第十六話 命の雄叫びを上げた
礫夜は吼えた。
「野郎!! 許せねえ!!」
礫夜は今や狼男だ。
女を奪われ頭に血の上った狼男。
舐めたマネをした誘拐犯どもに血を見せたがってる一匹のオオカミだ。
礫夜の狼の鼻が鋭敏にエファの残り香を嗅ぎ取っていた。それはまるで一本道みたいに礫夜を迷うことなく走らせ、
そして一人のハシゴを抱えたおっさんの元へと誘った。
「テメエ! テメエ! そこゆくテメエ! テメエに俺は用がある!!」
「なんだなんだなんだあ?!」
身長2メートル以上もありそうな人狼族に掴みかかられ、襟首をギュウと締め上げられて、男はしどろもどろに悲鳴を上げた。ハシゴも落っことす。
生憎今の礫夜はそんなことに構うほど余裕があるわけでも甘っちょろくもない。
一丁手荒に脅しつけてみようか。
礫夜は狼の喉をグルルと一度うならせてやる。
「てめえの服からエファの匂いがプンプンすんなあ! エファってのは青い髪をしたとびきりの美少女! てめえらが誘拐した、俺の大切な人だ!」
「しらねえシラネエ! あんたきっとヒトチガイしてんだ!」
パンチ!
礫夜は握りこんだ右拳で男の顔面を一撃――しようとしたのだが、心の中のクレバー礫夜が
『やめておけ。レベル5のお前の一撃でも、レベル1なら顔が爆ぜかねない』
と忠告してきたので、オオカミ礫夜は代わりに親指を男の口の中へと突き込んだ。頬っぺたをグイーと容赦なく引っ張って顔を見るからにあわれな形に仕立ててやる。
「嘘つきなケシカラネエ口が俺は大っ嫌いだ! だから今のてめえの口も気に入らなくってムシャクシャする! 俺の口みたいに耳まで引き裂けば、お前の口は従順な子羊ちゃんみたいにさえずり始めるんだよな!?」
「ほげええ! やめへくへれえ!」
「何言ってっかわかんねえ! エファをさらったのは自分だって?!」
「ひげえひげえ! 言うひう! ひうかあ!」
「やっぱし何言ってっかわかんねえ!! そうかてめえ俺を馬鹿にしてんだな!?」
男は両目に涙をたたえて心底あわれな様子で叫ぶ。
「ひゅべて言いまひゅう! でゃから許ひてくだへえ!」
「よし!」
礫夜は男の口から親指を引き抜いた。ちょっと脅かしすぎたかと思う。
男はすぐさま白状し始めた。
「俺は、誘拐犯に市壁を越えさす為に、ハシゴを立て掛けて、越えたらハシゴを回収するだけの、下っ端だ! だからあんたの――その――」
「エファだ! 噛み付くぞ!」
「わかってるさあ! そのエファお嬢が、どこに連れ去られたかは、知らねえよお。俺はハシゴを立て掛けておいたら、誘拐犯に勝手に使われてしまっただけの、ただの善良な一市民なんだあ!」
エファの匂いをプンプンさせてるこの男は完全に【黒】だ。
それを言うに事欠いて【善良な一市民】とは聞き捨てならない。
礫夜は迫力漲る歯列をムギッとむき出しにしてグルグル凄んだ。
「俺は嘘は嫌いって言ったっ。善良な一市民は嘘をついてないと神に誓えるんだろうな?」
男は恐怖に引き攣らせた顔でコクコク頷く。
「誓うさ。神に誓う。誓います」
礫夜は攻撃的に突き出た指の爪を男の胸に突き立てながら言う。
「お前の匂いはばっちり覚えた。万一お前が嘘をついてたと、俺が知った時、この世界にはお前を地の果てまで追いかける悪魔の化身が一人生まれる事になる。悪魔の化身とはもちろん俺のことだ!」
「アアあんたの事さ! あんただけは怒らせちゃあならない男さ!」
「嘘だってついちゃあならない男だぞ!」
「あんたの言うとおりだ! あんたの前では俺は従順な子羊さ!」
「よく言った!」
礫夜は男を後ろからグルグルとうなって急かし、ハシゴを立て掛けた場所へと案内させた。
