エスケイプ
二度目の海は、じつにゴミゴミしていた。
ガキのころ、親に連れてこられた市民プールみたいに。周りには人間だらけ。プールと違うのは、みな完全に水没しており、服を着て、ぼうっと遠くを見つめていることくらいだ。
そこにはしれっとザ・ワンも混じっている。羊水に浮く胎児のように。
この青くクリアな世界は美しい。すべてが等しく無力となる。俺たちは、クラゲのようにただ浮いていた。浮く以外に、なにもすることがないかのように。ザ・ワンとて同じだった。
ふと、父と母と妹と姪が同時に話しかけてきた。学校の宿題についてなにか言っている。いや幻聴だ。どこを見てもそんなのはいない。起きたまま夢でも見ているような気分だ。
*
俺たちは他界にいた。
太陽のない、夜の世界。
そして花々の光による祝福の世界でもある。
深海を大量に吸引した前回とは異なり、今回は頭がハッキリしていた。イヤな感じも残っていない。
ドーム周辺にいた人間は、みなここへ強制連行されていた。いや、人間だけではない。ドームさえそこにある。自動車も、死体も。
「クソッ、なんだこれ……。瑠璃子がいたぞ」
三郎が憔悴した様子で頭を振った。
ここへ来るのは初めてか。まあ俺も二度目だから、あまり偉そうなことは言えないが。
「ここは他界だよ。来る途中に見えたのはぜんぶ幻覚だ。忘れたほうがいい」
コンクリの床に覆われているせいで、この周囲だけが花々の明かりから隔絶されていた。まるで浮島のようだ。
まとめて他界へぶっ飛ばされてきたということは、ザ・ワンも一緒ってことだ。向こうからは消え去ったということになるから、もう大田区は、役場のスピーカーから地震の誤報を流さなくて済むというわけだ。
ザ・ワンはどこかにいる。この近く。ドームの中だろうか。
ふと、影が地面からざばとせり上がってきた。シュヴァルツだ。ボロボロになっている。
「来るぞッ!」
ダーンとバカみたいに大袈裟な音がして、大地が揺れた。のみならず、ドームの正面玄関をぶち破り、ザ・ワンが這い出してきた。
デカすぎる。正面から見ると、電車を二両並べたくらいのサイズだった。一両でも轢かれりゃ死ぬのに、その倍ってのはナシだろう。
もしかして俺たち、いまからこいつと戦うのか?
陳禄山が声を張った。
「交戦するな。ヤツに攻撃は通じない。生き延びて、外へ脱出しろ」
もとの世界へ戻れば、ひとまずこいつをやり過ごせるか。その後、どうなるかはともかく。
執事がやってきた。
「さやかさん、車へ」
ジャガーがある。
機構のハイエースも、川崎一派の乗りつけたランドクルーザーもだ。逃げるだけなら可能かもしれない。しかしどちらへ逃げれば……。
トモコからもらったお守りは所持している。もしかしたら、また俺の居場所を探り当ててくれるかもしれない。とはいえ、ここのところナンバーズは忙しそうだったから、こっちの救出までは手が回らないかもしれない。
さやかが告げた。
「皆さん、お乗りになって。撤収しますわ」
「……」
三郎はザ・ワンを一瞥したが、戦うことなく命令に従った。さすがに冷静な判断をしたな。
俺は助手席に入り、ドアを閉める前に告げた。
「早く撤収しましょう! ついてきてください!」
道なんて知らないが、バラバラの方向に逃げるのは得策ではない。一緒に行動したほうがいい。
川崎一派はランドクルーザーに乗り込み、機構も怪我人を車へ押し込んだ。すぐに出られるだろう。さいわい、ザ・ワンの移動はのろい。
シュヴァルツがジャガーの上に降り立った。
「どこへ行く? 道は知っているのか?」
俺は窓から顔を出した。
「知らないよ。提案があるなら言ってくれ」
「いや、私にも分からないんだ。花園からはだいぶ遠い」
すると執事がアクセルを踏み込んだ。
「出すよ。振り落とされないようにね」
加速してから言うんじゃない。
おかげでシュヴァルツは転げ落ちそうになり、エーテルを噴きながら窓にしがみつくハメになった。
「なんて乱暴なんだ」
「俺もそう思う」
それにしてもこの高級車、アスファルトやコンクリートの上を走っているうちはいいとして、オフロードには耐えられるんだろうか。花の上でハンドルなんか切ったら間違いなくスリップするぞ。まあスリップしたところで、ぶつかりそうな障害物もないが。
