家族
それからの数日、二日酔いでもないのに、俺は気の抜けた仕事しかできなかった。もちろん妖精なんか一匹も捕まえられない。赤字だけがかさむ中、ついにタイムリミットを迎えた。
帰りの船のラウンジ、俺はもう抜け殻のようになってベンチでうなだれた。
一子の旅費を肩代わりし、仲間を拉致され、一週間かけて無駄骨を折った。手に入ったのはヤバい情報だけ。一円にもならなかった。
最低最悪のツアーだ。
俺の心を慰めてくれるのは、穏やかな波の音だけ。
だがその波の音も、デッキをドタドタ走り回る六原姉弟にかき消されつつある。またネズミでも追っているのだろうか。勘弁していただきたい。
*
帰宅してから、俺は一週間ほど引きこもった。
気持ちを切り替えられなかった。赤字なのはまた稼げばいいとして、ペギーを救出するための策が一つとして思いつかなかった。
どこかから借金して、組合に依頼でも出すべきか。しかしそれは現実的じゃない。黒羽麗子の殺害依頼のように、いつまでも放置され続けるだけだろう。
かといって俺には、ナンバーズを敵に回せるだけの強さもない。裏で暗躍して、組織同士で潰し合いをさせるほどの影響力もない。当然、金もない。なにもない。
八方塞がりだ。
人間、行き詰まるとおかしな行動に出るようだ。
もちろん俺も例外ではない。
自分でも頭がどうかしているとしか思えなかったのだが、気がつくと、俺は数年ぶりに実家へ向かっていた。
場所は埼玉。東京からは遠くない。あくまで物理的な距離は。
俺はかつて大学受験に失敗し、一浪し、妥協してあまりレベルの高くない大学に入った。なのに途中で辞めて派遣社員になり、それもすぐに辞めて組合の仕事を始めた。
ともかく、親に負い目があった。受験に失敗したときも、大学を辞めたときも、会社を辞めたときも、いろいろ言われてムキになった。それで実家には帰らなくなった。
もう何年になるだろう。
十年は経っていないはずだが。父も母も、当時より老け込んでいるかもしれない。俺も少年ではなくなった。いまさら会うのも気まずい。
家を遠巻きに確認して、それで帰ろうと思った。
「え、ウソ……お兄ちゃん?」
駅舎を出た直後、聞き慣れた声がした。
「めぐみ!?」
思わず息を呑んだ。
妹だ。最後に会ったとき、まだ高校生だった気がするが……。なんというか、その……ベビーカーに赤ん坊を乗せていた。
「ちょっと待って! なんで逃げるの?」
「いや、べつに逃げてないだろ……」
逃げていた。反射的に。
言われなければ、きっと駅に引き返していた。
「もう家には行ったの? いま来たところ?」
「いま来た……」
「じゃあ、なにも見てない?」
「見てないけど、なんかあるのか?」
するとめぐみは、なぜか気の毒そうな顔を見せた。
「お父さんもお母さんも、もういないよ」
「いない?」
「死んだの」
「はっ?」
「病気で……」
「ウソだろ……」
あのガミガミうるさかった母親が? 偉そうにふんぞり返って人生訓をたれていた父親が? 死んだ? まだそんな歳じゃないだろ。
「お母さん、ずっとお兄ちゃんのこと心配してたよ。言わなかったけど、たぶんお父さんも」
「……」
「あ、この子ね、りおちゃん。私の子」
「結婚したのか?」
「ううん、してない」
「……」
なにが起きてるんだ。
結婚してない? なのに赤ん坊がいる? いや、これから籍を入れるっていうんなら分かる。しかしそういう顔じゃない。
めぐみはムリに笑ってみせた。
「ま、一人でも大丈夫でしょ。お金なら、親がいくらか残してくれたし。お兄ちゃんの相続分、私がもらっちゃったけどいいよね? ダメなら言って。いくらか渡せるから」
「いや、いいよ、俺は。ぜんぶ使ってくれ」
赤ん坊がいるんだもんな。
受け取れないよ。
「ありがとう。まさかこのまま帰らないでしょ? 寄ってきなよ。お線香あげて欲しいし」
「ああ」
めぐみがベビーカーを進めたので、俺も隣を歩いた。
「あーでもどうしよ。お兄ちゃん、ずっと失踪してたでしょ? だから死んだことになってるんだ」
「マジかよ」
「失踪宣告っていうの? ずっと行方不明だと、死んだことになるんだって。お母さんはずっと反対してたけど、相続のとき、もうどうしようもなくて……」
「いや、いいよ。俺が悪いんだ。それに、またいなくなる」
「死んだりしないよね?」
「しないよ」
「ならいいんだ」