男の案内した場所にはたしかにエファの残り香があった。男は嘘をついてないようだ。
礫夜が『もういい』と言ってやると、男は【ピュー】という擬音でも鳴りそうな勢いで逃げていった。
なんてえ手際のよさだろう。
礫夜は我が事ながら惚れ惚れしつつ、さっそくそのむくつけき体躯にはちいちゃに見えるハシゴへと掴みかかり、力強く上へ上へと上って行く。
エファへと自分がみるみる近付いているのを感じていた。
今行くぞ。
今行くぞ。
口中でこのセリフを繰り返すほどに、全身に力が漲るようだった。
ハシゴの終点を見ようと顔を上げたら、礫夜の両目に嫌に明るい夜空が映った。どうして今宵がこれほど明るいのか合点がいった。
礫夜の口から笑いが洩れた。
「うはあ、うっはは。いいぞ。いいぞ」
夜空に浮かんでいたのは、幻想的に巨大な月だ。
月はクレーターの一つ一つすら認められるほどの近さで輝き、地上へと、夜が明るくなるほど銀光を降らせていた。
なんてファンタジックな月だろう。礫夜は背中がゾクゾクした。
まるでこの狼男を見守ってるみたいな月だと思った。
「待ってろよなエファ。もうすぐだ。もうすぐ俺が行くからな」
きっと彼女が待っていた。
それとももう諦めてしまったろうか?
誘拐犯どもにひどいことをされてやしないか?
きっと絶望的な気持ちで一杯になってるはずだ。
礫夜の心が焦りの感情にジリジリと炙られて熱くなる。
「誘拐犯のレベルがどうだろうと、怖くねえ。今の俺は怖くねえ」
礫夜は闘争の予感を感じ取っていた。
今度は狼ではなく対人戦だ。
トリプルソードを悪人どもへとぶん回してやる。
エファシオンの身は自分のこの手で取り返す!
礫夜の体が震えていた。
武者震いで震えていた。
以前のちくわならエファのことが心配で戦々恐々し、こんな事を感じる余裕は失くしていたろう。
不謹慎だろうか?
今、礫夜は楽しかった。
こんな状況だというのに、怒りと焦りでぐつぐつ煮えたぎっている自分がいる一方で、この状況に興奮している自分がいる事に気付いていた。
いまだにかつての記憶は取り戻せない。
でもかつて自分は、ずっとこう思いながら生きてきていた気がする。
女を守る為に剣を振り、血を流してみたかった。
女を奪い返す為に力の限り走ってみたかった。
今こそその時だ。
今この瞬間、この世界に主人公がいたとしたら、それは間違いなく礫夜の事だ。
礫夜はハシゴを上り切り、あまり幅もない市壁の上へと立ち上がった。
夜だ。
眼下に広がるのは畑とその先に広がる森。
月明かりが強い為、樹冠を被って光りを拒む森の暗さが際立って暗く見え、夜行性の何かが蠢いているようで、不気味にも見えた。
しかし炯々と目の輝く狼男には、まるで怖くない。
まるで怖くない。夜も。森の獣たちも。誘拐犯たちも。
きっと人との殺し合いもだ。
礫夜は『ハッハア』と笑いを漏らし、夜空や、この世界へと声を張り上げる。
「今、信じられないくらいに自由だ! 俺は痛いほど、狂おしいほど【生きてる】と感じてるぞ!!」
背中で『うるせーぞ!!』という怒鳴り声がした。
自由な礫夜は気にしない。
礫夜は夜空へ雄叫びを上げる。
狼男よろしくアオーンと雄叫びを上げた。
エファへ届けといわんばかりに。
誘拐犯どもに『今から行くぞ』と伝えんばかりに雄叫びを上げた。
そうだ。今こそ雄叫びを上げよう。
この異世界へと雄叫びを上げよう。
これは礫夜のこの異世界への産声だ。
今ようやく今度こそ、心の底から生まれ変われた気がした。
「今行くぞエファ!」
礫夜は市壁の上から跳躍した。エファを救わんと跳躍した。
夜の外界へとその身を飛び込ませる。
戦いの世界へとその身を飛び込ませる。
礫夜を待つのはエファシオン。
そして誘拐犯たちとの、決闘だ!