無自覚な世界
ログアウトして、意識が現実世界の肉体に戻り、HMDを外しつつ、うなじに刺さっている蚊針を抜いて『NeST』に収納させる。そして今日のプレイングを振り返りつつ、麦茶を飲もうと椅子から立ったところで、小さく「ひっ」と悲鳴を上げた。
「ああ、もうログアウトしたんだ?」
そんな風に言いながら、冬美姉さんは寝転んだ姿勢で僕へと視線を向けていた。
リアルに戻った直後、普通なら居ないはずの人がそこに居るのだ。そりゃ誰だって驚くだろう。だから悲鳴を上げたっておかしくはない……多分。
頬に畳の跡があるから、うたた寝していたに違いない。あと、僕がログインしてから来たんだろうけど、冬美姉さんがやって来るなんて、僕は一言も聞いちゃいない。
急用ならわざわざ直に訪れなくとも、メールを送信さえしてくれれば仮想世界に居る僕にだって届くのだ。冬美姉さんの訪問は実に非効率的と言える。
「いつぐらいからここに?」
「んー、涼がゲームを始めた直後ぐらいかしら」
言いながら起き上がり、大きく背伸びをする。
「ログアウトするまで待っていたのよ」
「いや、リアルに戻った直後に一人暮らしの部屋に誰かが居たらビックリするから、やめて欲しいんだけど」
それを気遣いとは思えないし、思いたくもない。僕は『NeST』の画面に指を滑らしつつ、もう一方の手はマウスを掴み、パソコンをシャットダウンさせる。
「じゃ、合鍵を姉に持たせたことを後悔すれば?」
こういうことを平気で言うんだもんな。
「大学はこっち方面じゃなかっただろ?」
「ネタで入れた講義が地域振興をテーマとした科目なの。なーんで理系なのに文系の自由選択科目を取っちゃおうとか思ったのかしら」
「その科目の一環で、こっちに?」
「外を歩いて地域に根差す文化を見ようってことでね。現地解散だったから、ついでに寄ってみようと思ったの」
冬美姉さんはグデーッと畳に横たわる。
「涼、ご飯」
「自分で作れよ」
「涼のご飯が食べたいのー!」
「ふざけんなよ……」
怒りを抑えつつボヤく。
「家に帰れよ。母さんも父さんも心配するだろ」
「ウチって放任主義でしょ。夜遅くに帰っても怒られないし」
「それは冬美姉さんが品行方正で悪目立ちしないし、前の家族会議でちゃんと更生することができたって分かっているからだろ。夜遅くに帰ったところで、冬美姉さんに男の影なんて一つたりともできたことがないじゃないか」
自身の姉のことなら、なんでも知っている。ついでに罵倒だってできてしまう。
「VRゲームをできるようにしてあげたのは誰のおかげだと思ってるの? その雑費は誰が支払っているのかなー? ゲームも無料じゃなくて有料だしー、まぁそれは涼がバイトして払っているんだっけー? そんな理由でバイトを始めたなんてお母さんとお父さんが知ったら、悲しむだろうなー」
「ふざけんなよ……」
もはや、この言葉しか出て来ない。
「……ま、そんな意地悪はしないけど。だって、理沙ちゃんに頼まれてやってるんでしょう?」
不意に冬美姉さんは優しげに微笑み、上半身を起こす。このどうしようもない元FPS廃人がここまで真っ当な人間に戻れたことは奇跡だと思う。
良いことを言っているようで、その実、悪意がたっぷり込められた言葉をあの頃はどれだけ浴びせられたことだろうか。
「幼馴染みに頼まれたら仕方が無いだろ」
