第十五話 怒りの狼がうなりを上げる
「エファー!!」
エファが連れ去られようとしていた。
礫夜は叫んだ。両足を猛然と疾駆させれば、誘拐犯たちも振り返る。
「やべ!」
「気付きやがった! 急げ!」
男たちがもがくエファを担ぎ上げ、中庭と通りとを仕切る塀の外へと、彼女を無造作に放り出した。
塀の奥で地面へ叩きつけられた彼女のうめき声を聞いた気がした。
「よくも!!」
礫夜は走りながら鞘からトリプルソードを引き抜いた。
誘拐犯の一人が振り返る。三角帽子の陰に隠れた顔が一瞬、突き出した杖から発された青い輝きに浮かび上がるのを見た。
「粘着弾!」
男の突き出した杖が青い閃光を瞬くと、すぐさま〈ビュバッ〉という音を立てて何かが礫夜目掛けて飛来した。
しまったと礫夜が思った時には後の祭りだ。
無警戒に突進していた為に相手が放ったものを避け切れなかった。
礫夜の足へと〈ベシャン!〉と音を立てて液状のものが張り付いた。
そしてガクンと、礫夜の被弾したほうの足が、重みを増し、また地面へと引き付けられるような引力にさいなまれた。
「――なんだっ、これ?!」
礫夜が咄嗟に足元を見れば、青く半透明の液体が礫夜の右足へと食い付いていた。それが地面へも張り付いて、礫夜をその場へと縫い止めている。
「くそ!! 誘拐だ!! 誰か来てくれー!!」
礫夜は叫んだ。その目前で誘拐犯たちが塀を乗り越えて姿を消す。
礫夜は追い掛けようと粘着弾をつけたままの足で走ろうとしたが、とても走っているという速度ではない。粘着弾をくっつけた足は重たく、地面へ着地させるたびに〈ベッチョン!〉という音を立てて地面へと張り付いた。
「いったい何事ですか!?」
礫夜の声を聞きつけたか、教会の女性司祭が駆けてきた。手に何か持っているが、服が寝巻きのままだ。
「誘拐だ! エファを誘拐された!! くそなんだこれっ、取れない!」
「落ち着きなさい! 粘着弾ならば私が取り除きましょう」
女性司祭は礫夜へと駆け寄るなり、跪き、右手に持っていたメダイユを握り締めて胸へ当て、左手は礫夜の足に食いついた粘着弾へかざす。
「太陽神レーベよ、この者を縛する害意より解き放ちたまえ。浄化」
なんらかのスキルを使用したようだ。礫夜の粘着弾が光の粒となって霧散した。
「司祭様!」
何事かと足早に寄って来る修道女へと司祭が言った。
「この者の連れがかどわかしに遭いました。急いでガードに連絡を」
「まあ、大変っ」
修道女は血相を変えるなり、教会へと戻っていった。
礫夜もすぐさま立ち上がる。
「お待ちなさい! いったいどうするつもりです」
「ガードってのが来てくれるんだろう! オレも同行する!」
今もエファを担いだ誘拐犯が逃げている真っ最中だ。
逃がしてなるものか。
だというのに、司祭は妙に落ち着いた様子でこんな事を言ってくる。
「そのつもりならばまずは落ち着きなさい」
「冷静だから、時間がないことも理解している!」
礫夜はもう教会へと走っていた。背後で司祭の『お待ちなさい!』という声が聞こえたがもちろん待たない。装備を早く身につける必要があった。
しかし、次の司祭の言葉が礫夜の足を立ち止まらせた。
「装備を身につけても無駄ですよ! ガードが誘拐犯を追う事はありません!」
「――追わない!? どういう意味だ!?」
礫夜の問い掛けに、司祭は厳しく引き締めた表情で答える。
「誘拐は毎年のことだからです。先ほどから、落ち着きなさいと申しているのはその為です。身代金さえ支払えば、あなたのともがらは無事に戻ってきます」
「そういう悪行がまかり通らないようにする為に、ガードってのはいるんじゃないのか!?」
「ガードもギルドも、リロキニのトマティーナが近い今の時期には、街道の警護業務で手一杯になるのです。誘拐犯もそのような事情を知った上で犯行に及んでいるのでしょう」
