ドグマ
「結果が出るまで数日かかる。それまで自由にしていなさい」
ダージャーから解放されたのは約一時間後だった。
予想に反し、ごくまっとうな検査しかされなかった。というかほぼ普通の健康診断だった。黒羽麗子と違うのは、最後にウイルス入りの水を飲まされなかったことだけ。
気になるのは、綿棒で頬の粘膜を採取されたことくらいか。
所用で席を外していたサイードも、このとき合流した。
「食事にしよう、いいワインが手に入った」
「はあ」
通されたのは、十畳ほどの部屋だ。中央にはテーブルがあり、壁一面に本棚が配置されていた。棚に柵が付けられているとはいえ、船が揺れたときに本が落ちてきたりしないのだろうか。
窓がほとんどないから時間が分かりづらいが、館内放送で報告されたところによると、さっき十九時を回ったところらしい。
若い給仕が食事を運んできた。
「ここは、サイードさんの?」
「私室だ。くつろいでくれ」
食事はパンにスープにステーキに、あとはほうれん草のソテーという、まあ、俺に言わせればファミレスのセットメニューのようなものだった。
サイードがワインを注いでくれた。濃い色の、ほぼ黒といっていい色合いだった。照明のせいかもしれないが。
「これは……どこの?」
「分からん。厨房でいいのをくれと言ったらくれたんだ。連中がいいっていうんだから、いいんだろう」
こいつも適当か。
サイードはパンを齧り、なんてことない様子でワインを一口やった。
「なるほど、分からんな」
パンとワインなんて、こいつらが戦ってきたキリスト教徒みたいな食事じゃないか。それとも一般的な日本人のように、そういうのはあまり気にしないタイプなのか。ペギーの話によれば、彼らは全員日本人のようだからな。
俺もワインに口をつけた。
かおりからは、ごくかすかな酸味を感じた。口に含むと、葡萄の果実と皮の狭間の渋みを深くしたような、言ってみればなんだか分からない味がした。しかし不快ではない。よく熟している。
「どうだ?」
「俺の知ってるどのワインより、格段にうまいですよ」
「なら結構」
俺の知ってるワインってのがコンビニで売ってる五百円のだって言ったら、おそらく気分を害するだろうけど。
いや、でもコスパはいいんだぞ。味を調整しまくってるからな。俺のような庶民向けだ。五百円で一日潰せる。これこそ神のあたえたもうた奇跡だろう。ビールだと五百円じゃ済まんからな。
正直、食事はそんなに高級ではなかったが、ステーキだけはデカくてうまかった。どこで仕入れているのかは不明だが。船籍をごまかして、あちこちの港でうまいことやってるんだろう。
俺は食事を進めながら、こう尋ねた。
「で、なんなんです? ただの組合員に、ずいぶんな高待遇じゃないですか。俺はてっきり、地下牢にでも閉じ込められるのかと思いましたよ」
「閉じ込める必要はない。出港してしまえば逃げ場はないからな。しかしそもそも、あんたはゲストなんだ。丁重に扱うさ」
「だから、なんでゲストなんです? 能力に覚醒してる可能性があるからですか?」
この問いに、サイードはふっと笑った。
「よく理解してるじゃないか。いいか。駒は揃いつつある。あんたが妖精でないとしても、四つの力のどれかに該当してる可能性はまだあるんだ」
「けど黒羽先生は、たいしたエネルギーは出せないって言ってましたよ」
「自力ではな」
「えっ?」
鼻水をふきそうになった。
自力でないとしたら他力だ。外側から強制的に出させられるってことだろう。せめて壊れない程度にお願いしたい。
「促進剤ってのがある。ああ、心配するな。ペギーにも投与されていたが、まったく問題はなかっただっただろう。副作用はない。少なくともドクターはそう言っている」
言うだけならそう言うだろうよ。
サイードは小さく息を吐いた。
「ナンバーズのアベトモコなら、四つの力を一人ですべて扱えるんだがな。しかし彼女が俺たちに協力するとは考えられん。だから機構としては、こつこつ四人集めるしかないんだ」
「……」
彼女、そんなに凄い少女だったのか。
そういえば、お守りもらったっけ。尻ポケットに入れっぱなしだけど。ほかに入れる場所がなかった。
「悪いが、促進剤は使わせてもらうぞ。拒否権はない。あんたが力を貸してくれれば、ペギーも例の計画から救われるかもしれんからな」
