懲りない自分という人間
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現実におけるアイデンティティについて、語るべきことは語らせてもらいたいとも思うのであるが、そんなことを語れるほどに僕は雄弁ではない。
そもそもにおいて、小学生の頃からの人見知りで、根暗で、疑心暗鬼に囚われているような男が、力強い言葉を吐けるほどに世の中は甘くないのだ。
この『根暗』、『陰険』、『陰湿』、『疑心暗鬼』、『人見知り』、『上がり症』の六連コンボを持つ僕に太刀打ちできる人は今現在において、幼馴染みしか居ない。要は僕が内包している弱くて、情けない心の部分を正直に曝け出すことができる相手は中学まで一緒だった幼馴染みしか居ないと考えてもらっても構わないはずだ。
なにより、この六連コンボは件の幼馴染みと口喧嘩した際に「根暗! 陰険! 陰湿! 疑心暗鬼! 人見知り! 上がり症!」と連続で叩き込まれ、僕がギブアップしたときに誕生した。
これを克服できる人間はそもそもにおいて頭の中でアイデンティティについて考えない。克服できない人間だからこそ、自分自身を見つめ、自分自身の存在定義について意味も無く、ただ暇潰しのように頭の中で内容を展開させていく。
つまるところを言えば、僕は高校内で浮いている。変質者レベルで浮いている。けれど、ゲームオタクという位置付けにある。そのおかげで、クラスメイトの男子からは辛うじてイジメに遭っていない。まるでクラスメイトの女子からはイジメに遭っているかのような言い方だが、どうやら彼女たちの目に僕は映らないらしいので、前提として踏まえる必要が無いのだ。
昨今、ゲームができる人間は基本、会話が成立していなくとも、どうにかこうにかやって行けるものだ。アクションだろうとRPGだろうと、ゲームというゲームについて詳しければ詳しいほどに、リア充の男子からは一目置かれる。
このリア充たちは基本、僕を体の良い助っ人――お助けキャラのように放課後、鞄にこっそりと忍ばせていた携帯ゲーム機を扱う際に僕を呼び出して「ここはどうしたら攻略できんの?」とか「あの攻撃、避けらんねぇんだけど、コツとかあんの?」みたいに訊いて来る。
それについて、幼馴染みに六連コンボを受けてからというもの、常に瀕死状態の僕は地味に、更に挙動不審ながらも、しかしバカにされない程度に声を大きめに発して、アドバイスをする。残念ながらスマホゲーやソシャゲーに関しては知識はあるものの手を出していないので答えられないが、向こうもそれを分かってくれているためか、訊かれるのはもっぱらコンシューマゲームに限られている。これはありがたいことであるが、そこまで気を遣われているのかというちょっとした気分の低下ももたらす。
それでも、なんだかんだで僕はこの、友達と呼べる友達も居ないような高校での生活を乗り切っている。
ただし、声を大にして言いたいことは、ゲームオタクではなくゲーマーだということ。似て非なるものであることを明確に伝えたいが、それを伝えられるようになるのはもっともっと先のことになりそうである。
高校生活に不安という二文字が常に付き纏っていることは僕にとって、大いなるストレスだ。誰にも心を開かず、誰にも心を開かせられない毎日を一体、どうやって乗り切らせているかは想像に難しくない。
ゲーマーがストレスを発散するのは常にゲームである。趣味がゲームとかそんな領域ではない。もはや、日常生活の一つとしてゲームという予定が入るものなのだ。
これについては深く語るに至らないと思う。MOやMMOが流行り出した頃から、顔も知らないフレンドに対して「明日の何時に何処何処で会おう」というやり取りは、ゲーマーからしてみればスケジュール帳に書き込んでも差し支えないほどの約束事なのだ。
恋人? デート? そんなイベントは知らない。辛うじてリアルのスケジュールに組み込んだことがあるのは幼馴染みとの約束事ぐらいであとは白紙である。