なんて悪人に優しい世界だ。礫夜は信じられない顔のまま確認する。
「だから――だから誰も助けには行かない。身代金を支払う以外、ないって言うの
か?」
司祭はいかめしい顔で頷く。
「こらえなさい。不幸は万人に等しく降りかかるもの。誘拐犯たちにも、近い将来必ずや天罰が下りましょう」
そんな説教は聞きたくなかった。今の礫夜は慰めなんて欲しちゃいない。
そもそも身代金を支払う当てなんてない。あるとしたらこのトリプルソードくらいのものだが――そういう事情以前に、礫夜は一つ確認しておきたい。
「待ってくれ、司祭様。あんたは身代金さえ支払えば無事に戻ってくると言ってたが、それはさらわれたのが若くて美しい女であっても、まったく傷一つなく帰ってくるって意味なんだよな?」
礫夜が何を聞かんとしたのか、司祭にもよく伝わったようだ。
彼女の顔付きはとても険しい。
「人は生きる限り、傷つく事を免れる事はできません。私たちにできる事は――」
「やめろ! そんな説教まっぴらだ!!」
礫夜はもう部屋へと取って返していた。
はらわたが煮えくり返っていた。何の足しにもならない説教ばかり垂れる司祭の相手をしていたせいで、誘拐犯たちを取り逃がしてしまうかもしれなかった。
役立たずのガードどもめ。誘拐犯が美少女を好きなだけ味見できるような状況を野放しにしているなんて信じられない。
なにより腹立たしいのは、おめおめ誘拐犯を逃がした自分自身だ。
このままではエファが誘拐犯に乱暴されてしまう。
あれだけの美少女だ。きっと誘拐犯たちは、夢中になって彼女を、何度も何度もむさぼる事だろう。
男たちに乱暴されながら、異国の言葉で泣き叫ぶ彼女の姿を想像しただけで、礫夜の胸は張り裂けそうになった。
「誘拐犯を追いかけるつもりならやめておけ!」
部屋へと戻るなり、少年らの師匠の青年が忠告してきた。
「レベルは一桁! ギルドにも所属していないお前に何が出来る! 誘拐犯を追ったところで返り討ちにあうのがオチだぞ!」
その危険性ならば礫夜とて重々承知していた。
レベル要素のある世界だ。
攻撃力180というだけで態度を一変させたチンピラたちの反応を見ても、ステータス差というのがものを言う世界なのだろう。
もしかすると礫夜の攻撃なんて、年季の入った誘拐犯たちには、ダメージすら与えられないかもしれない。
たとえトリプルソードを装備し、レベルが19相当になっていたとしてもだ。
何十年とレベルを上げ続けた者たちは、レベル80とか平気で行っているかも知れない。
しかし、礫夜はエファへと言ったのだ。
レベルを4アップさせるアイテムを使う前に『お前の事はオレが絶対に守る』と誓った。
ついさっきも、彼女の両手を包み込みながら『もう離れない』と言った。
礫夜は悪漢に抱え上げられたエファと目が合った。
彼女の怯えた、助けを請う眼差しが、まぶたの裏に焼きついている。
ジッとなんてしていられなかった。
勝つ算段がなくとも、そもそも誘拐犯の足取りを追う手立てすらなくともだ。
クレバーなんてクソくらえだ。
「オレは符術士だ! カードにでも頼ってみるさ!」
礫夜は座って靴紐を結びながら、青年に吼えたというより自分自身や世界へと吼えた。
オラクルカードだ。礫夜にはそれ以外に頼れるものがない。
礫夜を主人公然としてくれたのも、レベルを5上げてくれたのも、トリプルソードを授けてくれたのも、カードの効果だ。
デッキには[一夜限りの戦士系用心棒]のようなカードだってある。
そりゃ礫夜の運は今0だ。
しかし案外捨てたもんじゃないはず。
エファがチンピラに連れ去られそうになった時、礫夜は間に合ったし、今だって【運悪く】エファの誘拐に朝まで気付けなかった、なんてこともない。
まあどれだけ運が悪かろうとも、知ったこっちゃなかったろうさ。
礫夜に頼れるのは今やオラクルカードくらいのものなのだから。
