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何もかも消える。ということは、地面だけでなく空気も消える。つまり、自由落下に加えて周囲から流入した空気に押されるようにして落下するということに他ならない。
若干の息苦しさを感じながらも、それを表情に出さずさっきまでとは何ら変わらない様子の青年は、水道管の切り口から水が大量に溢れるのを目にした。
青年のほうが落下スピードは速いから着地の瞬間に濡れることはないがだろうが、それでも濡れるのは確定事項であろう。
「……はあ」
濡れるのは構わないが、肌に張り付くシャツのどうにも言えない感覚にこれから直面するのかと思うと憂鬱だ。そんな溜息であった。
――ああ、誰かあの水をどうにかしてくれないものだろうか――
そう考えた瞬間であった。流れていた水が不自然に蠢き、本来ならばありえない速度で動き出し、その途中で氷となって青年のクッションとなって落下を止めた。固形特有の硬さはどこにもなく、ふにょんとでも効果音がつきそうな感触で青年を受け止めたのだ。
「んー……」
誰がやったのか、一瞬頭をよぎったが、特に気にすることではないと思考を放棄した。
その時であった。
タイミングなど関係ない。彼にも。彼女にも。ただの気まぐれであった。
「やはり貴方様は私の王に相応しい御方。ああ、お会いしとうございました……!!」
突然長身の、それもメイド服を着た女性が現れ、空中に留まりながら恭しく頭を下げる。そんな事が目の前で起これば、戸惑い以外に何があろうか。
青年は女性を観察するところから始めた。まず、肩でバッサリと切られた黒い髪。顔は見えないが、赤い角が頭から2本飛び出していた。
メイド服を着ているから良くは分からないが、豊満な体形はしていないだろう。少なくとも青年にはそう思えた。
「……誰?」
「怠惰王、ベルフェゴールで御座います」
「ふーん……」
聞いたところで意味はない。人の名前など、数秒後には忘れてしまうのだから。
だからこそ、青年は困惑した。まるで、出会う前から覚えていましたよと言わん限りに強烈に印象に残ったのだ。
「私の名を忘れないのが不思議ですか? それは当然です。貴方様の魂に私の名を刻みましたゆえ」
そう言われると、何故かしっくりときた。自分の内側にはっきりとベルフェゴールと言う名が刻まれているのに気付いたからだ。
「……」
「っ……!」
覚えてほしかったのだろう。つか魂なんてあったのか。それはいいとしても、勝手に身体を弄られたのは気に食わない。
そうはっきりと感情に出したのがベルフェゴールにも伝わったのか、ベルフェゴールは緊張し、。自分の失態を恥じていた。
「……次勝手に魂弄ったら許さん」
「はっ。失礼致しました」
その言葉が聞けて満足したのか、青年の怒気は霧散して再び無感情に戻った。
一方、ベルフェゴールはというと、自分への干渉を徹底的に嫌う青年に感動して涙を流していた。怠惰とは即ち、何もしないこと。無為な時間を延々と過ごし、他人との接触・干渉を忌み嫌う。青年は特にそれが顕著なのだ。
さっきまでの緊張と恥じはどこに行ったのやら。
「……で?」
「私は貴方様の願いを叶える為に姿を表しました。さあ、貴方の願いは?」
願い、と言われても青年にそんなものはなかった。生まれてから大半を無為に過ごしてきた青年だ。玩具や必要な物は周りの人間は勝手に用意してくれていた。自らこれが欲しいなどと言ったことは一度もない。
だからこそなのか。
「……変えてみよう」
気まぐれでそう口にした。それは願いではない。ただの提案であり、青年は五十音から適当に選んだ文字の羅列を口にしただけである。
それは果たして、ベルフェゴールの最たる願いでもあった。
「了解致しました。では、手始めに世界を壊してみましょう」
青年は紡ぐ。最も口にしてはいけないその言葉を。
「……壊せ」
「Νόμος μετατροπής. Αφήστε την επιθυμία του Κυρίου μας.」
それは本来ならばこの世界には存在しないはずの魔力を伴っていた。魔力と伴った言葉は言霊となり、実際に影響を及ぼす。
