感情に抗わずに
数学の時間が来て、案の定というかやはりというか教師は宿題の答え合わせに、僕が朝に数学を教えた子の座っている列を指定した。黒板に書く際にはどこか緊張しているようではあったが、想定外のことは起こることなく、彼女は無事にそのハードルを突破した。教師も答え合わせへの解説をざっくばらんにはしていたものの、一応ながらどの解答に対してもケチを付けることはなかった。
というか、今日はなんだか数学の教師から元気を感じられない。いやこの場合は威厳と表現した方が良いのか。とにかく、いつもより明らかに疲れているように見える。嫌なことがあったら生徒にイチャモンを付けて来るような教師が、なにをそんな疲れた顔をしているというんだ。一時間目の数学で、生徒に反抗的な態度でも示されたかのようだ。っていうか、それぐらいはされて当然のようにも思えるので、身から出た錆については特段、なにも感じるものがない。これに懲りて、生徒へのたまにある嫌がらせをやめれば、少しは評価も変わって来るんじゃないだろうか。
生徒が教師を評価する現状も、小さな社会のクセに上下関係が引っ繰り返っていることについてだけは、お気の毒にとでも思っておこうか。
「このクラスは、他のクラスよりも全員の数学への理解が深い。そのおかげで、今日教えようと思っていたところまでは教え切ってしまった。なので、残り十五分ほどは私から少し話をさせてもらいたい」
数学の教師が教科書を閉じ、教壇に両手を付いて、支えとする。
「私は高校生時代、不真面目な生徒だった。警察のお世話になったことはないが、遅刻の常習犯でテストだって赤点ギリギリ、教師に反抗的で、三者面談でも親を睨むのが当たり前。卒業間際には成人していないにも関わらず、煙草にも手を出した」
なんだ武勇伝か、と聞き流そうとしたのだが数学の教師はどちらかというと深刻そうに、そして後悔しているかのように話している。
「だが、それをいつしか私は恥だと思うようになった。不真面目であることに憧れていた私は、気付けばどこかに行き、歳を取ると共にその日々を、ただただ虚しく、勿体無いとさえ思うようになった。そして、息子に私は押し付けた」
数学の教科書を机に収めつつ、僕は話の続きを待つ。
「真面目であれと。どれだけの人が悪いことに手を出そうと、自分だけは、個は必ず主張し、正しいと思う方を選べと。真っ直ぐに、実直に、誠実であれと。私は自分が出来なかったことを、息子に押し付けてしまった。息子はきっと、押し付けられたことには気付いていないだろう。気付いていたとしても、私の……父親の言葉を守ろうと、それこそ素直に思ってくれていたはずだ」
そこで数学の教師は唇を噛む。
「しかし、不平不満を発散できないことは同時に、心を酷く歪ませる。誠実に育ち過ぎたが故に、一瞬のあやまちに心が惹かれる。そうして息子は、小さな悪いことをして、大きな痛みを伴った。だが、息子のしたことは私が、押し付けて来たことのしっぺ返しでもある。私の昔した悪いことに、等しく罰が与えられたのだというのは、少々、言い過ぎなところはあるが強ち、間違ってもいない」
真面目……正しい、実直、誠実?
「気付けば私は、息子と同じような、自分と同じような生徒を生み出しては行けないと、心を固くし、頭の中までカチコチに固めて、君たち生徒に接して来た。逆に、同僚や上司となる他の教師や教頭先生や校長先生には良い顔をして、どれだけ君たちに嫌われようとも、自分は正しいことをしているのだと主張し、そう思い込ませようとした。しかし、自己保身に走ってなにが教育者だろうか。君たちの恐怖や怯えに目を瞑り、どうして教鞭を振るえるというのか。だから私は、今年度……或いは今年中に異動しようと思っている。気持ちを切り替えるには、新たな現場が望ましい。なにもなく、一からのスタートとなるが、しかしそうしなければ私はもはや、教育者としての資格すらないのではと、思えて仕方が無い」
なんだろう、なにかが引っ掛かる。
……違う、僕は分かっているのに目を背けているのだ。気付かないフリをして、誤魔化そうとしている。関わらないことで、深みにはまらないようにしようとしている。
ミスターに悪魔の囁きをしろと僕は遠回しに言った。つまり、このことに関してはもう僕は当事者なのだ。外側から物事を見ている立場には居ない。啓二さんから話を聞いたところまでなら、第三者のままで居られただろうけど、それももう無理だ。
「先生」
僕は手を挙げる。
「どうかしたのか?」
「息子さんは、どのようなあやまちを?」