礫夜はギラリと尖った目つきで青年たちを見回した。
「今からオレはオラクルカードを引く。なにが起こっても驚くなよ」
そんな物騒なものなのかと二人の少年が咄嗟に礫夜から後じさった。
礫夜は吼えた。『頼むぞ』と心の中で強く強く念じながら。
「スキル[神託]発動! 来い! オラクルカード!」
礫夜の声にオラクルデッキが〈キン!〉という音を発して答えた。
スキル[神託]の効果により、礫夜のリュックから光の玉が忽然と姿を現す。
オオと青年たちがいささか驚く。
礫夜の目の前へと移動した光球が、カードへと姿を変えた。
青年たちが固唾を呑んで見守る中、礫夜は祈るような思いで、引いたカードを確認する。
礫夜の前へと現れたカードは――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[闇に怯える人狼族への凋落]
レアリティ:C
イヴィル
あなたは[闇に怯える人狼族]へと変貌する。
このイヴィルの効果はスキル[退魔]でなければ破壊できない。
――闇の暗さをなにより恐れよ。お前を怯えさせる全てがそこに潜んでいる――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「――くそ!! くそ!! くそお!! チクショウ!!」
礫夜は口汚く罵った。自分のこの運命へと罵った。
ハズレだ。礫夜の選択は大失敗。
現れたカードは、またしてもステータスで確認したデッキの構成には表示されていなかったもの。
[闇に怯える]というその一文が、真夜中の今には限りなく不吉に思われた。
「おいどうしたんだ!? ダメだったのか!?」
「脱がしてくれ! この鎧も靴も、全部取っ払ってくれ!」
礫夜は懇願するように求めた。
体かもしくは感覚が、およそ理解しがたい直感でもって礫夜へ訴えていた。
『あと十秒後に体が大きくなるから身につけているものを外せ』と。
「言うとおりにしてやれ!」
青年の号令に、二人の少年が打たれたように礫夜へ飛びついた。
三人に靴やら鎧やらをいじられている内に、十秒はあっという間に経過した。
「うああ! ひい! 体がっ?!」
礫夜はみっともなく悲鳴を上げた。自分の体が内側からメリメリと音を立て、変貌し始める、おぞましい感覚を礫夜へと伝え始める。
少年たちまで悲鳴を上げた。
青年が『早く外してやれ!』と怒号する。
「うわああああ!! うわあああ!! あぎゃあああ!?」
メリメリと音を立てて、礫夜の全身が姿を変え始めた。
ビリビリと音を立てて服やら下着が引き千切れる。
礫夜の体が膨れ上がってゆく。
革靴を脱がしておいたのは幸いだった。今や大きく変わり果てた足の指先からは分厚いカギ爪が突き出している。
礫夜の鼻が前へと突き出し口吻を形成する。
口元から飛び出す禍々《まがまが》しく尖った犬歯。
礫夜の顔中が体毛で覆われた。
すっかり変わり果てた腕も足も、半ばまで狼みたいな体毛で覆われてしまっている。
「くそっ、くそお……ひでえ……なんてえ、気色のわりい……」
礫夜は長くなってしまった舌を口元から垂らしながら『ヘッ、ヘッ』と犬のように息をした。
パンツすら千切れていた。礫夜はベッドのシーツをむしりとり、布団代わりに敷かれていた藁の引っ付いたそれを腰周りに巻いて股間を隠した。
少年の一人が礫夜へと目をかっぴらいて呟く。
「……嘘だろ、信じられねえ……マジかよ……」
礫夜は両手を見下ろして背中をあわ立たせた。両手もガクガク震えだす。
礫夜の両手は変わり果てていた。
手は分厚くデカイものとなり、手の甲も硬い毛並みで覆われている。指の先からは悪魔みたいな分厚い爪が飛び出てる。
「鏡だぁ、鏡はねえのか」
なんだか口調まで変になっていた。
鏡が欲しかったがそんなものはこの寝室にはない。