「ふぅん、それだけ?」
「それだけ」
「……理沙ちゃんは涼のことを一番分かっている子だから、さすがに両親にチクって悲しませるわけには行かないか」
どうやら僕がVRゲームをやっていることを黙っていてくれるらしい。今、初めて知られたわけでもないのに安堵の息が零れた。
「相変わらず、涼は『Armor Knight』をやってんの? FPSに比べたら、随分とマシな方だとは思うけど、程々にしないと昔の私みたいになるわよ?」
「もうなったことあるし」
「…………そっか」
二度目の家族会議に思い至ったらしく、冬美姉さんは視線を逸らして沈黙を誤魔化すかのように立ち上がる。
「あの頃に比べたら、私は今の涼は真っ当になったと思うけど?」
「あの頃のことは思い出したくない」
人生の中で最大の黒歴史になる予定だ。
「私も思い出したくはないけど、時折、寝る前とかに思い出してしまって死にたくなるわ。特に私はFPSだったから、思い出せば思い出すほど怖くなってくる」
「なにが?」
なんとなしに訊ねたのに、冬美姉さんはどこか言い辛そうな表情を浮かべていた。
「対人戦、楽しい?」
「そりゃ、COMと戦うのに比べたら楽しいよ」
アルゴリズムや思考ルーチンに左右されない動きを取る。対策を立てれば難なくクリアできるミッションよりも対人戦を優先してプレイしている人は多いだろう。
「涼のやっているゲームはロボット物だし、FPSみたいな要素もあるにはあるけど、それそのものに比べたらマシなのかしら」
「だから、なにが?」
「人を殺している実感……無いでしょう?」
ズンッと肩に重いものが乗る。そのまま座り込んでしまいそうなほどの重みだった。
「殺している?」
「そう。ゲームの中であっても、私は人を殺していた。FPSは戦争物がほとんどだから、間違いなく私はこの手で、銃火器を持って、同じFPSプレイヤーを撃ち抜いて、殺していた」
「いや、だってあれはゲームじゃんか。ゲームの中で人が死ぬことなんて無いよ」
「それが当然の認識だけど、もしも違っていたら?」
「違っていたらって?」
「私の引いた引き金で、もしも本当にプレイヤーが死んでしまっていたら……どうなっていると思う? 人を傷付けることをどうとも思わなくなって、相手を痛め付けることに快感を覚えて、そうして自我が崩壊していく様を、私は私なりに分かっていながら抑制させることができていなかった。あの家族会議があって、ようやく私は『自分が人を殺していたら?』と仮定することで、ゲームをやめることができた。涼は、考えたことがある? あなたの手で動かしたロボットが、同じくプレイヤーを乗せているロボットを撃墜し、爆散させたとき……もしも本当に、コクピット内のプレイヤーまで死んでしまっていたら、なんて考えたことが、ある?」
「あのね、冬美姉さん。あの世界で起こったことは全てまやかしなんだ」
「そう、まやかしに過ぎない。でも、涼も私と同じようになっちゃったでしょ?」
「そりゃ……そうだけど」
そのことについては言い訳する余地も無い。
「傷付けることをどうとも思わなくなって、痛め付けることに快感を覚えて、そして自分自身が傷付くことさえどうでも良くなったよね……あのときに開かれた家族会議で反省はしているだろうけど、自制はできている?」
自制?
