全てを犠牲にする魔法の言葉
「少しの間だけ時間を置いて、って桜井さんが」
廊下で窓の外を眺めていた立花君に私はそう声を掛けた。
「そう、そっか」
「……全部、私のせいだから。私を悪者にして、良いから。だから、仲直りはして」
「仲直り? 僕と理沙の間柄に仲直りって言葉が、あるのかな。幼馴染みだし、まぁ謝るけど……僕と倉敷さんの間柄のように仲を直すって言葉はないと思う。仲は壊れていない。僕らはずっとずっと繋がっている」
「それは立花君の考え方で、桜井さんは違うんじゃ」
「ふ……ふはは、くふふふ……くふふふふっ」
不敵な笑みを零す。こんな状態で、どうして笑いが漏れてくるのか。彼の笑みは、私の想像を絶していた。
「どうしたの?」
「どうした、って……嬉しいんだよ」
立花君は両腕を左右に開き、喜びに満ちた顔をする。
「僕は理沙無しじゃ駄目な人生を歩んでいると思ったんだ! でもね、ほら、見てよ。全く僕は動じていない! なにも感じていない! 居なくなったらどうしようとか! 彼女が傷付いたらどうしようとか!! たくさんたくさんたくさん、考えたのに! これっぽっちも、なにも、感じない! さっきだって理沙に嫌なことをたくさん言われた! だけどほら、僕はこんなにも“普通”だ!」
……ううん、立花君。あなたはもう、おかしくなってる。
この異常性は、どう見ても歪んだ性格が現出した状態だ。
立花君がパッチペッカーと戦ってくれたあと、私も少し調べた。精神や人格の“歪曲化”について。そして、その果てに行き着く“愚者”のことを。
間違いなく、“愚者”になり掛けている。
「だからって笑って良いことじゃない」
「でもさ、もう僕は僕だけで自分の人生を歩めているんだよ。倉敷さんに言われたみたいに、脇役で居る人生なんかじゃないんだ! くふふふふ……治った。治った治った治った」
治ってない。むしろ悪化している。
桜井さんの身に起こった、彼すらも予想だにしなかったことのせいで、その人格は“歪曲化”へと進んでいる。
「人生は一人で歩くものだけど、関わる人たちによって歩かせてもらうことも、あるんだよ?」
「知らないよ、他人なんて。僕は一人で歩けるようになった。もう、それだけで良い。僕はね、いつまでも引きずっていた理沙という足枷からようやく外されたんだ」
足枷?
自分の心の支えになっていた相手を、足枷呼ばわりするなんて、最低だ。
「立花君、あなたは桜井さんの言葉には動じないらしいけど、私の言葉はどう?」
「どう、って倉敷さんは信頼できる人だから、そりゃ一応は聞いてあげようとは思うけど」
「サイッテー」
「……え?」
「そんな状態で桜井さんの前にまた現れたりしないで。このままあなたは帰って。帰ってもう一度、今の今までの言動を振り返って」
立花君はしばらく納得行かないかのように私を睨み付け、手をワナワナと震わせていたけれど、やがて力なく項垂れると、トボトボと廊下を歩いていった。
立花君と別れたあとは、病院のロビーで時間を潰し、私は桜井さんの病室に戻った。それだけの時間を要しても尚、私は中に入れてもらえるわけがないだろうと思いつつノックをした。それなのに、やけにあっさりと彼女は私を中に通してくれた。
けれど、それで私が隠していたことが許されたとは、思わない。
「座ってください」
「……私は病室の隅に居るぐらいで、丁度良いと思っている、んだけど」
「気にしないで下さい。落ち着きましたから」
どうぞ、と言われてしまい、反論するわけにも行かずに私は丸椅子に腰掛ける。
「これをまず、どうしても訊いておきたいんですけど、付き合っているんですか?」
「付き合って、ない」
開口一番に訊ねられたことに私はすぐさま答える。特に「ない」の語意は強めた。
実際、私と立花君は付き合っていない。本当のことを話すことには一切の躊躇いも必要無い。むしろ、全て話してしまいたいくらいだ。
「そう、ですか。テオドラさん、先ほどは取り乱してしまって、申し訳ありませんでした」
「……ティアだけじゃなくて、テオドラの声も?」
「はい、さっきは三重に聞こえました。今はもう、こうして面と向かっている倉敷さんの声しか聞こえませんが」
「その……絶対音感があったりする?」
「絶対音感があるかどうかは分かりませんが、私、小さい頃から音を聴くと、ぼんやりと人の顔が浮かぶんです。人って言っても千差万別で、説明できないんですけど、とにかく『ド』の音にはこういう人、『レ』の音にはこういう人、っていうのがあります。これ、涼にも言っていないことなんですけどね」
「共感覚」
「へ?」
「あなたのその、音に対して別の感覚が反応することを共感覚って言うの。数字が色で見えたり、色を味で感じたり……多分、あなたのも、その共感覚と同じ」