なんらの呵責もなくウソが出た。
めぐみは気づいたかもしれないが、ただうなずいてくれた。
家の外観は、さほど変わってはいなかった。あまり稼ぎのよくない父が、ムリして建てた小さな家だ。
インテリアはだいぶ変わっていた。赤ん坊がいるのだから当然だが、リビングにベビーベッドやら子供用テーブルやらが置かれていた。
そしてもう一つ、でんと据えられた仏壇だ。うちって、たしか神道だった気がするんだが。仏壇でいいのか。よく分からない。
「お父さん、お母さん、お兄ちゃん生きてたよ」
仏壇に語りかけるめぐみ。
なんだかいかにも……ほかに会話する相手がいない人間のやることのような。
四人で暮らしてたころは騒がしいくらいだったのに。この家は、本当に寂しくなってしまった。
赤ん坊もじつにおとなしい。寝ているんだか起きているんだか、スピースピーと鼻息を鳴らしながら、うつろな表情だ。
俺は線香をあげ、手を合わせた。
心の中で語りかける言葉すら、一つも思いつかなかった。ここで「ただいま」を言うのも、「ごめんなさい」をするのも、なにかが違う。そもそも俺は、まだ状況を受け入れていなかった。もういっそなにも考えないようにして、ただ形式的に、拝むフリだけした。
「お兄ちゃん、いまなんの仕事してるの?」
「えっ? ああ、いや……まあ……そのぅ……」
どう説明すべきなんだ。
キャバクラではIT系と言い張っている。しかしITがなんなのかも分からないありさまだ。インターネットの略じゃないのは知ってる。
するとめぐみは渋い表情になった。母親がよくやってた顔によく似てる。というかすごい似てる。たった数年でこんなに似るのか。
「危ない仕事?」
「あぶ……いや危なくねーよ。いや危なくなくもないけど。ていうか危なくない仕事ってなんだよ。むしろどんな仕事でも、ちょっとは危ないよ」
「悪いことしてないよね?」
「えーと、物事の善悪をジャッジするためには、高度な哲学的教養を……」
「じゃあ質問を変える。違法じゃないよね?」
うわー、なに言い出すのこいつ。
違法だよ。
鋭いな。いや、俺の態度が怪しすぎたのか。
「あのなあ、めぐみ。知ってるか? 立ち小便だって違法なんだよ。どんなことでも違法になりうるんだよ」
「なに? 道端でおしっこする仕事なの?」
「失礼な。もう少しマシな仕事だよ」
少しだけマシです。
「人に迷惑かけてないよね?」
「母親みたいなこと言うなよ。似てきたぞ」
「えーっ? やめてよ。似てないよ」
自覚がないらしいな。
ということは、俺も父親に似てきてるのか。あのいちいち理屈っぽかった父親に。絶対ああはなるまいと思っていたのに。
深い溜め息が出た。
実家に寄ろうなんて考えるんじゃなかった。そうすれば記憶の中の家族は、すべてあのころのままだったのに。マズいメシを作る母親、テレビに文句を言い続ける父、ブーブー文句を言う妹、そして肩身の狭い俺。それでも「家族」って感じだった。なのに、それが一気に砕け散った。
いや、現実逃避だ。
逃げた末に、こんなことになったんだ。俺が行方をくらませなければ、親も心労を感じることはなかっただろう。もう少し生き延びたかもしれない。あるいは葬式をやって、人並みに送り出せたかもしれない。俺自身、失踪宣告とやらで死亡扱いを受けることもなかったろう。
逃げた末に失った結果が、いま、目の前に並んでいる。俺はこれを受け入れねばならない。
「一つだけ約束する。俺は好んで悪事を働こうとは思ってない。それだけは信じてくれ」
「うん」
「迷惑はかけない」
「うん」
俺は立ち上がり、赤ん坊の顔を覗き込んだ。
男の子か女の子かは分からない。くりくりとした大きな目で、こちらをじっと見つめてくる。
「りおちゃん、分かるか? 俺は、そのー……」
「栄おじちゃんだよー」
めぐみが発したその言葉に、思わず俺はぎょっとなった。
「おじさんか……。まあ、そうだよな。そりゃそうだ。けど、なんだかな。おじさんか……」
「なにショック受けてんの? おじさんでしょ? それ以外のなんなの?」
「そうだな、おじさんだ。りおちゃん、分かるか? おじさんだ。あくまで書類上はな」
「書類上は死んでるんだけど」
「そ、そうだった。まあとにかく、強く生きるんだぞ。おじさんも頑張るからな。この世界は……まあ、いろいろある」