それは、人を傷付けることに躊躇いを感じているかってことだろうか。
最低限度の、人と人がコミュニケーションを交わすときに用いられる気遣いを、しっかりと相手に向けることができているのか。
自分が傷付くことをなんとも思わなくなって、コミュニケーションを放棄していないかどうか。
そういった一切を訊ねているように感じられた。
「できているよ。だから、前よりもマシでしょ?」
喉が渇いてきた。自分の言っていることに自信が無く、この空気に緊張を感じているのが恐らくは冬美姉さんにも見て取れただろう。
「頭のどこかには、ちゃんと置いておいて。現実も仮想も関係無い。あなたが感じている、あなたが見ているその世界は等しく、リアルを求めている」
「……分かったよ」
ゲームの主人公は等しく人を殺す権利を持ち、怪物を殺すことに躊躇いを持たない。それはどんなゲームにだって一貫して言えることだ。それら全てに警鐘を鳴らすような言い方に、少し納得できなかった。
「熱中したことのある私が言っても、仕方無いことか」
冬美姉さんは身を起こして、今度は部屋の隅に放り出していた鞄を手に取って立ち上がる。
「今日はもう帰ろうかな。ここって、泊まり禁止でしょう?」
「一応は」
「……誰か連れ込んで泊めているみたいな言い方に聞こえたんだけど。高校に入ってから、何人か連れ込んだわけ?」
「違うよ。ほら、どうしても泊めざるを得ない状況下においては泊めることを許すみたいな特例だよ。台風や大雪で帰るに帰られなくなった場合は泊めて良いってことになってるんだ」
学生及び、その学生を取り巻く一部の人物――友人やクラスメイト、親や兄弟姉妹に、宿泊を許可せず、結果的に悲惨な事故が起こらないようにするための大家さんの措置だ。
だからって、なんの理由も無しに泊めて良いというわけじゃない。
「本当の本当に?」
「僕の心配する前に、自分の心配しろよ。そういう性格だから男が誰も寄り付かないんだよ」
性格もそうだが、容姿が端麗であることも近付き辛さに拍車を掛けているように思えるが。
「弟に言われる筋合いは無いわ」
「だったら、僕だって姉に言われる筋合いは無いよ」
「年上の心配にはちゃんとした誠意を見せるべきだと私は思うわ」
「そういう年上振った人が嫌いなの、知っているだろ。どうせ、分かってて言っているんだろうけど」
「でも私のことは嫌いになれないでしょ?」
「……そりゃ、ね」
「涼のことは分かっているつもりだから。こんなお姉ちゃんを持ったことを誇りに思いなさい」
「はいはい」
そんな言い合いをしたのち、冬美姉さんは手をヒラヒラと振りながら部屋を出て行った。
冷蔵庫の麦茶を飲み、ようやく一息ついたところで、『NeST』のランプが点滅していることに気付く。
画面をタップして、受信ボックスを開く。受信数は一通だけ。ルーティでもなければ、運営からのお知らせでもない。
見たこともないメールアドレスから送られて来ている。そういったものは迷惑メールや場合によってはウィルスが混入されているメールが大半であるため、確認することなくゴミ箱へと放り込むのが常である。
だけど、なんとなしに、何気なく、本当に何気なく僕はメールを開いた。いつもなら捨てるはずのメールを、いつもとは違って、ただ開いただけのことだ。そう、なんにも深い意味は無いのだ。
「どうしようか……」
開いてしまったのが運の尽きであったのかも知れない。メールの差出人はテオドラさんだった。
僕はスズを演じている以上、テオドラさんとのフレンドは一時的なもので、明日にでも音声チャットで話し合ってフレンドを解除するという考えであったのだが、どうやら向こうはそういう思いでは無いらしい。ルーティ以外とチームを組むなんて、もうしたくないのに、なんでこんなことになってしまったんだか。
全て身から出た錆であるのに、自分自身よりも先にテオドラさんの無神経さを呪うのは、やはり僕が言い訳がましい男だからだろう。
本文にはもっと僕と話をしたいという旨が綴られていた。それも堅苦しいほどの敬語で、だ。
関わってしまった以上、無関係のままではいられない。人と人との繋がりとはそういうものだと、父親が酒で酔っ払っていた時に口にしていたが、どうやらそれは真実であったらしい。
仕方無く、僕は『返信』の文字をタップし、文章を綴り始めていた。
もう少しだけ話をしてみたいというのは自分も同じだという旨の内容を送り返していた。
あの時、僕とテオドラさんの思考はある程度まで重なっていた。プレイスタイルは違っても、熟練者の鉄則みたいなものと自身が培った経験から来る直感が重なったことで、ちょっとだけ親近感が湧いたという気持ちは、嘘では無い。
けれど、もう二度とチームを組むことは無いだろう。
だって僕は、友達が居ないのだから。