絶対音感も共感覚とほぼ同じものだけど、私の場合はただ音に音階が付いて来るだけだ。それだけでも凄いことらしいけど、子供の頃からのことだから慣れてしまった。多分、桜井さんもそうなのだろう。
「へー、少しだけ頭が良くなりました。ありがとうございます」
「……その、敬語を遣われるの、苦手なの。そもそも、遣ってもらえるような相手でも、私は無いと思うし。それと……黙っていて御免なさい。本当はもっと早くに、伝えるべきことだった。あなたと現実で出会ったあのときに、ちゃんと、伝えていれば……」
「気持ちの整理は付きました。気にしないでください。でも、ゲームではタメ口で話せそうですけど、現実ではできません。年上の人には丁寧な口調で接するように、親には言われていますし、あなたと私はまだ身の内を知った仲でも、ありませんし」
私の要求を突っぱねられてしまった。至極、当然のことなのでなにも言い返さない。というか、言い返す資格は私には無い。
「その……ゲームで、なにがあったの?」
「アズールサーバーで1vs1の野良マッチングを募集したんですけど、プレイヤー名非表示の、物凄く強い人と当たって、まぁ負けちゃったんです。そのあと、なんだか体のあちこちが痛いなーと思いつつ、時間だからログアウトしようとしたら、プレイヤー名を伏せている人に、それを邪魔されました」
「どんな、風に」
「セクシャルなことは無かったんですけど、簡潔に言うと“暴力”です。GMが来るまでずっと軽く殴られたり、蹴られたりを繰り返されていました。GMが来る前に、私は涼に物理的にログアウトさせられたんですけど」
殴る蹴るの暴力を浴びるだけでも心は折れるものなのに、こんな簡単に言えてしまうところに、私は呆気に取られる。
トラウマになって、ゲームをやめたくなるくらいの出来事だというのに。
「怖く、なかったの?」
「怖かったですよ。けれど、“たかがゲーム”じゃないですか。涼の話し相手をするよりはずっと楽ですよ。だから、まだゲームをやめる気は無いですね。ただ、テスト期間中は自粛しますけど。親に心配掛けてしまったので」
そんなに立花君の相手は大変なのか、と思ってしまう。
「GMに、コールを受けたらもっと速く来るようにって抗議のメール送ってみる」
「お願いします。これで、私がこうなった事情についての説明は終わりました」
桜井さんは私を敵視こそしてはいないけれど、なにかしらの心情を込めた視線を飛ばしてくる。
「それでは、私に黙っていた理由を話してもらえますか?」
「……ただの、悪戯のつもりだったの。立花君に対して、ちょっかいを掛けるとか、そういう感じ。それが徐々に徐々に、説明できないくらいにズブズブと……泥沼に嵌まってしまって、明かすタイミングが訪れないままに、こんなことに、なっちゃった」
「悪意は?」
「無い。あなたに対しては絶対に、無い。最初は、立花君が、困ってもらっているという状況を楽しんでいただけ。それだけでも、私の性格の悪さが出て来ているのは、分かってる」
耐え切れず私は彼女から視線を逸らす。なんて真っ直ぐな目をしているんだろうか。こんな子とは、まともに顔を合わせ続けられない。
「……分かりました。私が知らないことを二人で嘲笑っているんじゃないってことは、ちゃんと伝わりました。そもそも、ティアとして私に接してくれていたあなたが、そういう人じゃないことはちゃんと分かっています。ただ、一つ問題が」
そこで桜井さんは一度、息を整える。
「涼にも戻ってきてもらいたかったんですけど、ここに一緒に来なかったってことは、きっとあなたの癇癪に触れるような酷いことを言って、あなたが涼を責めて、そのことから逃げるように病院から出て行ったんでしょう」
「よく分かるね」
「幼馴染みですから」
その関係性が、私にはとても……とても、羨ましい。
「それが問題なの?」
「涼は私が傷付いて、“愚者”になり掛けているはずです。整ったはずの性格がまた歪んで、隠していたはずの本質が顔を見せ出した。違いますか?」
「あなたに、なにを言われてもなにも感じないって。一人で自分の人生を歩けるようになったって、喜んでた」
「……人生を一人で歩けるようになったのは、良いことなんです。私に頼り切りな涼が、自立できるようになった証拠ですから。けれど、それをこの状況下で“喜んでしまったこと”が、私はとても怖いんです」
幼馴染みが傷付いたというのに、自身の生き方に変容があったことを喜んだ。
それは、彼に他の人間関係があるのなら、有無を言わさずに悪化させるような、そんな危険性を孕んでいる。桜井さんは立花君の幼馴染みだから、そして彼の事情を知っているから、彼が喜んだとしてもそれに不快感を抱かず、むしろまずいことだと受け取れる。心配できる。
けれど、他の人が全て、彼の事情を知っているわけじゃない。彼の心情を読み取れるわけじゃない。
