-Epilogue 03-
「お腹、空いたな……生姜焼き、チャレンジしてみようかな」
暢気に今日の晩御飯のおかずを想像しながら、いつものように鍵を開けて、いつものように部屋に入る。
そんな風に、良い具合に今日一日が終わるように見せ掛けて、やはり良いことが連続した先では、悪いことが起こるのである。
いつもの居間に、理沙と倉敷さんが下着姿で立っていたのだから、これが悪いこと以外にどう捉えられようか。
断じてご褒美じゃない。
僕が硬直し、動けないところに理沙が無言で脇腹に回し蹴りを喰らわされ、痛みに苦しんでいる間に追撃が飛びそうなところで、走馬灯が駆け巡った。
短い人生だった。特に良いことも悪いことも無くて、というかほとんど悪いことばっかりで、現実ってほんと夢が無いよなぁなんて思ったこともあったけれど、ここまで生きて来たんだからできれば働くことの喜び? 社会の歯車になっても得られる幸福感とやらを体験してから逝きたいものだったなぁ。
「正座」
「は?」
「正座! あと、しばらく瞼を閉じていること!」
理沙に命じられるままに、僕は脇腹を押さえつつ、上がり框を一歩前に出たところで正座し、瞼を閉じた。衣擦れの音がしばらくしたものの、それにどうこう思うよりも脇腹の痛みが相当であったため、横になっていたかった。
どこかの骨が折れていないだろうか。脇腹とは言え、肋骨にダメージが言ったはずだ。それか内臓のどこかが出血していたりしたら、僕はこのまま死ぬのではないだろうか。
とにかく、脇腹が痛い。これはもう傷害罪で警察に来てもらっても僕は悪くないのではないのではとすら思ってしまうほどに。
しかし、事態はそうも言っていられないのだ。なにせ僕は、“見てしまった”。これでは痴漢である。警察沙汰になると僕の落ち度も露呈され、そして僕は変態の汚名を着せられることになる。もしも、警察を呼んだなら、この二人は平気で僕を引き渡すだろう。そういう性格だと、もう重々に理解しているからこそ、僕は彼女たちに言われるがままに正座しているのだ。
数分後、理沙に言われるがままに瞼を開く。二人は衣服を着終えたらしい。理沙は相変わらずスポーティな、ちょっと肌の露出が多めの格好で、逆に倉敷さんは肌の露出を極力控えた格好。理沙は制服姿で来たことがあるけど、相変わらず倉敷さんは僕にスカート姿を見せるのが嫌なようだ。というか、今、それ以上に問題となっているのはスカートの先にあるものを見てしまったせいだからなのだけど。
「なにを見た?」
「なにって……なに、が?」
眼前で仁王立ちし、阿修羅の如く猛り来るっている倉敷さんの、もはや恫喝に近い低い声に怯えて、か細い声しか出て来ない。なんだかんだで男を演じていたことがある分、こういうときの怒りに満ちた声はちょっと、素で怖い。
「なにを見た? 正直に言いなさい。怒らないから」
その言葉を僕は母さんや父さんから何度、聞かされただろうか。「怒らないから」は怒ること前提で口に出されるものだ。二次元でも三次元でも、この言葉は同様の意味を持つ。
嘘をついても怒られて、正直に言っても怒られる。そう、「怒らないから」と言われた瞬間に、詰んでいるのである。どちらの選択肢を選んでも、その先に待っているのはバッドエンドしかない。
「正直に言った方が良いよ、涼。踵落としを喰らいたくはないでしょ?」
なんで陸上部でありながら回し蹴りや踵落としが出来るんだよ。足を大事にしろよ、なんのために陸上部入ってんだよ。お前、もう空手部とかそっち系の部活に入部しろよ、多分、素質あるからさー。
「えーとえーと……」
「嘘をついたら、踵落としじゃ済まないよ?」
踵落としが決定しているような言い方は勘弁してくださいよー理沙さん。
心の中で敬語で恐怖を示したところで、理沙にはきっと届かない。届いていたって無視される、きっと。
「釈明の余地はありますか?」
「一応、聞かせてもらおうじゃない」
倉敷さんが、明らかに僕を軽蔑する眼差しを向けたまま言う。
「ここは僕が下宿するために借りている部屋で、ここに入れるのは僕と、合鍵を持っている理沙や家族ぐらいなんだ」
合鍵は前回の一件――パッチペッカーと戦ったあと、「また同じようなことがあったとき、部屋に入れなかったら困るし」と理沙に熱く語られ、それなら仕方が無いなと新しく作って渡したのである。
それがまさか、こんな形で使われるとは誰が思っていようか。
「だから?」
だから、と来た。「だからなに?」と目が語っている。というか目が据わっている。人を殺せそうな目だ。僕、死ぬのかなこのまま。
「故意でって、わけじゃなくて、その……あの、ですね。ほら……ここで、まさか着替えているとも思わない、じゃ、ないですか?」
ないですか、の部分は恐怖のあまり声が引っ繰り返った。自分でも驚くほどの裏声だった。
「私たちは、なにを見たのか、を訊いているの。それで、なにを見たの?」
あ、詰んでる。これ、無限ループってやつだ。まったく、デバッグくらいちゃんとやれよなーゲームメーカーはー。
……現実逃避もここまで来ると、もう自分でも痛いと思ってしまうな。
諦めよう。
諦めて踵落としを喰らおう。理沙のことだ。きっと死なない程度に手加減してくれる。
「理沙の水色と白の水玉模様と、倉敷さんの白のフリル付きの上下セットがっ、ふぁっ?!」
踵落としではなく、右の鎖骨辺りを理沙は思い切り蹴って、僕はその衝撃に耐えられず仰向けに倒れた。
「殺そう」
「さすがに殺すまではかわいそうだから、記憶喪失ぐらいで手打ちにしません?」
いやそれどっちも怖いから。あと、鎖骨って人間の急所の一つだから。ここ折れたら腕全体が機能しなくなるから!