車が進むと、ドームとザ・ワンが急速に遠ざかっていった。ザ・ワンはじっとこちらを見つめている。ときおり大地を揺すり、黒い稲妻を解き放ちながら。
近くにいたら皆殺しにされていたかもしれない。距離をとって正解だった。
俺は風にかき消されないよう声を張った。
「どこか、行くべき方向は?」
「分からない。この世界は広いから……」
地元住民に分からないのであれば、俺たちだってお手上げだ。そういえば前回、三角も役に立たなかった。
しばらく行ったところで、執事がジャガーの速度を落とした。花でスリップしないよう慎重な停車だ。検非違使も、東アジア支部もその場に停車した。
「よく考えたら、ガススタないんだよね。適当に走ったらダメだわ。ナビも効かないし」
執事はごもっともなことを言った。
ハイエースから出てきた陳禄山は、しかし渋い表情だ。
「なぜ停まった? 部下を治療したい。先を急いでくれ」
誰かが反論する前に、俺は腰を低くしてへこへこと応じた。
「いや、じつはアテもなく走ってまして……」
するとランドクルーザーの運転席から、源三が身を乗り出した。
「いずれにせよ、あそこから離れる必要があった。今後のことは、これから考えよう」
「ふん。他界は神の領域だぞ。考えてどうにかなるのか」
「あんたらの伝承とやらは、なにか言っていないのか?」
「神は俺たちに語りかけたりはしない。ずっと眠っていたのだからな。機構の伝承というのは、俺たちの先祖の見聞をまとめた記録であり、すなわち人間の記録だ。人間はこんな場所へは来ない。よって他界について知ることはない」
陳禄山は偉そうに演説したが、要するに、知らないから聞くなということだ。こういうときに役に立たないとは、いったいなんのためのカルトなんだ。まあ、ただの幻想を事実のように語られるよりはマシだが。
源三はシュヴァルツへ目を向けた。
「黒い妖精、あんたはなにか知らんのか」
「なにが知りたいの? ここがどこで、この先どこに行けばいいかって話なら、私にも分からないよ」
「ここに住んでるのにか?」
「不愉快なことを言うね……。そういうお前たちだって、あっちの世界のことをすべて知っているわけじゃないでしょ? 私だって困ってるの。頼らないで」
まあたしかに、俺だって自分たちの世界を知らない。知っているのは、自分の家がどこで、コンビニがどこにあって、役所がどこにあるのかとか、その程度だ。
一連のやり取りから分かったことは、誰もなにも分からないということだ。
それはいいんだが、ここはやけに蒸し暑い。他界にも夏だとか冬だとかあるんだろうか。やけに湿度が高い。
「なんかいるぞ」
三郎の言葉で、俺は銃に手を伸ばした。
いる。
地面から、ゼリー状のなにかがじわじわと染み出してきた。
シュヴァルツがどこからか鎌を取り出し、身構えた。
「水妖だ。体に触れると取り込まれるよ。攻撃するなら精霊を狙って」
ゼリーがざばと身を起こすと、そいつは人の形になった。シュヴァルツの言う通り、透き通った体の心臓部に青く発光する精霊が見える。
俺は助手席から飛び出して狙いを定め、ダブルアクションのままトリガーを引いた。一発で命中。精霊が青いエーテルを撒き散らすと、ゼリーもその場に溶けてべちゃりとなった。
が、水妖は次から次へと湧き出してきた。
ここはこいつらの縄張りだったらしい。弾がもてばいいが。
六原姉弟は賢明にも、真空波を使って敵の手足を切り落としていった。俺は動けなくなったところを射殺。
遅れて川崎一派も参戦した。
動かない標的へは、二軍も弾を命中させていた。全員で撃つとなかなかの火力だ。のみならず、執事も撃った。金持ちなのにトカレフなんかを使っている。
シュヴァルツも高い機動力で敵を切り裂いていった。
弾があるうちはいい。しかしその後のことは、なんらかの対策を練る必要がありそうだ。
しばらくすると、敵の気配はなくなった。
「終わった……のか?」
俺の言葉に、シュヴァルツは渋い表情を見せた。
「たぶんね。もし縄張りの中心に足を踏み入れていたら、湖の貴婦人が出てきたはずだから」
