シュレディンガーの猫
通達は、唐突かつ一方的だった。
なんらの前フリもなく検非違使の廃止が宣言され、代わりに警察がこの業界の管轄することとなった。
告知は紙切れが一枚。ニューオーダーに貼り出されただけだ。
依頼のさなかに依頼主が死亡した場合、依頼は完了となり、報酬は組合員へ全額支払われる。依頼主が「個人」ではなく「組織」だった場合、解散または廃止をもって死亡と同じ扱いとし、同じく全額が支払われる。
つまり俺たちは、まだ依頼を完遂していないにも関わらず、一千万という金を受け取ることとなった。俺の場合、ここから二百万が消えるにしてもだ。
それと当時に、東アジア支部を攻撃する理由も失われた。
みんなはそれでもいいだろう。しかし俺は困る。なんとしても東アジア支部を追っ払いたかった。でなければ、あらゆる不幸が一挙に始動する。
青猫がニューオーダーに顔を出したので、俺もその席へ近づいた。
「もう終わったよ」
砂原の第一声はそれだった。
まあその通りだ。終わったのだ。金も受け取った。だが納得いかなかった。
「けど、まだ東アジア支部は……」
「いる。だがどうしようもない。いま手を出したら、普通にしょっぴかれるぞ。依頼もないのに攻撃したら、ただの傷害事件だからな。そんなのは、もうビジネスじゃない」
「それは分かりますが……」
俺が食い下がろうとすると、砂原は深く溜め息をついた。
「なあ、山野さん。あんたの気持ちはよく分かるよ。分かるが、俺たちになにができるって言うんだ? 憎しみで命を奪ってるんじゃない。依頼主の希望を、金で代行してるだけだ。もし俺たちを動かしたいなら、あんたが依頼主になるしかない」
「……」
一言も反論できなかった。
砂原の言う通りだ。あの黒羽さやかでさえ、その程度の道理はわきまえていた。いまの俺の態度は、駄々をこねてるガキと一緒だ。
「すまんな、ちょっとキツい言いかたになったが」
「いえ、おっしゃる通りです。目がさめました。お時間とらせてすみません」
「……」
青猫とて、得意先を失って落胆しているはずだ。いま俺に脇からつつかれるのは苦痛でしかなかろう。
テーブルに戻ると、失意の俺を三郎が鼻で笑い飛ばした。
「山野さん、まるでトーシロだな。困るぜ、気持ち切り替えてくんないとさ」
「そうは言うけど……」
「検非違使が廃止ってことは、調子づいた東アジア支部がザ・ワンを奪いにくるってことだろ? 警察だけで止められるわけがない。仕事が増えるんだ。景気よく行こうぜ」
なんなんだこいつは。
俺は思わず溜め息をつき、こう応じた。
「俺は、君のお姉さんを心配して行動してたんだぞ。もう少し協力してくれてもいいだろ」
「はっ? そんなこと頼んだ覚えはないんだが? それに、あんたが一番気にしてるのは姉貴じゃなくてペギーだろ」
「彼女は仲間だ。もちろん君も。君のお姉さんも。そんなの、俺の自己満足だって言われりゃそうだけど……。だからってそういう言いぐさはないだろ」
三郎は嘲笑気味に顔をしかめ、ビールを一口やった。
「仲間ね。ま、そういうのも悪くないって最近思うようになったし、別にいいんだけどさ。そもそも俺ら、なんでここにいるんだ? 金を稼ぐためだろ? なのに、いつまでも隠れんぼしてる仲間のせいでロクに稼げないって言うんじゃ、ちょっと納得できないぜ」
「問題が解決すれば隠れる必要もなくなる」
「だから、それはいつだよ?」
「いつって、それは……」
俺に分かるわけないだろ。あるいはそんな未来、永遠に来ないかもしれないのに。
三郎は肩をすくめ、ふたたび鼻で笑った。
「いいか。こっちは小学校すらまともに出てないんだ。大学まで行ったあんたと違ってな。普通に働いて普通に稼ぐなんてムリなんだよ。なのに、ここでは普通以上に稼げる。俺みたいな人間にとっちゃ、金だけが存在の証明だ。それをするなってのは、正直受け入れられないぜ。だいたい、あんたといるとハバキの仕事すら受けられないんだ。仕事さえ選ばなきゃ、いまごろランキングの一位にいるはずだったのによ」
「……」
マジでなんなんだよこいつ。それをいま言うのかよ。