「なんで!? なんで僕の部屋で着替えとかしてんの?! そんなの予想できないよ! 想定できないよ! 普通、疲れたらまず部屋の鍵を開けて中に入るよね?! なんの疑いもなく鍵を開けて、中に入るよね!? 僕に非は無いはずだよ!!」
「まぁ、涼の言いたいことも分からなくはない。それに、タイミング的にはまだ良かった方だとも思ってる」
「どういうこと?」
理沙が倒れた僕の右胸部を踏み付けながら言うことに疑問を感じ、そのまま質問に変える。
「あと十秒遅く、扉を開けられていたら大変だった」
「だからどういうこと?」
「私たち、水着に着替える途中だったから」
………………十秒遅くに帰っていれば良かったなー。
「桜井さん。立花君の顔が『惜しいことしたな』と語っているからそのまま殺しちゃって」
「思ってない! 思ってないから!!」
いやでもつまり、この二人はタオルも使わずに着替えようとしてたってことなんだろうけど、なんでそんな恥ずかしげもないことしちゃってるんだよ。二人ってそんなに仲良かったっけ。タオル使わずに着替えられるほど、仲良かったっけ? それとも公共の場じゃないから安心して着替えられるとかそういうことなの? 分からないんだけど!
「殺すのはかわいそうだから、全裸にして部屋から追い出すのはどうですか?」
「それ、名案」
「……セーブデータをロードすることは?」
「「なに現実で痛いこと言っちゃってんの?」」
純粋に気持ち悪がられた。それが普通の反応だ。こういうことは思っていても言っちゃいけない。けれど、その痛さを承知の上で、なにか事態が変わらないだろうかという願いがあったのだ。
僕の身ぐるみが剥がされる、まさに貞操の危機。そんなとき、状況を読まないインターホンが鳴り響く。
「人が来たんだけど」
「五分ぐらい静かにしていれば、大丈夫でしょ」
「いや、だいじょばないから」
倉敷さんの理論には賛成できないし、賛成したくもない。ここは大声を上げて助けを求める場面だろう。けど、どうやって説明する? どうやったら納得してくれる?
女性二人に襲われているというシチュエーションを――主にこれから被害を受けそうなのが男の僕であるということを、どうやったら分かってくれる?
「涼にとっては理想のシチュエーションじゃないの?」
「理想は現実にすると案外、儚いものなんだよ……しかも理想でもなんでもないよ」
悲しいことに、不運なことに、最悪なことに、鍵を掛けていなかった扉は勢いよく開け放たれる。
「いぇーい、涼の兄貴! いっつも貧しい食事をしている涼の兄貴のために、近くに寄ったついでにスナック菓子持って来てやったぞ、スナック菓子!」
僕らの惨状を見ると、奈緒のテンションがダダ下がりし、無表情になる。
「邪魔して悪かったな、涼の兄貴。そのまま、大人の階段を登るんだろ……? バイトは休まないようにな」
スナック菓子を玄関にポシャッと放り出して、奈緒はそのまま立ち去った。玄関の扉は開きっ放しなところに無意識の悪意を感じる。
「なんか、御免なさい」
倉敷さんは僕の服から手を離し、知らない女の子に自身の行動を目撃されたショックが大きいらしく、静かに部屋の奥に下がった。理沙も無言のまま、僕から離れる。
無言のまま、起き上がって僕は玄関の扉を閉め、深く深く溜め息をつく。
「ええと、今の子は花美ちゃんの友達……だよ、ね」
「そうだよ」
「……友達のお兄ちゃんが身ぐるみを剥がされそうな様を目撃って、トラウマ……にならない、かな」
理沙はそこはかとなく奈緒を心配しているようだった。
「馬鹿だから、その辺りは気にしなくて良いと思う。でも、もうこの不毛な争いは終わりにしない?」
僕の問い掛けに、二人が渋々と肯く。これで僕の貞操と同時に命が救われた。奈緒はまさに救世主だった。今度、バイトに行くついでにお菓子を持って行こう。
「なんで、僕の部屋で着替えてたの?」
蒸し返すような話を振ってしまったけど、そもそもの原因を知りたいのだ。どうして僕がこんな目に遭ってしまったのかという明確な原因を教えてもらわなきゃならない
「水着なんだから、そりゃ海に行く準備じゃん」
「海?」
「夏休み。立花君を誘って、海水浴に行こうって話になったの」