「誰だ?」
「群青の湖を支配する妖精だよ。水妖の親玉みたいなもの。とにかく、ここは湖の近くだってことが分かった。あともうひとつ目印があれば、だいたいの方向が分かるんだけど」
どこへ向かってもヤバそうなんだが。
「湖ってのは、君の住んでるところとは近いの?」
「遠いよ。でも自動車を使えば飛ぶより速いから、一日もかからないと思う」
一日か。ガソリンがもてばいいが。
一子がぶつぶつ言いながら腹をさすっていた。人間のほうもガス欠のようだな。時間がかかるようなら、飯も調達しないといけない。
三郎が寄ってきた。
「ところでその貴婦人ってのは、あいつのことじゃないのか?」
「えっ?」
三郎の指差す方向に、ゼリーの小山が見えた。発光する透明な山だ。そいつが徐々にせり上がってきたかと思うと、やがて女の姿に化けた。長い髪を持ち、水のローブをまとった巨人だ。心臓部には、ひときわデカい精霊を持っている。
俺はシュヴァルツに尋ねた。
「えーと、これは戦ったら勝てるのかな?」
「死にたいならそうすれば? 私は逃げるけど」
「オーケー、移動しよう」
大急ぎで乗り込むと、ジャガーは花にタイヤをスリップさせながら急発進した。シュヴァルツも落とされまいと窓にしがみつく。
ランドクルーザーとハイエースも猛スピードでついてきた。
湖の貴婦人は追ってこない。ただぼんやりとこちらを見つめたまま、やがてずぶずぶと沈んでいった。
気をつけるべきはザ・ワンだけではない。ここにはファンタジーじみた化け物がごろごろしている。
ナインはたしかこう言っていた。「この世のすべての神なるものは、かつて他界へ隔離された」のだと。
つまりは水妖にせよザ・ワンにせよ、もとは俺たちと同じ世界の住人だったってことなんだろう。それがなんらかの理由で隔離され、いまや神話に痕跡を残すのみとなった。
あるいは機構のいう神も、一神教の規定する絶対的な存在ではなく、人類の亜種かなにかなのかもしれない。絶滅したとされるネアンデルタール人のように。
執事がつぶやいた。
「どこまで走らせます? あと二、三時間は持ちますけど、それ以上は怪しいんで」
さすがに一日ぶっ通しで走り続けるのはムリだろうな。
さやかはしかし小さく息をついたきり、返事もできない。
ふと、シュヴァルツがつぶやいた。
「待って、世界樹だ。停めて」
暗闇の中から、唐突に樹木が姿を現した。
天を衝くような高さだ。暗さのせいもあるが、あまりの高さにてっぺんさえ見えない。のみならず、木の幹には長大な蛇まで絡みついていた。たぶん蛇だよな……。龍にも見えるが。頭がどこにあるかも分からないほどの長さだ。身じろぎもしない。
こいつは襲ってこないんだろうか。
「あの蛇は動かないから安心していいよ。湖と世界樹の位置から考えると、私たちの花園は左側だと思う」
シュヴァルツの言葉に、執事が顔をしかめた。
「距離はどれくらいなの?」
「飛ぶと三日かかる。けど車ならすぐじゃないかな」
「分かった」
執事はウインカーを出し、車を発進させた。
方向が分かったならいい。
最悪、ガソリンが切れても歩けばいいわけだし。
問題は、むしろ飯のほうだ。空腹にキレた一子が、俺たちを食わないとも限らない。
俺は窓の外に顔をよせ、やや小声で尋ねた。
「この辺で、食料は調達できないかな」
「食料? 人間はなにを食べるの? 花でよければ、下にいっぱい咲いてるけど」
「花? そんなの食えないよ」
「失礼なことを言うね。ここにいるみんなは、それを食べて生きてるんだけど。エーテルも補給できるし。人間が食べても平気かは知らないけど」
「……」
俺たちは腹を壊しそうだな。
できれば火を通してから食べたいところだが、肝心の調理器具がない。真夏の自動車はフライパン代わりになりそうな気もするが、ここには太陽さえない。いざとなったら生のまま行くしかないか。
ともあれ、早くここを脱出しなくては。
俺たちの世界がどうなっているのかも気になる。ドームごと移動したってことは、現場はまるまるクレーターになってるはずだ。その代わり、なにか変なのが向こうへ行ってなきゃいいけど。
(続く)