しかも、まともに反論できない自分にも腹が立つ。
実際、ほぼ三郎の言う通りなのだ。いままでずっと我慢させてきた。その我慢が、ついに限界を迎えたというだけの話だ。
ハバキの仕事を受けないのは、完全に俺の都合だ。そしてまた、その件について、俺はロクに譲歩したこともなかった。三郎はこっちの提案には従ってくれるのに。一方的に利用してきたのだ。せめて仕事をしやすいよう、段取りには気を配ったつもりではいたが……。納得できるレベルではなかったようだな。
三郎は目だけをカウンターへ向けた。
「ランキングの一位が実在するってことが分かったんだ。いるってことは超えられるってことだよな。だから今後、俺はハバキの仕事も積極的に受けることにした。あんたも受けるなら一緒にやれる。けど、そうでないなら一緒にいても意味がない」
「好きにしてくれ。俺に止める権利はない」
「ふん」
俺たちの仕事へのスタンスは真逆だった。俺はなあなあで安全にやりたいのに、三郎はハードにガツガツやりたい。いずれこうなるのもやむをえないことだった。
俺はビールを飲み干し、席を立った。
「機会があったらまた」
「ああ」
*
自宅についたのは、まだ二十二時を回る前だった。いつもなら、終電ギリギリまで飲んでいるはずなのに。
電子レンジでコンビニ弁当をあたためつつ、俺は缶ビールを開けた。ニューオーダーのビールのほうがはるかにうまいのに。
金は手に入った。しかし心はまるで満たされない。
もうなにもしたくない。このまま引きこもって、金が尽きるまで無職でいようかとさえ思った。
もしこのまま部屋に引きこもり続けたら、東アジア支部がどうなろうが、ザ・ワンがどうなろうが、ペギーがどうなろうが、俺が知ることはないかもしれない。知らなければ、ずっと思い出を閉じ込めておける。かつて実家を飛び出し、すべてを記憶の中に閉じ込めていたように。
そう。
実家にさえ帰らなければ、俺は現実を突きつけられることもなかった。
この現実ってヤツは強すぎる。ちょっと反省したくらいじゃ手も足も出ない。だから、フタをしておくという手もある。そうすれば俺は知ることもないし、傷つくこともない。心の傷は、いまや日本人の死因の上位を占めてるからな。気をつけたほうがいい。
観測しなければ、結果は確定しない。そんなようなことを、むかしの偉い人が言っていたような気がする。なんとかの猫がどうたらいうアレだ。
電子レンジがチンと鳴ったが、取りに行くのも面倒だった。俺は缶ビールをちびちびやりながら、ネットを巡回した。
特に面白いネタはない。いつも通り、政治のニュースでユーザー同士が煽り合うという、見飽きた行為が繰り返されているだけだ。ユーザー同士というか、業者同士なのかもしれないが。
思えば俺には趣味がない。
暇を潰すのに、ビールとキャバクラ以外の手段がない。アニメは観るが、それも週に一度だ。ネットはごらんのありさまだし。引きこもるにしても限界がありそうだ。
気まぐれにスマホを見てみたが、誰からもなんの連絡もなかった。あまりに虚しすぎて、俺はセヴンにメッセージを打った。
>なんか面白い情報ありませんか?
返事はこうだ。
>クソして寝ろ。
ごもっともだな。
まあ、返事をくれるだけ優しいほうか。
あきらめて電子レンジから弁当を持ってくると、少しぬるくなっていた。構わず食うが。
スマホが鳴った。またセヴンからだ。
>あ、ちょっと待った。仕事あったわ。無料で案内してあげる。
無料……。
こいつのやることが慈善事業なわけがない。どうせクソマズい仕事を回そうっていうんだろう。
俺が返事をせずにいるのも構わず、セヴンはこう続けた。
>黒羽のメスガキがまたウロチョロしてるの。
>お願いだからそっちで引き取って。
>この件でビジネスするとオバサンがうるさいから。
自業自得だろ。
そもそも蛇が斡旋しなければ、さやかが東アジア支部に拉致されることもなかった。いくら客を選ばずビジネスするとはいえ、あれは酷い。
だがこのまま放置しておくと、また問題が起きるってことだよな。
>引き取るって、どうすれば?