ベルフェゴールが口にしたのは、すなわち法則の変換。ではあるが、実のところ法則を破壊し、ぐちゃ混ぜにして適当に再構築するというものだ。
あらゆる法則を破壊した結果、どうなるのか。まず最初に、地理に変化があった。プレートが割れ、不規則に地面が動いた。世界各地で地震や地割れが発生し、ビル群や世界遺産なども軒並み瓦礫の山と化した。
次に変化が起きたのは生物だ。あらゆる進化を遂げてきた生物達の身体が弾け、歪に膨れ、合体し、変化し、異常な変化をごく短時間で遂げた。それは、人も例外ではない。
「……あっ、ギ」
ほぼ世界同時に、人々の人体に変化が起きた。
それは、子ども大人関係ない。ブクブクと脂肪が膨れ上がったり、筋肉が盛り上がったり、腕が増えたり、肌が変色したりなど、様々な怪物に変化していく。それと伴って理性も消えていく。ランダム、というわけではなく、一定間隔の地域ごとに変化していった。
だからこそ。
「グギイイイイイイイ」
「アギャギャギャギャハハハ!」
異なる集落同士の争い。人としての理性は失っても記憶はそのままなのか、かつて友であった怪物を無視するモノや、中学生の時の嫌いだったクラスメイトを惨殺する怪物で世界は溢れた。
当然、人のままだった者もいる。だが、身体能力が高まった怪物に襲われてはひとたまりもない。
「ヘキキキ」
「あ、やめ……」
「ブブフ」
「いいっ、ああ!」
生きたまま肉を齧られたり、犯されたりして確実に数を減らしていた。協力して怪物を倒した人たちもいたが、何しろ数が違う。後ろから襲われたり挟撃をくらったりして無惨な死体と化していった。
そして。
――ズドドドドドドドド!!――
空から雨のように降ってきた光の矢が怪物たちを一掃した。目の前で頭を光の矢が貫通して地面に伏せる怪物を目の当たりにした少女は、上空に人がいるのを確認した。
否。それは人ではない。真っ白な翼を持ち、同じく真っ白なトーガを身に纏っている人を、天使と呼ぶ。
少女は無意識に手を伸ばしていた。それは弟と友を亡くした事への後悔なのか。それとも殺した怪物に対する恨みなのか。
天使はそれに答えるように軽く頷くと近くに寄り添い、伸ばした手に自分の掌を合わせた。
凄まじい光。先ほどの光で死ななかった怪物達を文字通り消し去り、傷ついた人たちを癒していく。やがて、光が収まると、そこに怪物たちはおらず、癒された人たちと天使と一体化した少女のみ。
「――子羊たちよ」
瞑っていた目を開き、言葉を紡ぐ。どこか幼さを残しながらも、神々しさを醸す少女の言葉に感銘を受けて拝む人も現れた。
「私は熾天使ウリエル。我らが主からの御言葉を伝えます。約束された地に赴きましょう」
おお……! と歓声が上がる。そのままウリエルの後ろを歩き、どこかへと歩いて行った。
「……ふ~ん」
それを眺めていたのは青年と、すぐそばで佇むベルフェゴールだ。
「いかがでしょうか? 不満ならばもっと壊すことも可能ですが……」
「いや、十分だ」
青年が求めていたのは変化だ。朝起きて、朝ご飯を食べて、学校に行って、夕飯を食べて、寝て、休日は何もしない。そんな退屈な日常を変えたかっただけなのだ。
変化を求めるという、青年が持っていた唯一の人間らしさなのだろう。
「では、これからどうするおつもりで?」
「んー……じゃ、お前の願いを叶えてみよう」
ベルフェゴールは叶えたい願いがある、と言ったことはないが、青年は見抜いていた。ただの勘ではあるが、的中したのかベルフェゴールは明らかに動揺した。
見抜かれた――ベルフェゴールはそう思った――ことに対して動揺したのではない。願いの内容が問題なのだ。
「よろしいのですか? 私の願いは……」
「別に気にするな」
そう、気にしない。例えそれが、世界の全てを虚無に戻すことだとしても。
「では、そのように」
「うん。お前で任せるよ、ベル」
ベル。そう呼ばれたとき、ベルフェゴールは満たされた。自分の願いを叶えずとも、この人に一生ついていこうと決断したほどに。
青年とベルフェゴールは、折れたスカイツリーの頂点から混沌とした街をただ眺めていた。
「……あ、ションベンしたい」