ただベッドの脇に水のたまった椀が置かれていたので、礫夜はそれへ飛びついた。
ゆらゆらと揺らめく水面を、息を呑んで凝視する。
「…………ああ、ああ、こんな…………こんな……嘘だろよおオイ……」
椀を水鏡にして映し出された礫夜の顔は、人のものではなくなっていた。
狼の顔だ。それも妙にみすぼらしい。
眉間を縦断するようにサンマ傷があり、そこだけ毛がはげていた。
頭の犬耳も、片一方がしょげたみたいに折れていた。
礫夜の顔は変わり果てていた。もはや人間族ですらないのだから、それも当然。
今やエファシオンですら、礫夜を礫夜と認識できやしないだろう。
礫夜は狼男になってしまった。
多分普通の人間だったら、かつての自分への愛おしさから、狂おしいまでの悲鳴を上げていたはずだ。
しかし、今の礫夜はそうじゃなかった。
「ヘッ。――ヘッへエ……まあ別に、むしろ、中々ステキな仕打ちかもなあ?」
恐怖を感じぬ礫夜の心は、自身の姿を失ってしまった事への恐怖感もあっけらかんと忘れてしまった。
変わりに感じたのは、むしろ喜びだ。
今の礫夜はまるで【復讐の権化】みたいな姿。
礫夜の身長は2メートルを越えていた。
体は女に怖がられそうなほど筋骨隆々で、力でムキムキ漲っている。
薄暗い室内にいても[闇に怯える人狼族]は恐怖なんて感じなかった。
きっと[勇者の秘薬]の効能だ。今の礫夜は恐怖なんて感じない。
感じているのは胃の腑で煮え立つ【怒り】だけだ。
礫夜は呆然としている青年たちへ声を掛けた。
「オイ、手伝ってくれ。俺はエファをさらった奴らを、懲らしめに行かなくっちゃあいけねえのさ」
礫夜は脱ぎ散らかした装備を再び装着した。
革鎧はサイズ調整ベルトを最大限延ばしても、今の礫夜の体にはひどく窮屈だった。小手もだ。
それでもなんとか装備できたのは、もともとある程度の体格差に対応できるように作られていた為か。
礫夜は装備を整えるなり、寝室から飛び出していた。
やっぱり闇なんてヘッチャラだった。それだけじゃない。
匂いがした。エファの匂いだ。
エファの匂いが、まるで礫夜の狼の鼻を引っ張るみたいに、誘拐犯たちの逃げたほうからプンプンプンプン香ってきていた。
「こいつあいいっ。最高だ! なんてえ自由な体だよこいつは!」
礫夜は裸足だ。以前の革靴なんてちっちゃくて入らなかったが、裸足でまったく問題ない。肉球に覆われた足の裏はまるで靴要らず。
礫夜は教会の中庭をドシドシと横断した。
塀へと長い腕を伸ばせば、デカイ図体には柵でも乗り越えるみたいにひょいと塀を乗り越えられた。
礫夜は走った。
この体なら誘拐犯だって千切っては投げられる気がしてならない。
礫夜の心中でクレバー礫夜が『気をつけろ』と囁いていたが、
それより狼みたいに野生の礫夜が、盛んに盛んにがなり立てている。
お前の女を取り戻せ。
お前の誇りを取り戻せ。
お前をなじった奴がいるぞ!
「俺をなじった奴がいる!!」
お前はちくわ野郎のままか!?
「違う!! だってのに――俺をふにゃふにゃのちくわ野郎だと――中身のスカスカな、チーズとか入れて[つまみ]に出来ちまえるような【つまめる奴】だと舐めきって行った奴がいる!!」
舐め切って行った奴とは誘拐犯たちの事。
ちくわ野郎だから礫夜は女を奪われたのだ、きっと。
奴らはエファを奪っていった。
あんなちくわ野郎なら怖くもなんともないとあざ笑いながら、怯えるエファを奪っていったのだ。
『レキヤ! レキヤ!』と叫ぶ彼女をよってたかって好き放題するのだろう。
あわれなちくわ野郎の事をあざ笑いながら!
「野郎!! 許せねえ!!」
礫夜は両目を血走らせた。
でかい図体で遮二無二遮二無二エファの匂いを追っかける。
目指すは彼女と誘拐犯たち。
遂げるのは救出と――復讐だ!!
走れ礫夜。お前の未来はお前のその両手で奪い返せ。