黒い話
デカい船だからなのか、船酔いはしなかった。
しかしペギーの話を聞いてからというもの、俺は自分でも分かるほど露骨に消沈していた。彼女がラウンジを去ったのちも、ベンチから動けなかった。
たまたま何回か一緒に仕事をしただけで、俺たちは特に固定のチームってわけじゃない。本来、彼女がどこでなにをしようが自由なのだ。頭では分かっている。
ずっと仲良しでいたいとか、そういう牧歌的な話でもない。しかしこのまま行けば、俺たちは現場で敵として出会う可能性がある。もしそうなれば、どちらかが死ぬことになるのだ。それはさすがにキツい。
「ふぅー……ふぅー……」
息を切らせながら一子が戻ってきた。
後ろには、やはり肩で呼吸をする三郎。
スタミナだけはバカみたいにある三郎が、こんなに疲れ切っているのは珍しい。どれだけ走り回ったのやら。
「サブちゃん……ジュース飲みたい……」
「だったら船からおりろ。好きなだけ飲めるぞ、タダでな」
「サイダーがいい……」
「百倍にして返せよ」
文句を言いつつも、三郎は自動販売機でジュースを買ってやった。それを姉に押し付け、本人はこちらへ来た。
「いやー、大変だったぜ。久々の全力疾走だ。姉貴、足速かったんだな。いや足っていうか、腕っていうか」
また獣みたいに四つん這いで走ったのか。本当に俺たちと同じホモ・サピエンスなんだろうな。
「獲物はとれたの?」
「いや。ネズミを追いかけて厨房まで行ったから、力づくで連れ帰った」
「ネズミ?」
「食うんだよ……。ネズミ、ヘビ、カラス、それに虫。むかしからそうだ。ガキのころなんて、餌を巡って近所の猫と縄張り争いしてたんだぞ。人間のやることじゃないだろ」
「それは想像以上だな」
「ただ、うちの一族は……そういうのに寛容でな。久々にホンモノが出たって言って、けっこう姉貴のことチヤホヤしてたんだ。そしたらこのザマだよ」
「ホンモノ?」
この問いに、三郎は表情を苦くした。
「前も言ったろ。俺らはもともと墓をあさってた一族だって。ただ、もうそういう風習はなくなっててさ。完全にすたれてたらしいんだ。なのに、なぜか姉貴にはその素質があって……。故郷があんなことにならなければ、一族の巫女にでもなってたんだろうな」
内容はアレだが、彼女は一族のアイデンティティーを体現する才媛だったってわけか。
俺は少し内容をそらした。
「そのー……故郷ってのは、どこなの?」
「長野だ」
「え、長野? そんなに遠くないじゃん」
「物理的な距離はな」
そして精神的な距離は、果てしなく遠い。
この話題は、どこからどういう切り込んでも地雷のようだな。
一子が立ち上がった。
「サブちゃん……生肉……」
「は?」
「生肉……食べたい……」
「姉貴、頼むから周りの人にだけは迷惑をかけるな。かけるとしても、最低限、俺だけにしろ。いや俺にもダメだけど」
「うん……」
「分かったらおとなしくしててくれ」
「うん……」
少しキツく言われて、一子はしゅんとベンチに腰をおろしてしまった。
こうしておとなしく座っていれば、じつに儚げな美人に見える。長いまつげ、その奥にひそむ超越的な瞳、すっと通った鼻筋、雪のように白い肌、艶のある長い黒髪。ぱっと見、ごく控えめな、深窓の令嬢に見えなくもない。いやセンスが古いか。しかし俺の感想がどうあれ、この女は正真正銘の獣だ。動物園で管理してもらったほうがいいレベルの。
すると三郎が、飲み終えた缶を握りつぶした。
「山野さん、なんか元気ないな。まさか船酔いか?」
「いや、そういうわけじゃないんだが」
「じゃあアレだ、自販機にビールがないからショゲてんだろ」
「アタリ」
気を利かせてくれたのか天然なのかは分からない。しかし三郎のこういうところは、本当に助かる。
姉が突き出した缶も回収し、三郎はゴミ箱へそれを突っ込んだ。
「ま、ちょっとした旅行みたいなもんだし。気楽にやろうぜ」
「そうだな」
「管理してんのも妖精学会だろ。いつもの調子でやれば問題ないよ」
「まあね……」
俺は生返事をしつつ、しかしふと、不審な点に気づいた。
いや気づくもなにも、最初から自明だった。おそらくそういうことなのだ。
「あのさ、六原くん。この仕事の依頼主ってハバキだよね」
「またその話か」
「いやそうじゃないんだ。ハバキの仕事なのに、その現場を管理してるのは妖精学会なんでしょ? もしかしてこいつら、グルってことなんじゃないか?」
「まあ、そうかもな」
う、軽い返事が来た。
「え、なに? 知ってたの?」
「知らなかったけど。ハバキも学会も、どっちも似たようなもんだろ。驚くようなことじゃない」
「いや、そんなお気楽な話じゃ……」