他者が傷付くようなことを平気で口にして、そのたびに浴びる罵声を受けても、それでもなにも感じないことに喜ぶ。そういう悪循環が起こりかねないのだ。ただでさえ私も、病院で、しかも幼馴染みの病室のすぐ外で笑い声を上げる立花君を不謹慎だと思った。だからあんなことを言ってしまう形になった。
とてもまずい兆候だ。
「また踏みとどまれる可能性は?」
「自立できたと思ってしまった涼が、私の言葉をしっかりと聞いてくれるかどうかは、定かじゃありません」
「あなた以外に――その、彼のお姉さんとか妹さんの言葉は?」
「冬美さんの言葉を不快と感じ、妹を疎ましく思う。昔の涼と同じ歪み方なら、きっと耳を貸しません。ゲームで、『Armor Knight』で涼に勝つという方法もありますけど、それは荒療治のようなもので……そもそも、私は涼に勝てるほど強くありませんから」
「私も、立花君には勝てない」
立花君と私たちの『Armor Knight』のプレイヤースキルは、天と地ほどの差がある。
まだ始めて数ヶ月の桜井さんはともかく、これでも私はベテランプレイヤーの一人だ。そこらの野良では負けないくらいには強い、と自負している。
でも、立花君と対決して、勝てる自信はない。彼の強さは別格なのだ。望月さんに言われた通り、私は彼には、敵わない。
「じゃぁ……もう方法は、無いって、こと?」
「……倉敷さんは、涼の面倒を見る覚悟がありますか?」
「覚悟?」
「高校を卒業して大学生になって、大学を卒業して就職――涼が就職できるかどうかは別として、働くようになって、そして運が良ければ結婚して、子供を作って、孫が産まれて、そして家族に囲まれて逝く。そんなどこにでもある平凡な人生の一つの歯車になる覚悟が、私みたいに……ありますか?」
「人生を立花君から委ねられろって、こと?」
「どんな未来が待っていても、付かず離れず傍に居る。“愚者”に偏る不安は、涼が死ぬまで付き纏うことです。その予兆が見え隠れするたびに、しっかりと支えて、しっかりと学ばせて、前に進ませる。人生を委ねられるんじゃなく、人生を犠牲にするような、ものですけど」
桜井さんはシーツをギュッと握り締める。
「私は、その歯車の一つです。どれだけ好きでいても、どれだけ頑張っても、きっと涼は私に振り向いてはくれない。だって、私は幼馴染みという大切な歯車でしかありませんから。もしかしたら、ということもきっとあるかも知れません。けれど、可能性としては限りなく低いことです。諦めては、いないんですけど、ね」
その苦笑いから来る彼女の奥底に眠っていた様々な感情が、私の胸の奥を揺さぶる。
一つ年下の、この子は私よりもずっとずっと辛いものを背負わされているのだ。あの立花 涼という男のせいで、彼女はこんなにも苦しんでいるのだ。
「良いの? 私がそんなことを引き受けたら、その可能性の中に私も含まれるかも、知れないけど」
強がりを言ってみる。どうせこんな言葉は通用しない相手なんだろうけど。
「魅力で勝ってみせますから」
黙っていなきゃならない。
私のこの胸の内でざわついているものが、そうであると私自身、言い切れないのだ。初めての感情で、初めてのもので、初めてのこと。なにもかもが初めてだから、なにもかも分からない。
だから伝えることはできない。
「縛りプレイ……か。人生で、まさかそんな束縛があるなんて、思わなかったけど」
人生は詰むことも積むこともないんだから、まだマシかも。
「歯車になれば、立花君は立ち直れるんでしょう?」
「恐らく、ですけど。あなたのことを悠里が信じていて、そしてまだ、信じていれば……きっと、踏みとどまってくれます」
「……分かった。あなたに黙っていたことに対する罪滅ぼしになるなら、歯車に、なってあげる。それで、なにをすれば良いの?」
「魔法の言葉があるんです」
私は首を傾げる。
「魔法の、言葉?」
「どんな状態の涼でも一発で目を覚ます、魔法の言葉。倉敷さんも、前に一度聞いている言葉です。それを口にしたとき、涼があなたのことを少しでも信じてくれているのなら、絶対に届く、最低にして最悪の、想っている相手には絶対にぶつけたくはない言葉です。けれど、私たちはずっとこの言葉を、涼にぶつけ続ける歯車……本当に、酷い酷い話です。けれど、それで涼がまともになってくれるのなら、私はそれだけで、救われるんです」
この子は心の底から、立花君のことを想っている。想っているが故に、ずっと目を向けてもらえない。
私もその仲間入りをしなければならない。辛いことではあるけれど、罪滅ぼしなのだから仕方が無い。
あのどうしようもない男がその罪に、苦しみに気付くまでは、耐える。
人生とは、傷付き、苦しみ、もがき、辛いものなのだと理解し、一人で歩けるようにさせるために。