そんな俺を、赤ん坊は珍獣でも見るような目で凝視していた。泣き出す前に帰ったほうがよさそうだ。
「じゃあ俺、そろそろ行くわ」
「え、もう?」
来てからまだ五分くらいしか経っていない。
出されたコーヒーも残ったままだ。
「長居するのもなんだしな」
「自分の家なのに。まあ……じゃあ、気をつけてね」
「お前も頑張れよ」
「うん、お互いにね。また来てね」
今生の別れにしては、シンプル過ぎたかもしれない。
けどこれでいいんだ。あまりウエットになったら、たぶん、元の生活に戻れなくなる。
*
帰りの電車、俺はすっかり気が抜けてしまって、なにも考えられなくなっていた。
気分転換どころじゃない。
家に帰ってみて、あの静けさを見て、俺は痛感した。
いちいちうるさかった両親も、死んでしまえば、もう、なにも言ってこないのだということを。
当たり前だよな。
受験に失敗したからって、大学を中退したからって、会社を辞めたからって、なにも逃げ出すことはなかった。
けど一緒にいたころ、親たちは本当に口うるさかった。
ああしろこうしろどうしろのと、いちいちいちいち、言わないと気がすまないのかと思ったものだ。
いや、英才教育を受けていたわけではない。未来を嘱望されていたわけでもない。ただ普通にやれと言われた。その普通ってのが、病的なほど執拗だっただけで。
俺はようやく、あのうるさかった親から開放されたというわけだ。永遠に。
りおちゃんには、せめて幸せになって欲しい。
もうなにもない家だけど。なにか楽しいことを見つけて、いつも笑っていて欲しい。後悔のない人生を送って欲しい。不幸のない人生を送って欲しい。
理想論なのは分かってる。
けど、失ってしまえば、もう二度と手に入らないものもある。そのことだけは、どうか気づいて欲しい。
いや、これは他人事じゃないんだ。
俺も、これからは絶対に逃げ出さない。仲間を見捨てたりもしない。ベストを尽くすんだ。そうしなければ、生きている意味がない。
こんな空虚な気持ちになるのは、もうゴメンだ。
*
その晩、俺はニューオーダーへ向かった。
作戦会議だ。
誰とも約束してないが、三郎かナイン、どちらかには会えるだろう。あ、お姉さんは来なくていいです。あくまで会話の通じる相手と話がしたい。
などと勢い込んで店へ来たものの、俺を待っていたのは予想外の人物だった。
エイブラハム・P・サイード。背の高い黒人男性。機構の人間だ。
ここで会うのは三度目になる。一度目はただ見かけただけだが、二度目は黒羽麗子からのお使いの相手だった。そして三度目がいま。
「待ってたぜ、サカエ・ヤマノ」
「ご用件は?」
俺は怖じることなく堂々とテーブルにつき、遠慮なくビールをかっくらった。
この際だ、機構だろうがなんだろうがどんと来いっつーんだよ。いまの俺は勢いだけはあるからな。いやまあ、限度はあるけど。
サイードはフッと白い歯を見せた。
「ペギーの所在を教えてくれ。あんたらと一緒に例の島に行ってから、戻ってきてないようだからな」
「居場所なら俺も知りませんよ」
「生きてるんだろうな?」
「そのはずですがね」
「なにがあった? いなくなったペギーの代わりに、ナンバーズ・ナインが船で帰ってきたのは分かってるんだ。隠し事をしても得にならないぞ」
あの機構が、まだ状況を把握していないとは。
ちょっと笑えるな。
「サイードさん、情報ってのはいつからタダになったんです? 人からなにか引き出そうと思ったら、まずは相応のマナーがあると思うんですがね」
まあ金なんて積まれても教えないけどな。もっと平身低頭しろ。
これにサイードも不敵な笑みだ。
「あんたの妹さん、小さな子供がいるんだって? そろそろ一歳か? かわいい盛りだよな」
うわー、きったねーなこいつ……。
いままで勢いだけはあったのに、その勢いさえ完全に消滅しかねん事態だぞ。
「あー、いや、それはちょっとナシにしましょうよ」
「紳士的に行きたいもんだな、ミスター・ヤマノ。船の上で暮らしている俺たちは、互いに家族みたいなものなんだ。その家族の行方を心配するのは、当然のことだろう?」
「よ、よく分かります」
「いい子だ。じゃあ、全部言えるよな? ダメだっていうなら、もっと舌が回るようにしてやることもできるが?」
「いえ、大丈夫です。俺の知ってることでよければ、全部お話ししますよ」
この野郎、いつかぶっ殺してやるからな……。
(続く)