ハバキと学会は、妖精を売買するほどの間柄だ。おそらくビジネスパートナーというには深すぎる仲なんだろう。ヤバいヤツとヤバいヤツがセットになったとき、だいたいヤバいことが起こる。ただでさえヤバいのに。
すると一子が、ややうんざりしたように目を細め、こうつぶやいた。
「なにを……知りたいの……?」
「要するに、これから行く島が危ないんじゃないかってことですよ。そもそも、どういう由来の島なんです? なんで妖精がいるんです?」
本来、俺たちは事情なんて知らなくていい。言われた作業をするだけなんだから。
それでも、いちど気になってしまうと、疑問はいつまでも脳裏にこびりついた。むかしからの悪癖だ。疑問が解消するまで、このもやもやはおさまらない。
一子が小さく片眉をつりあげた。
「詮索好きは……死ぬ……」
「じゃあいまのナシで」
「けど……心配する必要はないわ……あの島は……いまは抜け殻……危険はない……」
「一子さん、なにか知ってたりします?」
「……」
おいおい、いきなり無視か。
まあ彼女の言う通り、詮索好きが死ぬのはコモンセンスだ。いやマナーと言い換えてもいい。知る必要のない情報は、知らないほうがいい。
とはいえ俺も、すでに片足を突っ込んでいる。乗りかかった船だ。いや乗りかかるどころか、完全に乗っている船だ。他人事じゃない。
「旅費の五万、立て替えましたよね。おかげでふところが寒くなって凍死しそうなんですよ。少しくらい教えてくれてもいいんじゃないでしょうか」
「くっ……お金で人を……叩くようなこと……」
「この際なんで、汚い手でも使います。いったいどんな島なんです? なにか知ってるんでしょう?」
学会の管理する島があって、そこに妖精がうろついている。これはどう考えても楽観できない。檻の壊れた動物園と一緒だ。
一子は観念したらしく、じつに恨めしそうな表情を見せた。
「はじめはなにもない島だった……それを学会が買い取って……実験を始めたの……そのうちに妖精があふれて……撤収した……」
以前俺が受けた仕事も、そんな感じだった。学会の研究所に妖精が溢れて、手に負えなくなっていた。
思えば六原一子も一緒だったな。ナインと巫女さんと女子高生も来た。
「あの学会、いつもそうなんですか?」
「いつも……じゃないけど……妖精花園が暴走すると……こうなる……」
確か妖精花園というのは、あのデカいブタのことだったな。ブタというかクジラというか。ナインは「妖精たちの子宮」と言っていたっけ。
一子は小さく息を吐いた。
「妖精はね……絶滅したと思われてたの……けど……三角さんが出てきて……妖精花園が出てきて……」
「えっ、出てきた?」
「これ以上は……先生に聞いて……」
「先生? 黒羽先生ですか?」
この念押しに、一子はこくりとうなずいた。
「学会は……ハバキと……黒羽グループの……共同出資で……先生も研究に……協力してたから……」
「マジかよ……」
どういうことだ。
黒羽麗子といえば、ナンバーズのサーティーンであり、なおかつ検非違使にまで在籍している女だ。そいつがハバキと一緒にやってる学会で、妖精の研究をしていたとなると……。
裏で暗躍しているのがどこのどいつなのか、調べるまでもなくなった。彼女に二千万の殺害依頼が出るのも納得だ。
一子は後ろめたそうに顔をそむけた。
「分かったでしょう……? この島には……三角さんも……妖精花園も……もう存在しない……だから安全……。これ以上は……なにも言えない……」
十分だ。
かつて学会がこの島で研究をしていた。その結果、三角と妖精花園が「出てきた」。しかしその二つともいまは存在しない。だから安全。ということだ。
それ以上の情報は、俺たちには必要ない。
*
翌朝、特に問題もなく島へついた。
かなり南へ来たのだろう。あたたかいというより、暑かった。湿度はそれほどでもないのだが、体の準備ができていないまま一足飛びに夏を迎えた気分だった。服が邪魔に感じる。
港で出迎えたのは、アロハシャツにサングラスというスタイルのチンピラだった。まだ若い。
「どもー、お疲れさまでぇーす。山野さん御一行、三名さま……あん? なんか一人多くないスか?」
「見ての通り増えました」
俺は思わず逆ギレ気味に返した。
仕方がない。増えてしまったんだから。文句があるなら自分で交渉していただきたい。そしてきちんと追い返していただきたい。そうしてくれると、俺も助かる。
チンピラもさすがに眉をひそめた。
「ふ、増えた? まあ借りてる部屋に泊まるのは別にいいッスけど……」
「なにか問題が?」