「それで二人でショッピングに行って、買って来た水着を改めて試着してたところに、涼が帰って来た。これで納得?」
僕が倉敷さんの怪我やらなんやらを心配していた間――実に土曜日と日曜日の二日間。その二日間に、ショッピングに行くまでの仲になっていたとは思わなかった。
「これからは僕の部屋でそういうことしないでよ。まぁ、ここ以外で着替えが出来る場所が無かったのかも知れないけどさぁ……」
倉敷さんは高級マンションに住んでいて、きっと親の許可が無いと友人を招くことはできないのだろう。にしても、二時間半掛かるこの場所に理沙が来ているという、妙な行動力も不明この上ない。いい加減に、気分で高校をサボるのはやめた方が良い。でないと怒られるから、主に僕が。
「うん、気を付ける。ちょっと涼の優しさに甘えちゃってたところがあるのかもね」
言って、理沙は僕の胸に額を当てるようにして身を預けてくる。
「でも、涼がいつも通りで安心した。悠里がいつも通りなら、私も頑張んなきゃ、ね」
あーそう言えば、事の顛末をまだ理沙には話していなかった。倉敷さんが代わりに伝えていそうだけど、僕の口からも話すべきだろう。
「理沙を傷付けた人だと思ったんだけど、大外れ。でも、理沙を引き合いに出して来た勝負には戦って勝った。巻き込む形になっちゃったから、落ち着いたら謝りに行くって言ってたよ」
「うん、倉敷さんに私や、自分のために戦ってくれたって聞いた。ありがと、涼。ほんと、いつもいつもありがと。私、頑張るね」
僕から離れ、理沙はいつもの笑顔を向けて来る。
その陽だまりのような笑顔が――初めて理沙と会った時に向けられたその笑顔が、僕は嫌いだった。でも、今はこの笑顔が無いと、耐えられない。
「実はね、涼。隠していたことがあるの」
意を決したように表情を変えて、理沙は言う。
「右耳、会話域は問題無いけど、聴力が落ちているの」
「……は?」
「でも、一週間くらいで元に戻るって、言っていた。朽葉が、言っていた。現にもう数日経って、少しずつ会話域以外も聴こえるようになって来てるから、心配しないで」
「くち、ば……!!」
翻り、歩いて外に出ようとしたところで、倉敷さんに腕を掴まれた。
「どこに行くの? 怒りで我を忘れるなんて、あなたらしくも無いでしょ」
頭は怒りの熱で煮え滾っている。
でも、倉敷さんの言葉が脳を冷やしてくれる。
そう……外に飛び出しても、“あいつ”の居場所を僕は知らない。
大きく息を吸い、力を抜く。向き直って、倉敷さんと理沙を交互に見つめる。
僕が立ち止まったことに安堵し、倉敷さんは僕の腕を離した。
「大嫌いな幼馴染みが居る。天柱 朽葉。天の柱に、朽ちる葉っぱと書いて、天柱 朽葉。僕の性格が捻じ曲がった最大の原因なんだ」
「朽葉は私たちより一個上の幼馴染み、だったの。でも、涼が『Armor Knight』をやめた同じぐらいの時期に、居なくなった。大きな病院に入院したって、先生は言っていた気がする。どこの病院かまでは、教えてくれなかったけれど。でも、朽葉は私の前に現れた」
「それって、桜井さんが入院したってどこかから情報を手に入れて、わざわざ会いに来た?」
「『炎帝』が退院したって言っていた。それを聞く前に、理沙のところに“あいつ”は現れた。住んでいる場所も、なにをしたいのかも、分からない。だから、倉敷さんに止めてもらえていなかったら、僕はほんと、どこに行っていたんだか……」
「涼ってたまにそういうところあるよね。リードを付けて、手に持っていないと勝手にどこかに行っちゃうような」
「僕は犬じゃない」
「首輪に名前を書いておかないと、どこかの家で拾われて厄介になっていそうな」
「僕は猫でもない」
力が抜けてしまった。なんなんだよ、もう……。
でも、結局、僕の側からは“あいつ”に対し、どんなアクションも起こすことはできないのだ。それを僕よりも早くに理解した二人は、この剣呑な雰囲気を崩すためにわざと関係の無いことを言って誤魔化してくれた。
なんにもできないのなら、それに甘えることにしよう。
人生には良いことと悪いことが同量に、等しく訪れる。
今日は良いことがたくさんあった。
だから、天柱 朽葉の存在は、僕にとって間違いなく、悪いこととして同量に訪れたことなのだろう。