「自転車の二人乗りをして、事故を起こした。起こされた……と言うのは虫の良い話だ。緩い下り坂でブレーキもさほど掛けていないところで、自転車の横側になにかが接触したらしい。バランスが取れなくなり、慌てて前輪のブレーキを先に掛けてしまい、体が右斜め前方へと投げ出された。体を打ち付け、骨折。ただし、それは息子だけの被害だ。息子と二人乗りをしていた女の子は同じように宙に投げ出され、頭を打った。更に側溝に転がり落ちた。この側溝は、他の側溝よりもやや深いものだった。女の子は搬送された病院で一命を取り止めたが、脳波、呼吸共に正常だが、未だに意識不明だ。息子は落ち込み、そしてその日から、ずっと罪の償いを続けている。私も出来る限りのことはしている。女の子のご家族から『もう良いですから』と言われていても、それでも息子が変わらず罪を償い続けているのだから、私も変わらず息子に力を貸し続けている。しかし、人間、いつかは限界がやって来るものだ。そう、最近の息子はまさに限界だ。電話でしか会話をしていないが、もう限界であることは声で分かる。親の私が分からずして、誰が分かるというのだ。息子は全てを投げ打って、生きて来た。だから、独りだ。家族の私が傍に居られない以上、孤独は心を蝕む。だから、異動し、可能な限り息子の傍に居られるようにしたいと、思っている。思うような異動先とならなければ、教師という職を辞めるつもりでも居る。そうでもしないと、息子を守ってやれない。息子を、独り切りにさせてしまう。傍に居て、支えてやらなければならない。それが親だ。親の務めだ」
やっぱりだ。
そう思ったのとほぼ同時に、授業終了のチャイムが鳴った。
「私事はこれまでにしよう。もうこんな話はしない。次の授業までに今日やったところを復習し、次のページの問1から問3までを宿題とする。起立、礼」
ありがとうございました。
クラスメイトと合わせてそう言ったのち、僕は席に着いて窓の外を眺める。数学の教師は教材を纏め、教室を出て行く。
「急になにを言い出すかと思ったら……立花? あれはマジだと思うか?」
「……さぁ?」
また、分からないフリをしている。
そうやって偽って、誤魔化して、また逃げようとしている。
「松本……ありふれた苗字だから、見落としていた……けれど」
嫌だなぁ、関わりたくないなぁ。
それでも、僕は体に動けと命じている。
「立花?」
「御免、ちょっと」
席を立ち、クラスメイトにぶつからないように廊下に出る。
どこまでの深みにはまることになるかは定かではないけれど、ここまで来たなら汚泥にだって浸かってしまおう。
「立花君?」
「望月、ちょっと一緒に来て」
廊下で丁度、特別教室から戻って来た望月と会う。
「……分かった」
なにも訊ねずに望月は肯き、僕は彼女と一緒に廊下を早足で進む。
数学の教師は、次にどこのクラスの授業をするんだろうか。いやでも、その前に職員室には寄るはずだ。クラスによって教材は変える。進んでいる速度が違うから、要点を纏めた教科書も変えるのではないだろうか。あの人が、昔の自分を恥だと思っているのなら、息子に真面目であれと言い聞かせて来たのなら、生徒にどのような評価をされたとしても、自身の職に対して一切の手抜きはしないだろう。だから、職員室には必ず行くはずだ。
僕には難しいことはよく分からない。現実で顔を合わせたこともないサールサーク卿のことについてだって、実のところどうでも良いとすら思っている。
けれど、啓二さんと関わっている。そして僕は啓二さんに関わってしまった。ならば僕がやるべきことは、サールサーク卿のためでもなく数学の教師のためですらない。
数学の教師の言葉を借りるならば、自己保身だ。自分を守り、自分を第一とする。自分が一番で、それ以外は二の次。だから、自分の人間関係が現状より良くなるのではなく悪くなってしまうようなこの変化を、ぶち壊したくてたまらないのだ。
罪の償い? 出来る限りのことはして来た? それは自分への言い訳だろ。言い訳ばかり考えて、嘘ばかりついて来た僕には分かる。心への偽りだ。自分の心に嘘をついて、思い込ませようとしている。それが正しいことなのだと。それは間違いではないのだと。
サールサーク卿が息子であるのなら、確かにその親だ。言い聞かせて来たからこそ、瓜二つどころかもうそっくりそのままじゃないか。
「なんでもかんでも自己完結させて、正しいと思って、思わせて、思い込ませて……言いたいことがあるなら、全部吐き出してしまえば良いのに!」
「立花君、なにに怒っているの?」
「自分と、あとなんとなく僕のクラスの数学担当教師」
この奔流は止められない。この感情の流ればかりは、抑えて来た僕でもどうにもならない。だから今、全て流し切ってしまえば良い。この流れに身を任せてしまえば良い。
正しいのか間違いなのか、だって? そんなの、人付き合いでの言葉の暴力と違って、すぐには分かんないだろ。だってこれは言葉じゃなく、行動なのだから




