっ! 見てくださいよこれぇっ! この計算式っ!」
猛ダッシュでやってきて、鉛筆でまっくろになったプリントを亜弥呼の顔面につきつけた。
「ちょっと若葉先生、近すぎて見えないわ」
「あーっ! これは失礼っ! 失礼しましたっ! けどこれ見てくださいっ! これっ! この計算式っ!」
「どの計算式……ていうか計算式?」
隙間もないほど文字がビッシリ書き込まれていて、ほぼ黒い紙だ。
若葉はもどかしそうにプリントを確認し、その箇所を鉛筆でぐるぐる囲った。というより黒に黒を重ねてもなにも見えない。
「ここですっ! これっ! この式っ! 二重丸で囲ったところっ!」
「二重丸……」
「いやー、もうね、これでアンチ・エーテル理論は完成したと言っても過言ではないですよ、ええはい。私の計算ではね、これは百メートル先のターゲットにも作用しますよっ! もう火薬なんて必要ありませんからっ! この地上の火薬は、全部燃やしちゃいましょうっ! うへへ……。さ、さあ、ではさっそく装置の設計に取り掛かりましょうかっ! この世界は可能性で満ち溢れているっ!」
徹夜続きで幻覚でも見えているのだろうか。それは数式どころか文字にすら見えなかった。
というより、若葉は謎のガッツポーズのままその場に崩れ落ち、そして寝た。
いや、寝たんだよな? 死んでないよな?
もし本当に完成したなら凄いことだが……。
あまりに疲れすぎると、人は起きたまま寝るらしいからな。まっくろなプリントを前に夢を見ていた可能性もある。過度な期待はしないほうがよかろう。
というよりこの人、そのうち過労死しそうだなぁ。そっちのほうが心配だよ。
(続く)