だから、僕は毎日をゲーム漬けにしてしまいたいほどのゲーム好きである。勿体無い病がどうとか言う以前の問題で、父さんに殴られ、母さんに泣かれたというのに懲りずにゲームを続けている。一人暮らしを始めてから、両親の目から逃れることができた分だけ、ある意味では抑制ができていない。だが、これでもだいぶ、リハビリできている方なのだ。幼馴染みにそう言うと「絶対にあり得ない」と一蹴されてしまうんだけど。
でも、本当にVRMOに至ってはそこそこに、抑制できているのではないだろうかとここ最近の生活を鑑みて思うのだ。
だって、幼馴染みとしか僕はVRMOでチームを組まない。幼馴染みが居るチームでなければ、他の人と遊ばない。そういう縛りを設けている。縛りっていうか、そういう遊び方をしている。そうしなければならないような、実に“恥ずかしいこと”を行っている点については、なんとかならないものかと毎日のように思ってしまうことだけれど。
リア充からの質問をどうにかこうにか切り抜けて、高校から下宿先に帰宅したのちにすることは制服から私服に着替え、今日の夕食の献立はどうしようかと考えてからのゲームである。
ライフスタイルの一つである、パソコンの電源をいつものように入れて、起動するまでの間に着替えだけでなく、洗面所に行って手洗いうがいを済ませて戻る。喉が渇いているならここに冷蔵庫に入れている麦茶を飲む行為を加え、トイレに行きたいときはそれも済ませる。しかし、小腹が空いていても、お菓子をパソコンの前で食べたことは、パソコンを始めてからこの方、したことがない。
はしたないと思っている部分も無きにしもあらずだが、キーボードや携帯端末が汚れてしまうのが耐えられない。指紋やら埃やらはもう諦めたのだが、さすがにお菓子のカスがキーボードの間に入っていたり、お菓子に付いていた油で携帯端末の画面が汚れることだけは避けたいのだ。
そんなこんなで起動を終えたパソコンにパスワードを入れてログインを終え、自身のほぼまっさらなデスクトップ画面を数秒眺めたのち、そこに置いてある、システムのショートカットをマウスでダブルクリックし、HMDのケーブルをパソコンと接続させる。挿しっ放しにしているとエラーが出るので、これは今後のパソコンにプログラムされているOSのアップデートを待つまでは我慢するしかない。ゲーマーたちの声に大企業が耳を貸すかは大いに疑問ではあるが。
頭と顔をHMDですっぽりと覆う。現実と立体視によって構築された物質を混合させて、現実世界で遊ぶ3D系統のゲームであれば、このHMDもサングラス状のものになるのだが、VRゲームは全神経のみならず意識無意識問わず全てをデジタル化させる必要があるため、頭も覆う必要があるらしい。
『システムチェックを開始します』
「痛っ」
全身を静電気のようなビリッとした痛みが走り、思わず声が漏れ出てしまった。いつになってもこの痺れには慣れそうにない。
しかし、これは機器が正常に作動しているという証拠である。人間の神経を機械が正常にデータ処理しているかどうかを確認する際にはこのチェックが行われる。双方向によるデータの送受信の確認に、痛覚が用いられているのは非効率的なようにも感じるのだけど、やはり誰もが痛みに対して過敏に反応するために機械が認識しやすいから採用されているのだろう。
痛覚が働くということは、その他の神経系に関しても接続が成功しているという判断が下される。ここにエラーが生じると、その先の仮想世界で色々と弊害が生じる。
生理的欲求――排泄と食欲などの諸問題においては、機械による処理の外側にある。それすらも機械頼りにしてしまうと、ゲームで満腹を味わったのにリアルでは空腹が維持されていたり、排泄に至ってはそれはもう想像したくもない事態に陥るので切り離して正解だ。
そして、死に繋がるような一般的な重傷や重体の際に味わうことになる苦痛の全ては強い軽減処理が行われている。仮想世界での死が結果的に現実世界での死に繋がることはないのだ。どのようなゲームでもゲームオーバーはあるが、やり直しが利かないものはない。
僕たちプレイヤーは常に攻略に挑戦する権利が与え続けられる。そういうものだ、ゲームって。