「いや、手を貸したら、むしろ例の計画とやらはもっと早まるのでは?」
「心配するな。俺たち日本支部が成果をあげ続ければ、東アジア支部の介入を突っぱねることができる。そうでなくとも、先送りくらいはできるだろう。計画の問題というより、これは政治の問題さ」
「はあ」
俺には関係のない話だな。
しかし副作用もなく能力が手に入るというのなら、悪い提案ではない。気分的に受け入れられるかどうかはともかく。
問題はむしろ、別にある。
機構はウイルスを持っていて、促進剤とやらも持っているという。だったら、機構の構成員を被検体にすればいい。そうすれば俺みたいな部外者を、こうして説得する手間も省けるだろうに。
まあ実際、すでに人体実験はやってるし、その成果がペギーなんだとしても。しかし被検体が一人きりってことはないだろう。ほかにもいるはずだ。そいつらはいま、どこでなにをしているのだろうか。まさか魚の餌になったりしてないよな。
俺はなるべく真意を悟られぬよう、遠回しに尋ねた。
「俺だけなんですか、こういうのって。少なくとも四人必要なんですよね?」
するとサイードはフォークとナイフを置き、肩をすくめた。
「あんただけだ」
「それは外部から入れたのが、ということですか? 内部の人間も入れて?」
「詮索好きだな。まあいい。教えてやる。笑ってもいいが、そのときはここにいる全員を敵に回すと思え」
「は、はい……」
絶対に笑ってはいけないカルト教団とな。普段から自分のつまらないジョークで鍛えているとはいえ、これは開始五分でアウトになりそうな気がする。
「あんたらの言葉で言えば、俺たちはカルトだ。教義を持っている。神の復活もそのひとつだ。そしてもう一点、神は、純粋な人間しか救済しないと言っている。だから俺たちは能力への覚醒を希望しない」
いやちょっと待て。
笑うだと?
その逆だろ。
「サイードさん、それじゃあペギーはどうなるんです? 彼女はウイルスに感染してるんですよ? 話が矛盾してませんか?」
かつてアメリカは、ムスリム向けに豚を使った弾丸を開発したことがあった。信仰者にとって、自分が救済の対象になるかどうかは、非常に重大な問題のはず。
サイードはひとつ嘆息した。
「ペギーは自分から立候補したんだ」
「周りが強制したのでは?」
「まあ聞け。あいつには兄がいてな。かなりの問題児だった。それが原因で……」
「その罰を、ペギーが受けてるってことですか?」
俺が思わず立ち上がりかけたのを、サイードは馬でも抑えるように両手で座れとうながした。まあ確かに、サイードを責めても仕方がない。
「二人の両親は、研究にのめり込むタイプだった。子供のことも忘れて、仕事ばかりしていたよ。そもそも船には子供を育てる専門の機関があるから、必ずしも家族全員で暮らす必要もなくてな。そういう事情もあって、両親は幼い子供を残して本部に行ってしまったんだ。それで兄は、満ち足りない気持ちを抱えてしまったんだろうな。残念な話ではあるが」
「お兄さんは?」
「死んだよ。ペギーに殺されてな」
「えっ?」
「実際、兄貴は手に負えない乱暴者だった。気に食わないヤツを見るとすぐにケンカをふっかけるし、少女たちにも容赦しなかった。ここに警察なんかいるわけもないから、大人たちが自治していたんだが……。いまにして思えば、処置が甘かった。その結果、ペギーの親友が自殺した」
「なぜそんなことに……。なんとかできなかったんですか?」
「できたらよかったんだがな。そしてもっと悲惨なことに、ここでは教義上、自殺が重罪となる。罰が与えられるのは、追い込んだほうではなく、死んだほうだ。そうなると、遺体は正式な方法では葬られない」
「それって……」
「もちろん兄は無罪だ。少女がなにか訴えを起こして死んだならともかく、口を閉ざしたまま死んでしまったからな。ペギーも激怒したよ。彼女自身、兄の暴力にさらされていたこともあってな。それで怒りが爆発した。しかし殺しはマズかった。同胞殺しは、教義上もっとも重い罰の一つでな……」
「……」
言葉が出てこない。