「いやー、メシがですね。人数確認して仕入れしてるんで……。まあ、対応できなくもないッスけど。金とってメシ出してる以上、一人あたりの分量って決まってるんですよね……。ここって孤島でしょ? 廃棄が出ないよう、キッチリ計算してやってるんで。栄養のバランスとかもあるし」
見た目のチャラさに反し、ごくまっとうなことを言っている。確かにこの孤島で廃棄なんて出したらもったいない。物資は有限なのだ。
一子はしかし不気味な笑みを浮かべていた。
「食べ物はいらない……わ……自分でとるから……」
刃物のような歯を見せ、不気味な笑み。
勘弁してくれ。妖精はあくまで「捕獲」なのだ。食べてはいけない。
この女がどういうたぐいの人間なのか、アロハシャツも理解したらしい。
「あー、はいはい、そういうんでしたら、まあ、いいんですけど……。いや、もしアレでしたら缶詰なんかは売店に置いてあるんで、それ食べてもらえばいいかなーとも思ったんですけど。あ、別料金っすよ」
まあ、保存食をおいてないわけがないよな。安いはずもないけど。輸送費を考えれば当然だ。
「あ、こっちです。お足元気をつけて」
*
チンピラの先導でしばらく進むと、事務所らしきコンクリの建物に出くわした。高さは二階建て。しかし横幅がけっこうデカい。というより、いったいどこからどこまで続いているのか分からないほどの壁だ。前にテレビで観た刑務所の塀を思い出す。
これで妖精を囲い込んでるつもりか? しかしこの程度の高さでは、簡単に飛び越えられてしまうのでは?
中に入ると、病院を思わせるリノリウムの廊下が続いていた。奥の休憩所では談笑する声。わりと気楽な空間なのかもしれない。
などと気を抜いていた俺は、休憩所でそいつらに出くわした。
キラーズ・オーケストラだ。
リーダーの葉山はいない。下っ端が五名。きっと二軍の研修だろう。連中は俺を見るや、ぴたりと談笑をやめ、舌打ちまでカマしてきた。俺たちがここに来るとは思っていなかったんだろう。
「おい見ろ、また女連れだぞ」
「いい御身分だよなァ」
「裏切り者のくせによ」
小声とはいえ、好き放題言ってくれる。
裏切り者というのは誤解だ。確かに葉山に助けてもらったことはあるが、アレはそういう策略なのだ。ハバキと揉め事を起こさせておいて、颯爽と葉山がフォローに入る。そういう方法で業界内の影響力を保とうとしている。あえて言わないけど。葉山も分かってるから、俺には直接言ってこない。怒ってるのは下っ端だけだ。
だが俺が言われているうちはまだよかった。
問題は次の一言だ。
「ほっとけよ、どうせヤリに来ただけだろ」
「ヤリまくりだろうな。俺らも混ぜてくんねーかな」
そして品のない大爆笑。
やってしまいましたな……。
一子が、凄まじい形相になって足を止めた。ゾッとするような、殺意に満ちた目だ。
「いまの言葉……」
「うわああっ」
彼女が振り向いた瞬間、チンピラたちは椅子からずり落ちた。
いや、ずり落ちるほど怖いのは分かるけど。だったら言わなけりゃいいのに。一番怒らせちゃダメな相手だろ。
一子は血走った目で口から黒い障気を吐き、ゆらゆらとした足取りでチンピラに近づいた。
「サブちゃんはね……サブちゃんは……」
「は、はい……」
「まだ童貞なのよ……」
「えっ」
「ヤリまくりじゃない……」
「じゃないですっ! はいっ! すみませんっ! 言い過ぎましたっ!」
「次言ったら……生きたまま内臓を食う……わ……」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ! もう二度と言いませんっ! 言いませんからっ!」
一斉に土下座。
こんなところで殺し合ったところで、一円にもならない。そんなのは、業界の常識だ。しかし六原一子、プロとは言い難いところがある。本当にこの場で殺りかねない。土下座で済むなら安いものだろう。
すると三郎が溜め息混じりに、一子の腕を掴んだ。
「おい姉貴、いちいち構うなよ。ムキになって恥ずかしいだろ」
「でもサブちゃん……ヤリまくりって……」
「動物と死体がカウントされるならな。まあ安心しろ。生きてる女とはまだだから」
「えっ……えっ……」
おいこの空気。
みんな固まってんぞ。一子に至っては完全に放心してしまっている。体をくの字にして笑いを堪えているのはペギーだけ。
でもこれ、気の利いたジョークとかじゃなく、たぶん実話だからな……。俺には笑えないよ。
アロハシャツが申し訳なさそうに口を開いた。
「あのー、そろそろいいっすかね? 宿舎すぐそこなんで……」
うむ、とっとと案内してくれたまえ。
一刻も早くこの場から離れたい。
(続く)