俺の投げた質問に、セヴンの返事は早かった。
>大丈夫。
>そのまま家にいてくれればいいわ。
なにがどう大丈夫なんだ。
いま俺が家にいることまで把握しているし。怖すぎだろ。
つーか彼女をここに誘導する気なのか。なんの依頼だ。また黒羽一族の殺害依頼とかじゃないだろうな。
飯を食い終え、そろそろエロ動画でも観ようかというとき、家のチャイムが鳴らされた。
念のため覗き穴を確認すると、黒羽さやかがひとりで立っていた。賃貸マンションに似つかわしくない、ゴシック調の服を着て。
「本当に来たのか」
「ごきげんよう。あなたの了解は得ているとうかがったのですが?」
「まあ、そうだけど」
「では家へあげてくださいな。まさか、立ち話で済ませる気ですの?」
「どうぞ」
こんなところで少女と口論してたら、付近住民に不審に思われる。ただでさえ無職だと思われてるのに。
「おじゃまします」
靴を脱ぎ、丁寧に揃えて彼女はリビングへ入ってきた。
俺は溜め息とともにドアを閉めた。
「あら? 六原さんはいらっしゃいませんの?」
「いないよ」
「では呼んでくださる?」
「内容による」
重要な用事でもなければ、いまは三郎と顔を合わせたくない。
俺は手で座るよううながし、飲み物の準備をした。じつは冷蔵庫にはビール以外にも飲み物がある。ビールだけ飲んでたら死ぬからな。
いちおうグラスに麦茶をそそいで出したのだが、さやかは不審そうに一瞥したきり手も付けなかった。
「じつはお仕事の依頼に来ました」
「こんな夜中に出歩いて、親御さんには怒られないの?」
「ご心配なく。外に執事が待機しておりますわ」
「はー」
金持ちってヤツはこれだから。
俺はどっと腰をおろし、二本目の缶ビールを開けた。
「で、お仕事ってのは?」
「機構の東アジア支部に、陳禄山という男性がいるのはご存知?」
「聞いたことないな」
「支部長ですわ。彼の殺害をお願いいたします」
「んぶっ」
思わずビールを噴きそうになった。
支部長を殺害?
マジかよ。ツキが回ってきたみてーだな。さっきまでの感傷はナシだ。今度ばかりはなにがなんでもやるぞ。
「いちおう額を聞いておく」
「推定一億」
「なんだ推定って……」
「まだお金を調達できておりませんので。とにかく、わたくしをお信じなさいな」
信じろだと? カルト教団の教祖みたいなことを言い出したぞ。
俺はビールをごくごく飲み、缶を置いた。
「プロに仕事を頼むんだ。せめて額だけはハッキリさせてくれ」
「一億円です!」
「オーケー。六原三郎を呼ぶ」
まだ一億も持っていないだろうとか、どうせ分割払いだろうとか、そういうことはいい。仮にさやかが払えないときは、親に請求を回せばいい。いま大事なのは、依頼が来たという事実。それさえあれば、俺たちは仕事ができる。
だがさやかは、すっと立ち上がった。
「お待ちになって。いまから呼ばなくとも結構ですわ」
「えっ?」
「今日はもう遅いので日を改めます。さすがに日をまたいでしまっては、家のものを心配させますので」
「……」
「今度の日曜、あらためてうかがいますわ。お昼から始めますので、きちんと起きていてくださいね。この業界のかたは夜型のようですので」
「はい……」
「ではこれで失礼しますわ。ごきげんよう」
せっかく気合が入ったのに、出鼻をくじかれてしまった。
まあしかし、一億の仕事だ。三郎は渋るかもしれないが、今回ばかりはぐだぐだ言わせねーぞ。一位になるとかフカしやがったんだからな。二人で割っても五千万だ。こんだけありゃランキングの足しになるだろう。
(続く)