子供を置き去りにした親が悪いとか、悲惨な目に遭ってたんだから報復もやむをえないとか、そんな教義捨てちまえとか、そもそも自治がなってないとか、部外者の俺にはいくらでも言える。言えるが、それだけに、なにも言えなかった。
そこまでして守りたい彼らの教義というのは、いったいなんなのだ。その教義の示す神とは。
いや、宗教というものに、俺ごときの考えた合理性を当てはめるのはバカげているかもしれない。しかし同じ人間のやってることだ。理解し合える線ってのが、どこかにあるはずだろう。なのに、なんでこうも理不尽なんだ。
「ペギーは、それで被検体に? 本人は納得してたんですか?」
「半々ってところだろうな。なかば殉教者の気分でもあったろうし、なかばヤケだったようにも見えた。もともとあいつが、救済について懐疑的だったってのもある。そりゃそうだろう。この世界を救済するっていう神が、あんな小さな家族すら守れなかったんだ」
あまりに皮肉な話だ。
サイードは静かにワインを飲み、こう続けた。
「正直なところ、神が復活したあとどうなるのかについては、俺たちにも分からん。俺たちの信仰する神は、これまでのところ、ひたすら眠り続けてきたわけだからな。それでも、ここで産まれた俺たちは、教義に従って動くしかない。それ以外の生き方を知らんからな」
誰かは「宗教はアヘンだ」と言った。まさしくそうなのか。これじゃあ盲信じゃないか。
「人の信仰に口を挟むのは野暮かもしれませんが……。道はひとつしかないんですか」
「道はいくつかあるかもしれないが、到達すべきゴールはひとつしかない。ザ・ワンの目覚めが近い以上、こちらも早急に準備する必要がある」
「ザ・ワンというのはなんなんです? それ自身が神なんですか?」
俺の質問に、サイードはややきょとんとした表情を見せた。
「見たことないのか?」
「だって、埋まってるんでしょ?」
「埋められる前の画像がある」
サイードはポケットからスマホを取り出し、操作してこちらへ差し出した。
鮮明とは言いがたい白黒写真だ。空から撮ったものであろうか。メチャクチャに破壊された街の中央にクレーターがあり、そこに胎児のようなものが横たわっていた。画質がよくないから、細かいところまではよく分からないが。
「俺たちの教義によれば、ザ・ワンは『神の肉片』ということになっている。完全体ではないにしろ、神と同等に扱うべき存在だ。教義では、そこへ妖精文書を手にしたプシケが現れ、祝福を与えることになっている。四つの力が集結して奇跡を起こす。それで神が復活する。そういう流れだ」
あまりに神話じみているな。まあ神の話なんだから当然か。
「けど、妖精文書って必要ですか? こないだチラッと中見ましたけど、意味不明だったんですが」
「重要なのは記述された内容じゃない。あれは、こちらと他界、両方の物質で編まれていてな。触媒としてワームの代わりになる」
「じゃあ、ワームでも代用できるってことですか?」
「手に入ればな。だが現存しないワームより、現存する妖精文書を使ったほうが手っ取り早いだろう」
もしかして彼ら、アベトモコがワームを用意できることを知らないのか。黒羽麗子が必死で止めようとしていたのは、これが理由か。
俺の考えをよそに、サイードは難しい顔になった。
「そこまではいいんだが、問題はむしろそのあとだ。プシケが『祝福を与える』という部分でな。祝福ってのが具体的になにを指すのか、上でも意見がまとまっていないんだ。なにせプシケは、ある日をさかいに忽然とロストしてしまい、研究もできなくなったからな」
「ロスト?」
「いまにして思えば、ナンバーズの誰かが他界に逃したんだろう。今回と同じ状況だ」
「それが先日、学会の所有する例の島で現れた、と」
「うちのドクターによれば、ザ・ワンの目覚めを察知したプシケが、自発的に出てきたと言っているが……。実際のところどうなのかは分からん。本人に聞いてみないとな」
本人か……。
どうせ非人道的な扱いをするんだろうし、ナンバーズはなんとしても合わせないようにするだろう。実際、いままさにそうなっているしな。
「ま、とにかく時間がないってことさ」
サイードは言いながら、俺のグラスにワインを注いでくれた。
悪い人間じゃないのかもしれない。
しかし俺は、やはり彼らに協力することはできない。
(続く)




